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日記:Twitterがなくなったら

どうもこんにちは。manyuです。

Twitterが運営体制やアルゴリズムの改革、さらにはユーザー層の拡大に伴って大きく変容しつつあるのを特段と肌で感じる今日この頃。私自身、Twitterの崩壊は前々から意識はしていましたが、いよいよ現実味を帯びてきて悲しい限りです。
今日はそんな「Twitterがなくなったら」という題材で以前書いたまま公開していなかった日記をピックアップして掲載しようと思います。

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『人生辛いことがあってもTwitterでワロタツイートにすることで日々を生きてるので、Twitterが消えたら自分も同じく社会に呑まれて消えてしまう』

『辛いことがあってもワロタで済ませていいねを稼ぐことで心を癒してるので、Twitterが消滅したら現代社会に揉まれて死ぬかもしれない』

『Twitter辞めたら「辛いことがあったときにいいねを稼いでワロタで済ませる」っていう最高の絆創膏が使えなくなるから普通に死ぬと思う』

私の古のツイートより

こんなにも僕の生活に強く根付いてしまったTwitter。
もしTwitterがなくなったら僕の生活はどれだけ変わるのでしょうか。
僕が普段行う『不幸や辛いことがあった際にネタツイートに昇華することで精神を保つ』という行為ができなくなってしまうのは大変な問題です。そう考えると、やはり人間は誰かと悲しみや苦しみを分かち合うことで打ちのめされずに生きている生き物なのだと考えさせられます。Twitterに限らず、不幸を笑い話にして誰かと会話することが心の傷を癒したり立ち直る手助けをしてくれているのでしょう。

その一方で、他人と群れることをせずに生きている人間を僕は尊敬しています。一人で生きるということは、日常の些細な悲しみや苦しみを笑い話にすることすらできずに、一つ一つ正面からぶつかって背負っていく強さを強いられるということだからです。阿良々木暦が「人間強度が下がるから友達は作らない」と言っていましたが、友達やTwitterに浸りきってしまった僕は既に人間強度が完全に緩んでしまっています。基本的に寂しがりやな僕は一人で作業をしていても、discordのどこかのサーバーで誰かがゲームをしていれば、友達がゲームをしている声をBGM代わりにする為に飛んでいってしまうのです。

しかし、そんなことではいけません。いつかどこかで「クリエイターたるもの孤独でなくてはならない」という台詞を聞いたことがあります。反骨精神やフロンティアスピリッツを養う為という意味でも孤独である意義は大いにある一方で、特に一人の時間を確保するという意味での孤独がやはり重要なのだと実体験からも強く感じています。帰り道、風呂、布団の中。一人の時間というものは、何かクリエイティブなことをする上で、自身の思考の整理をしたり自分の考えと向き合う為の重要なパーツの一つなわけです。
「孤独こそ人間が強烈に生きるバネだ」とタローマンも言っていたし、「打ち合わせ終わりの自転車で帰る時間が一番いいアイデアが思いつく」と田淵智也も言っていました。Twitter、LINE、Instagram、discordと、四六時中容易に誰かと接続することが可能な今、意図的に他人との関わりを断絶して一人の時間を作るという行為は自分が思っている以上に必要なことなのかもしれません。

Twitterがもしなくなったとしても、クリエイターとして生きていく為に人間強度をまた一から鍛え直して強い人間になって生きていく必要がある、いや、生きていかざるをえないのでしょう。

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