心の泥の行方|一色まこと『ピアノの森』
生きていると、誰しもの心の中に少なからず溜まってく"泥"。
相手に伝えたいことが、伝えられない。
「大人」という立場だったり、タイミングだったり、プライドだったり、いろいろなものが伝えることを阻みます。
溜まった"泥"がどんどん、どんどん心を蝕んでいく。消えたと思っても、どこからともなくやってくるのです。
「苦しい泥が少しも吐き出せてない‥むしろ体の中の泥が増えたようだ。カイくんの投げつけたナイフが‥すべて自分に返ってきたように‥心が痛い」
一色まこと『ピアノの森』20巻より
この物語は、過酷な環境で育ちながらも、天才的なピアノの才能を持つ少年カイが、ピアニストとして成長していく姿を描いたものです。
私自身、とても好きな作品で、何度も何度も読み返しています。今日は、その作品から印象に残ったシーンと私が抱える葛藤についてお話しします。
(今回は、敢えて悲しい場面を取り上げましたが、いつか素敵な場面についても書けたらいいなと思っています。)
「自分」と向き合うこと
物語のキーパーソンとなる、カイの同志でありライバルでもある、雨宮。雨宮は、ピアニストの父を持ち、幼少期から英才教育を受けるも、カイの才能に嫉妬し、執着していきます。
先のセリフは、2人が出場するショパンコンクールの最中、雨宮がカイに「ずっと君のことが嫌いだった」と告げるシーンのものです。
雨宮は、カイのピアノを心から愛するとともに、深い嫉妬の念を抱きます。自分のピアノを磨くことよりも、どうしたらカイの才能に近づけるのか…その思いだけで、ピアノを弾いてきました。
努力して、努力して、努力して。やっとの思いでカイと戦える舞台に立てたのに、結果は敗退。これ以上努力しても、カイには敵わない。その絶望感と、雨宮を心配するカイの優しさが、彼を苦しめます。
この物語の中で、私がもっとも感情移入してしまったのがこの雨宮でした。
雨宮を見ていると、私の中にある目を背けたい感情が溢れてきます。
「どうして上手くいかないの」
「こんなに頑張っているのに」
私も雨宮も、そう思ってしまうのは、本当の自分が見えていないから、なのだと思います。
きちんと向き合うべきなのは「自分」であるのに、足りないものを他人に求め、やがて執着となっていく…他人が持つものを、自分が持てるはずはないのに。
やがてその思いは行き場をなくし、執着するものに対して、投げつけられてしまいます。
それでも、消えない"泥"。
泥が増えたように感じるのは、"泥"の原因は自分の中にしかないもので、その原因をつくっている自分を変えない限りは消えないから、なのでしょう。
この後、雨宮は「自分」を見つめ、本当の意味での「自分」を見つけることができました。そしてカイとも和解し、新たなステージへと向かっていきます。
雨宮は、心の"泥"をきちんと浄化することができたのです。
私は、どうでしょう。
まだまだ、自分にないものを他人に求め、手に入らないことをただ嘆いているだけです。そして、泥の行き場を知りたくて、どこかにぶつけたくて、たまらないです。
こんな自分が本当に嫌にもなりますが、これが私なのだから、付き合っていくしかないのだとも思います。
ただダラダラと心の中にあるものを書き出してしまいました。
私の心の"泥"がいつか浄化できるまで、こうして記していこうと思います。
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