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紫式部の弟・惟規の逸話3選!【光る君へ】

こんにちは!
よろづの言の葉を愛する古典Vtuber、よろづ萩葉です🍁

今回は大河ドラマ「光る君へ」にも登場した紫式部の弟・藤原惟規(のぶのり)のエピソードをご紹介します。


姉・紫式部と弟・惟規

紫式部は幼い頃に母と姉を亡くしているので、父の為時が、紫式部とその弟・惟規を育てました。
一緒に育った唯一の姉弟なので、この二人は大人になってからも親しくしていたようです。

紫式部と惟規といえば、「紫式部日記」に書かれているこちらのエピソードが有名です。

この式部の丞といふ人の、童にて書読み侍りし時、聞きならひつつ、かの人は遅う読みとり、忘るるところをも、あやしきまでぞさとく侍りしかば、書に心入れたる親は、「口惜しう。男子にて持たらぬこそ、幸ひなかりけれ」とぞ、つねに嘆かれ侍りし。

「紫式部日記」より

うちの弟が子どもの頃に漢詩の勉強をしていた時、私はそれを横で聞いていた。
弟は暗唱するのに時間がかかったり忘れたりしていたところ、私は不思議なほどすぐ覚えてしまった。

この時代は女性が漢詩の勉強をするのは好ましくないと考えられていたので、そんな紫式部の様子を見た父の為時は「お前が男だったらよかったのに」と嘆いた、とのことです。

そう言いながらも娘が漢詩の知識を吸収していくのを見守っていたわけですし、大人になった紫式部はその知識を使って源氏物語を書いていくことになるので、お父さんとの関係もよかったんだろうな…という気はしますね。

その一方で勉強ができなかったかのように書かれてしまっている惟規ですが、おそらく紫式部の頭が良すぎただけで、惟規が特別勉強嫌いだったかどうかはこの記述だけではよくわかりません。

和歌の才能

「俊頼髄脳」「十訓抄」「今昔物語集」などに書かれている、惟規の恋愛と和歌の才能に関するエピソードです。
今回は「今昔物語集」を元にお話しします。

「今昔物語集」巻24
第57話「藤原惟規、和歌を読みて免さるる語」

村上天皇の娘・選子内親王が賀茂斎院だった時のこと。
選子内親王は長年斎院を勤めていたので、大斎院と呼ばれました。
「​​発心和歌集」という歌集を作ったとされていて、「大斎院サロン」と言われるほど文化人として名高い女性でした。

【発心和歌集】
斎院として長く神に仕えた選子内親王が、和歌により仏と結縁することを目的に編纂したもの

惟規は、その選子内親王に仕えていた女房・中将の君と付き合っていました。
夜な夜な恋人の元へ通っていたところ、警備の人に見つかってしまいます。
「どなたですか?」と聞かれますが、惟規は何も答えずに隠れました。
すると警備の人は扉を全て閉めてしまい、惟規は閉じ込められてしまいました。

困ったことになったので、中将の君は選子内親王に相談します。
そしてなんとか扉を開けてもらうことができましたが、惟規は出ていく時に

神垣は木のまろどのにあらねども 名乗りをせねば人とがめけり
(斎院の神垣は、かの木の丸殿ではないが、名乗りをしなかったので人に咎められてしまった)

藤原惟規

と詠みました。
これは天智天皇のものとされる和歌を踏まえて詠んだもので、それを聞いた選子内親王は感心したといいます。

朝倉や木のまろ殿にわがをれば 名のりをしつつ行くは誰が子ぞ

天智天皇

この話の最後には、「彼の惟規は、極く和歌の上手にてなむ有けるとなむ語り伝へたるとや」…惟規は優れた歌人だった、という言葉で締めくくられます。

実は惟規は、後拾遺和歌集などの勅撰集に10首ほど和歌が収録されています。
勉強嫌いなイメージが強いかもしれませんが、実際はお姉さんに負けないくらい歌詠みの才能があったんです。

【勅撰集】
天皇の命令により編纂される和歌集のこと。
勅撰集に和歌が載ることは歌人にとって一つの目標だった。

この惟規の恋人、中将の君については、「紫式部日記」にも登場します。
ある伝手があって、紫式部は中将の君の手紙を手に入れます。
詳しくは書かれていませんが、弟が恋人の手紙を見せてくれたんだろうと考えられています。

斎院に、中将の君といふ人はべるなりと聞きはべる、たよりありて、人のもとに書き交はしたる文を、みそかに人の取りて見せはべりし。
……(中略)……
文書きにもあれ、「歌などのをかしからむは、わが院よりほかに、誰れか見知りたまふ人のあらむ。世にをかしき人の生ひ出でば、わが院のみこそ御覧じ知るべけれ。」などぞはべる。

「紫式部日記」より

中将の君の手紙には、彼女がお仕えする選子内親王がどれだけ優れているか、和歌のことを一番わかっているのは選子内親王だ、ということが書かれていました。
それを読んで紫式部は無性にイライラしたそうです。

さぶらふ人を比べていどまむには、この見給ふるわたりの人に、
かならずしもかれはまさらじを。

(仕えている女房を比べて張り合ってみると、彰子様に仕える女房たちよりも大斎院の女房たちが優っているとは思えません)

「紫式部日記」より

…と文句を言っています。

それはさておき…
自分の主人は和歌に優れていると自慢げに書いている相手と付き合っているわけなので、このことからも惟規には和歌の才能があったんだろうということがわかりますね。
そうじゃないと相手にされなさそうです。

辞世の歌

では最後に、惟規の辞世の歌についてお話しします。
この話も「俊頼髄脳」などに収録されていますが、今回は「今昔物語集」から引用します。

「今昔物語集」巻31
第28話「藤原惟規、越中の国にして死ぬる語」

天皇の秘書的な立場である蔵人だった惟規は従五位下に出世し、父の為時が越後守に任命されて越後国へ行くことになったので、惟規は蔵人をやめて一緒に越後国へ向かうことにしました。
その道中で体調を崩し、越後国に着く頃にはもう長くはないと思われました。

この時代は、亡くなる寸前でも出家をすれば極楽浄土へ行けるという考えが流行していました。
出家しなければ、亡くなってから次の生を受けるまでの中有という期間に、寂しい場所で一人彷徨うことになると言って、僧が惟規に出家を勧めます。

すると惟規は、中有の旅では紅葉やすすき、鈴虫の声を楽しむことができるかと尋ねます。
それがあれば寂しくないから出家はしない、と答えると、僧は驚いて逃げてしまいました。

もう惟規の命が尽きてしまうと思った為時は、惟規に付き添います。
惟規が手を挙げたので、文字を書きたいのだろうと思い為時は筆と紙を渡しました。
そこに、

みやこにもわびしき人のあまたあればなほこのたびはいかむとぞおも

藤原惟規

このように書いて、最後の1文字を書ききる前に息を引き取ります。
為時は最後に「」を書きたかったのだろうと思って1文字書き足し、これを形見にすると言って泣きました。

都にもわびしき人のあまたあれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ

藤原惟規

この和歌は「後拾遺和歌集」にも収録されていますが、後拾遺集では

都にも恋しき事の多かれば 猶このたびはいかむとぞ思ふ

藤原惟規

となっています。

どちらの和歌も、都には大事な人たちがたくさんいるから、この旅を終えて、生きながらえて、都に行きたい。という意味になります。

順調に出世して、和歌も詠めて、お父さん思いだった惟規。
詳しい死因はわかっていませんが、突然病気になりあっという間に亡くなってしまったんです。
享年38歳でした。

その後、父の為時は任期を一年残したまま帰京し、今の滋賀県大津市にある三井寺で出家したとされています。

園城寺(三井寺)

その理由ははっきりしていませんが、紫式部がこの時期に亡くなったためではないかという説があります。
息子と娘を立て続けに亡くした為時の悲しみは計り知れません。

ということで、紫式部の弟・惟規の逸話をご紹介しましたがいかがでしたか?
お姉さんが有名すぎて影に隠れてしまいがちな弟ですが、惟規のことも知っていただけたら嬉しいです。


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〈参考・引用〉
やたがらすナビ「攷証今昔物語集(本文)」https://yatanavi.org/text/k_konjaku/index.html 紫式部 山本淳子訳注「紫式部日記」角川ソフィア文庫

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