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元物流従事者が観た映画【ラストマイル】Vol.3 組織と個人

かつてひとりの人間が身を挺して、自らを追い詰めた構造を停止しようとした。しかし、彼が飛び込んで止めたコンベヤはすぐに動き出した。彼の体をどけた途端、何事もなかったかのように平常運転を取り戻した。
ただ怒り、悲しみ、問題を起こすことでは、組織は変わらないのだ。

※この記事にはネタバレを含みます


1.構造という「生き物」


手を止めず働き続けて生産性を維持・追求することは、組織で働く身なら誰でも求められることだろう。中でも物流は社会基盤の一部であることから、その性質が顕著だ。
物を貯める、運ぶ。その行為自体ヒトと他の動物の違いを決定づける特徴であり、それこそが進化の過程に大きく影響したのではないか。
しかしそのヒトが操る社会の構造は、まるでそれ自体が生き物の一個体のように止まることがない。いや、止めることが許されない。止めたら、そこに付随する数多のものが止まって息絶えてしまうからだ。

羊急便・八木局長がエレナに放った言葉を思い出してみよう。「あなたはいつもそれだ。脅せば動くと思っているんだろう。デリファスさんに依存するようになって、デリファスさんの条件をのまざるを得なくなった。」
これはまさに私がかつて経験した環境だが、必ずしも流通業界に限った話ではないだろう。大企業の顧客から仕事を受けることは、自社のビジネス拡張を大きく後押しするが、膨れ上がる要求を呑まないと関係を維持できない。業務の割合が大きくなるにつれ、やめるにやめられなくなる。というのも今ある仕事がなくなってしまったら、自分達同様に頼ってきた末端に至るまでの全ての業者が仕事を失うからだ。
特定の企業に依存し、奉仕し、自社の体質をアジャストし続けることは、一度問題が起きた途端に関係する企業すべてを巻き込んで共倒れになるリスクを常に抱えている。

劇中度々映される、ベルトコンベヤ(倉庫、運動マシン)。物流の特性を象徴的に表すモチーフだが、走り続けないと生きていけないというのは現代の日本の資本主義社会で働く限り、誰しも一度は抱える思いだろう。
たまに脱落した人がいたら、自分はそうならないよう必死で頑張る。その結果生き残った人は、会社の期待に応えられることに優越感を感じてしまう。脱落した人は自分より弱かったのだ、と。
けれど考えてみよう。脱落することにも色んな形がある。それは誰の負けなのか?本当に負けなのか?

私は劇中のエレナや山崎ほど責任ある役職についていたことはない。けれど、似た道を辿る可能性はあった。その話を書きたい。

2.個人にできること

私の経験

一年目。楽しかった。今まで生きてきて絶対に出会わなかった世界を知れて、どんな仕事にもわくわくした。

二年目。挫折した。そりの合わない上司にうまく自分の意見を伝えられなくてただ耐えていたら、ある時爆発した。その結果、相手なりに工夫してうまくやろうと努力してくれていたことに気付けた反面、「仕事とはやりたくないこともお金の為にすることだ」と諭された。
とはいえ仕事の仕方が分からない時はある。だが周囲に対し「具体的にこういう助けが必要だ」と言語化する力がなかった。

三年目。躍動の年だった。
ある日、現場品質を問われる事件が起きた。原因は2点。作業員への教育不足と、品質モニタリング不足である。
当然是正報告書騒ぎに発展したが、最も顧客に近い立場で指揮を執るべき私の直属の上司は、英語が苦手で矢面に出ない。幸いマネージャーが助けに入ったが、顧客からの信頼はほぼ完全に失われた。そこから私は巻き返しを始めた。進行役を務めていた週次報告会議では資料の改善を試み、会議の進め方を見直した。顧客の質問に答えられず持ち帰り案件が増えることがないよう、社内で定期的な打ち合わせを設定した結果、テンポよく進められるようになった。徐々に顧客担当者からの信頼も戻り、新しい仕事を任せてもらえるようになった。社内でも、「やり方の決まっていない仕事を主体的に進める姿勢」を成長の証だと、評価された。
内心、「本来は直属の上司をもっと立てなければならないのでは?」と気を遣っていたが、認められたことは素直に嬉しかった。しかし次第に、「上司より自分の方がこの仕事に向いているんじゃないか」と思い始めた。それが、最初の思い違いだった。

今ならわかる。仕事がうまくできないなら、その人は居てはいけないのか。彼らなりに自分にできる形を探して頑張っていて、それでもうまくできないなら、現状を容認し育てない環境に問題があるのではないか(実際パフォーマンス評価制度は当時殆どなかった)。適材適所で、得意分野を活かして分担すれば組織としては十分ではないか。
だが当時の私は、他人と比較することで相対的にしか自分を認められなかった。

能力の限界に挑戦しつづけることに価値を見出してしまう人がいる。よく言われた言葉だ。「顧客はこっちのキャパなど知ったこっちゃない」
こうした環境では、キャパシティーに合わせて交渉して持続可能な働きをしていくという発想は、甘えとみなされた。むしろ、相手の依頼レベルに合わせてチームを成長させるのが当然。個人レベルでは、ひとつの事ができるようになれば次の目標が必然的に与えられ、それをこなし続けないと居場所がなくなるということだ。仕事を断れば評価は下がる。すると、陰で何を言われているか分からないという不安の中、仕事ができる/できてしまう人たちの結束の外で暮らす事になる。
また、不安を抱えた時に何をどこまで相談するかは、完全に自己責任だった。周りが相談しづらい雰囲気を作っていたり、相談した所で納得のいく結論に至らなかったが為に従業員が声をあげなくなったとしても、それは「言わなかった者の負け」なのだ。

話をもとに戻そう。
そのうちに眠れなくなった。PCに向かうだけで体がむず痒くなって、手が動かなくなった。仕事で読まなければならない膨大な数の指示書を読んでも脳が考えることを拒否し、思考が凍結した。コロナ禍で残業も増えた。色々な人に相談し、タスク管理だけでなく体調管理も自己責任だと考えを改めた。
その結果私は、多少気が咎めようと体調の悪い日は休むことにした。当日欠勤で現場に迷惑をかけてしまうこともあった。けれど自分を守れるのは自分だけ。私が会社の問題を告発して社内が大混乱になっても、顧客企業から契約を打ち切られてパニックに陥ってもいいと思っていた。
けれど今ならわかる。それでは何も変わらないし、自分も救われない。そして皺寄せが行くのは末端の働き手達だ。上述のような事態になってビジネス自体が消滅すれば、多くの派遣スタッフの生活がなくなるということを、私は考えていなかった。とにかく責任は考えず、現状をリセットできるならなんでもいいと思っていた。

四年目。異動した。チームの体質は変わらなかったが、席が倉庫棟から事務棟に移り、日光の差し込む部屋で働けるだけでうれしかった。

五年目。期待されていた。まだまだできると思っていた。

六年目。後輩ができた。
部下を持つということは、自分だけでなく部下の仕事の相談にのり、彼らのストレスをマネジメントすること。経験から学んだことを部下の育成に役立てられるのは楽しかったが、それ以上に彼らの仕事へのモチベーションをどう維持していくかが大きな課題だった。
またちょうど組織が大きくなったタイミングでもあり、上司と話す機会が減った。以前はちょっとした会話で「自分の仕事の仕方は間違っていない」と思うことができていたが、これからはさらに自分で自分をマネジメントしなければと強く思うようになった。さらに、他部署の過酷なサポート業務(深夜残業含む)も不定期で発生し、疲弊した。
一方、当時プライベートでもうまくいかないことがあり、仕事は絶対にやめたくなかった。毎日行ける場所がある、家庭の外に居場所がある。そう思うだけでどんなに仕事に救われたことだろう。
「私はできる。やれる。何があっても働き続ける」毎朝そう言い聞かせていた。

七年目。私はその仕事を辞めた。色々な執着を手放そうとした。
それまではただ求められる基準まで自分を鍛え上げることだけを考えていた。それは今自分がここにいていいと言い聞かせるため。
けれど最終的に、私は仕事に誇りを持てなくなって辞めた。
もしかすると私は、「物流という社会に不可欠だが、意識的に選ばなければ絶対に知ることのなかった厳しい業界を知ったこと」を誇りだと勘違いしていたのかもしれない。その自負は、厳しい競争社会についてこられなかった/ついてこないことを選択した別の社員との比較の上に成り立っていた。だから成長を止めたら、ほかの社員に軽蔑されると、見放されるんじゃないかと不安で仕方なかった。
本当はみな孤独に自分の置かれた状況と闘い、「自分はひとりだ。誰も助けてくれないから強くならなければならない」という誤解と歪んだプライドで自分を鼓舞していたのかもしれない。だが仮にそうだったとしても、私は気付かないふりをしただろう。なぜなら、自分の愚かさを認めることになるから。これまで積み上げてきた努力が無意味だったと思えば、自分を守ってきたものが剥がれ落ちてしまうから。
でも、それだけではもう続けられなかった。私は自分が納得できる手段で報酬を得たくて、そしてもっと身の周りで起きていることをよく見て生きられるようになりたくて、別の道を選ぶことにした。

最終的に、幸せは自分で見つけるものだ。
どこを向いて生きたいか、それに気付くセンサーは自分の中にしかない。

それが、私が6年半の経験から学んだことだった。

自分はどう在りたい?

劇中、五十嵐が言う。「自分には何ができたというんだ?」。
誰も助けてはくれない。それが組織だし、みんな自分のことに精一杯だから。けれどその流れについていくだけでは、自分もいつか構造からはじき出される立場になったかもしれない。そのことは劇中の5年前、血を流し意識を失っていく山崎をコンベヤから下ろした後、とっさに自ら着ていたコートを脱いでかぶせてやった五十嵐なら、一番わかっていたはずではないのか。

怒りは現状を変える原動力になる。けれどもっと大切なのは、周りをできる範囲で巻き込む事。その結果もし何も変わらなければ、そのループから逃げること。
だから、エレナはデリファス社を去っていくのだ。「亡くなった人はかわいそうだけど、毎日世界中で人は死んでるし、私には関係のない人たちだし」と言いつつも、次第に本音と建前のギャップに気付き、行動しながら考え、自分にしかできない選択をした。それがたとえ「逃げる」という解決策であったとしても。
その選択肢が山崎にはなかった。仮にあっても、決断できる状態にはもうなかったのだろう。
さらに、組織に追い詰められて傷つくのは当事者だけではない。家族には別の苦しみがある。筧は、最愛の婚約者を守ることができなかった絶望に加え、彼の父親から心無い言葉を投げられてどんなにか孤独だったことだろう。彼女にはエレナのように、ともに戦ってくれる人はいなかった。彼女の辿る道を悟っていたからこそ、山崎は病院に運び込まれてきた直後「ばかなことをした」という言葉を残したのかもしれない。

映画の最後、「あなたがほしいものは?」という問いが再び観客に振られる。
それは「ほしい」=消費者の欲望の根源を問う質問であり、同時に人としての本音に気付かせる質問だ。
つまりあなたには、何が必要なのか。何があれば、生きることを全うできるか、幸せでいられるか。
機械的な音声が発する質問は、そんな普遍的な問いもはらんでいると思う。

3.さいごに

無関係な人なんていない

ここまで映画を「物流倉庫の描き方」「外資系企業の文化の描き方」「組織と個人」の3章にわたって振り返ってきた。
本作が物流という社会に不可欠な機能を改めて意識させ、それにまつわる課題の認知度向上に貢献したことは言うまでもない。
社会問題を映画で扱う際、時には事実を真っ向から描くことも必要だが、娯楽作品の中に光る刺激の方が静かに個々人の生活に波及し、余韻となり、長く影響を与えていくこともあると思う。誰しも「普通」だと思っていることは、必ずしも他人と一致しない。働き方、家庭のあり方、ストレス解消方法。そのどれも、もしあなたが生まれた場所が違ったら、そこに至るまでの出来事がひとつでも違えば、別の常識の中で育てられていたかもしれない。世の中に無関係なことなどひとつもないのだから。
この映画がひとりでも多くの、様々な社会階層の人に、観てもらえますように。そしてひとりでも多くの物流従事者の今日が、過程に関わる全ての人の小さな変化で、少しでも明るくなりますように。

個人的感想

庫内のシーンで安全ベストを着用していたのが、コントロールルームに控える社員と一部の作業員だけだったのは残念だった。特にエレナには着てほしかった。
満島ひかりさんには本当に作業着が似合う。現場用の裾まで長さのある防寒コートや、機能的なローゲージ編みセーター。舞台経験が豊富で、体を大きく使うことに長けているのかもしれない。そんな彼女が動きやすいざくっとした服を着て、軽やかな身のこなしで倉庫中を走り回る姿は、いつもその場にいる人のような自然さだ。また、声や息遣いの躍動感。作業員への指示や現場リーダーへの声掛けのしなやかさ。全く違和感を感じさせない。都会的な服を着ればどこまでも垢抜けて見える人なのに、こんな風に現場の空気をまるごと体現したような牽引力も表現できるなんて、感度が高すぎだ。私が倉庫未経験の人なら、あの現場特有の空気の中にいるだけで気後れして、観察することしかできなかっただろう。
昔読んだ対談で、映画監督のケン・ローチ氏が、「イギリスでは映画で労働者階級の人々を描く際、俳優が本物の労働者階級出身の人かどうかはすぐわかってしまうため、慎重にキャスティングする必要がある」と語っていた。そこまで徹底したキャスティングがされている日本映画を私はまだ知らないが、少なくとも満島さんは役によって話し方や仕草、歩き方を変化できる稀有な俳優さんだと感じた。

現場からそのまま出てきた人のような自然さ

ほかにも忘れられない演技がたくさんあった。
特に、現場と顧客の板挟みになる八木局長の切実さ。
また羊急便のドライバー佐野家と、デリファス社から羊の枕を買った松本家は、方向性は違えど限界の一歩手前におかれた家族という点で共通している。
本当に、誰もが主人公になり得る物語だ。

演技以外では、音と光の演出が印象的だった。
例えば序盤、エレナが社内データベースから山崎のデータを削除した際、クリック音と同時に映像が早朝の駅に切り替わり、一気に灯りが点く。こうしたテンポの良さが、ただ重いテーマで終わることなくエンタメ映画としても楽しめる軽快さを持たせていると思う。
また天然光が、様々な箇所でうまく使われている。
特に終盤。ベルトコンベヤが停まりブザー音が鳴り響く倉庫を照らすのは、神々しいほどにまばゆい朝陽だった。外の光がさすシーンは日光の当たらない庫内の描写と対照的で、終始とても素敵だった。

最後に、シェアードユニバースというほどではないが、ドラマ『カルテット』(2017)との共通項を探すのも楽しかった。
例えば映画の中で最初にエレナの不審さを指摘する巡査部長・毛利を演じているのは、『カルテット』第9話で巻家を訪問し、真紀の正体を告げる富山県警・大菅刑事を演じた大倉孝二さんだ。さらに映画の終わり、エレナがパトカーの中で眠る姿は、『カルテット』の世吹すずめ(同じく満島さん)を彷彿とさせる。
きっと見返すほどに、新たな発見があるはずだ。
神は細部に宿る。


公式本を読めばもっと正確な考察ができたのかもしれないが、作品そのものから受け取った印象を重視して書きたかったため、登場人物のセリフに若干ずれがあるかもしれない。その点は、お許しいただきたい。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。