鹿島神宮ライドと鹿島信仰について
今日、行方市の天王津から鹿島神宮までロードバイクで走った。その時感じた鹿島信仰に関する雑観をまとめてみた。
天王崎から霞ヶ浦越しに見た阿波崎、浮島。この逆ルートを渡海してタケカシマによる征東が行われたと思われる。タケカシマは常陸国風土記に登場する征夷の将軍で、彼の墳墓とされる前方後円墳が水戸市の愛宕山古墳。
潮来到着。タケカシマがハードトゥキル(痛く殺)した那珂征東のための上陸地。ここにある潮来ホテルはガイナ祭95の会場で、エヴァが一般向けに初めて公開された場所。1995年の7月22日だから、ちょうど29年前なのね。
潮来から北浦を越え、鹿島台地へ。タケカシマが潮来を討ち拠点としたのが大生と考えると、そこと向かい合うのは現在の神宮がある橋向かって右の高天原の地ではなく、左の沼尾、坂戸がある宮中野一帯が在地勢力の拠点だったのではないか。
神宮橋たもとの豊浦から旧参道をすすむと、鎌足神社に至る。中臣鎌足はこの地の出身という伝承が散見される、鹿島への厚い信仰や、大中臣による祭祀の継承を見ると、全くよしなきこととは言えない。
物部氏との婚姻関係を考えると、匝瑳→香取→鹿島という、継体から安閑期にあった東国国造の討伐に副官として従軍し、匝瑳、香取は物部、前線の鹿島は中臣が駐屯したのかな。で、この段階では大生の祭祀とは別々だったのかも。
この数百年前に鹿島より北に古墳文化が伝播しているから、物部や中臣が行ったのは旧国造勢力の「征討」であり、まつろわぬ民への「征夷」ではないんだよな。となると今よりはるかに巨大だった那珂国造を討ったのではとなり、同時代の磐井の乱規模の戦乱ではあったのでは。
常陸国風土記はタケカシマ(那珂国造の祖)段階での征夷と、物部中臣による征討を区別にせずに征夷として一緒くたにしている。
それは中臣が旧勢力の祭祀を継承したからなんだろうな。たぶん。征討はしたが、悪いこととしては表立って書けない事情だったのだろう。記紀にも常陸征討の話は触れられず、続日本後紀の物部匝瑳宿禰の賜姓記事などに、当時の物部小事の征夷の記事があるのみ。
鎌足神社から鹿島城に沿って登れば現在の表参道、そこからJR鹿島神宮駅に沿って進めば、御手洗池側の参道に至る。これがおそらくかつての正式な参道。鹿島神宮の旧参道の考察については下記のツイートを見てみてほしい。
https://x.com/mantrapri/status/1184457621459259392?s=46&t=XveIYpV-AcVNCb_UREIYQA
この参道については香取にも同じ現象があり。現在のルートと異なる、奥宮、神宮寺、要石を通って本殿というルートなんだよね。神仏習合で神宮寺が境内手前に配される現象から推測してもこれがスタンダードなのかなと。
https://x.com/mantrapri/status/1233757254450634758?s=46&t=XveIYpV-AcVNCb_UREIYQA
あの要石は本当に最初から「あの役割」なのだろうかというのは気になるところで、実は本殿よりも重い、天の神を最初に下ろした場所なのではないかという気がしている。つまり社殿で考えるべきではなく、あそここそが両社のベースなのではないか。
御手洗から階段を登って、奥宮、要石へ。正式な参道から考えれば、奥宮が直線上に位置する正殿で、その奥に要石は奥津城のような配置なのである。
これは香取神宮も同じで、奥宮の裏側に要石がある。奥宮、要石というセットがこの両社でカーボンコピーのように共通している。そして本殿はこれらのラインから外され、離れた位置にポツンと存在する。
私は香取、鹿島の信仰は、元々は征討軍のベースたる台地に天の神を下ろす場所として設定された神域(要石)をベースに発達したものと考えており、その土地固有の性質から発したものではないと考えている。(戦略的要地という意味では固有の性質ではあるが)。
鹿島神宮に高天原が「あった」のではなく、あそこを征討し、ベースとして天の神の祭りをするために下ろしたので高天原に「擬した」のである。仏教やそれにより成立した八幡神の影響で天の神の祭りと、カーボンコピーのように類似神域を遷座させる性質が、かえって見えにくくなっている気がする。
鹿島神宮本殿。現在茅の輪くぐり実施中。
鹿島神宮、ピーカンな青空だが、この後大雨に降られるのである。(天の神ならぬ雨の神フラグ)
鹿島神宮から対岸の宮中野の台地を登り、坂戸神社へ。中臣氏の氏神とされる天児屋根を祀る。
坂戸神社のある台地。鹿島神宮の北側に位置する坂戸社の台地と、もう一つの沼尾社の台地はぐるりと沼を取り囲む広大なラグーンを形成しており、鹿島の台地よりもこちらの方が経済活動の拠点としては良さそうな気がするのだが、郡衙も神宮も鹿島の台地上に設けられ、ここは忘れられた感がある。
位置で言えばこんな感じ。鹿島の台地の北側に広大な田谷沼というラグーンがあり、そこを囲む台地上に坂戸沼尾の二社が展開する。特に坂戸社はラグーン内に突き出た半島状で、後世霞ヶ浦に展開する水軍城の立地としても使いやすい。
尚且つオレンジで示したように宮中野と塚原という一代古墳群が田谷沼を中心に営まれている。一方鹿島神宮の周囲には古墳群は極めて少ない。こうした分布からも、少なくとも古墳後期までの中心は田谷沼だったのではないかと思う。
さて田谷沼を登って沼尾社へ。この高台からはラグーンの立地がよくわかる。
沼尾社、いつ行っても入口が分からぬ隠しダンジョンの趣がある。毎回違う道に二回以上入り込む。インド人(スリランカ人かも知れぬ)の住んでるおうちの前を通るのがチャリでの正ルート。住宅地に突っ込むように見えるので、完全に初見殺し。
田谷沼の塚原古墳群の隣には、赤丸の位置に現在も塚原卜伝と同族の塚原氏が管理する大宮神社がある。ここが武甕槌を祀るので、田谷沼を囲む三方に春日社の祭神が揃うこととなる。このあたりの祭神名がいつからかは問題だが、現在の鹿島での祭祀以前に田谷沼での三社祭祀があったことも想定できるかも。
これらの謎は未だ解かれず、広大な田谷沼は静かな田園地帯として、今も佇んでいる。
そして田谷沼から北浦を挟んで対岸には、タケカシマを征夷の祖と仰ぐ多氏の大生神社がある。田谷沼三社と大生は対応関係にあり、両台地上にはそれぞれ、常陸でも有数の規模の古墳群が営まれている。
冥府へ繋がるような幻想的なJR鹿島線の橋脚。この後は潮来で「痛く」雹に降られるという形で常陸風土記を再演しつつ、スタート地点の天王崎へと戻った。本日の走行距離は53キロ。
おしまい。