女堀ライド 淵名大夫兼行の旧跡を巡って
はじめに:旅の目的
関東平野は土木事業によって保ちたる領域です。
ことに、治水こそが関東の形を作ってきたと言っても過言ではありません。近年の気候変動によって熱帯へと近づき、ゲリラ豪雨やそれに伴う土砂災害も頻出する中、それに対応する新しい治水の形を考えるという課題が、我々に課せられていると言っても過言ではありません。
古代より関東における治水は重要な課題でした。上野国(現在の群馬県)においては、浅間山や榛名山の噴火によって川は埋まり、地勢は変わり、その都度治水事業が必要とされたのです。特に天仁元年(1108)の浅間山噴火の被害は甚大なものでした。大量の火山灰が上野一帯に降り積もり、その被害で衰亡した上野国の復興のため、再開発が推奨されました。
こうした上野国再興のムーブに乗って各地に荘園が作られます。その代表的なものが鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞を輩出する新田氏の祖・新田義重によって開発された新田荘です。その左隣に位置するのが今回話題とする淵名大夫兼行(ふちなのたいふかねゆき)によって開発された淵名荘と彼が開発したとされる女堀です。
これは淵名荘への導水のため大胡郷の桃ノ木川より分水する形で設けられた18キロに及ぶ長大な導水の堀です。今回、その主要な部分を自転車で旅しました。
1 栃木県の思川から足利へ
今回の女堀を巡る旅は下野国(栃木県)思川の思川駅より始まります。ここは平安末期の武士・小山政光の供養塔がある満願寺からも近い場所です。彼を実質的な祖とする小山氏は、淵名を祖とする藤姓足利市と同族で、兼行の弟行高より出て、武蔵下野で繁栄します。両者ともに平将門を追討した藤原秀郷の血を引きます。鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡はこの両氏を「下野一国の両虎」と呼んで、その勢を讃えています。
ただ、私が思川からスタートしたのは純粋に駅前の駐車料金が4時間100円と安いからです。思川駅から西へ直進し、雨月物語で有名な青頭巾の大平山を越えると、行く手に岩肌を剥き出した山容が迫ります。
これは特撮の聖地。岩船山です。古くは人造人間キカイダーのクロガラス戦から、新しくは今のブンブンジャーまで、さまざまな特撮の決戦の聖地に使われてきました。下野国では仮面ライダーBLACK RXのクライシス本部があった大谷石の地下宮殿を凌駕する、一番の特撮聖地になります。
そこを越え三毳山(みかもやま)へ。令和即位の悠紀地方に選ばれた栃木県ですが、即位儀礼の調度である悠紀主基屏風に描かれたのが名峰三毳山でした。その山の北端に位置するのが天台宗山門派の祖で台蜜の大成者・慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)の誕生地になります。
私が通るこのルートは古代東山道が通過していた場所と言うこともあり、このような名所、旧跡が散見されます。さらにそこから少し行ったところにある犬伏の米山古墳は関東でも有数の巨大古墳とされていました。
ここは「犬伏の別れ」の地として有名で、関ヶ原の合戦の際に西軍と東軍にそれぞれ分かれて家名の継続を図った、真田昌幸、信繁と信之の別れの場となります。
フレディ・マーキュリーも来館した国内でも有数の伊万里焼の美術館・栗田美術館です。両毛線の線路を挟んで向かいには、藤で有名な足利フラワーパークがあります。
お昼は足利のスリランカ料理店シナモンガーデンでカレープレートを。このnoteでスリランカカレー関係の漫画も書いているのでよかったら見てください。
また後でこの時のカレーも記事にしたいと思います。
足利の中心街に入りました。サイクリング当日(8月3日)はあしかが花火大会の当日で、渡良瀬川の土手沿いに来場者席が設置されているところでした。
足利はご存じ室町幕府の将軍家・足利氏の出身地ですが、彼らが足利に入植する前にこの地に勢力を張っていたのが藤姓足利氏となります。淵名大夫兼行を実質的な祖とし、群馬、栃木、一族の小山、太田、下河辺氏も含めると武蔵下総北部にまで広く勢力を広げました。
足利将軍家は源氏なのでこれと区別して源姓足利氏と呼びますが、彼らは源義国の代に藤姓足利氏の援助を受けてこの地に入部し、息子の義重が新田、義康が足利と上野下野両郡に進出します。
この辺りの源氏と在地武士団との関係は、木曽義仲の父・源義賢が秩父重隆を頼り多胡、大蔵に入部した状況とも似ています。
源姓足利と藤姓足利の関係については、源平騒乱の中で足利義康の息子・義兼によって藤姓の諸氏を追い落とされることで、足利は源姓のものとなりました。
2 足利から国定へ
さて、足利を出て渡良瀬川沿いに進むと、太田金山城の山容が見えます。ここを過ぎると山裾に展開するのが鳥山(とりやま)です。ここは新田氏の一門でのちの里見八犬伝でも有名な里見氏が入植し、鳥山氏を名乗りました。後に愛知県にも進出するので、ひょっとしたら愛知出身の鳥山明にもつながるかもしれません。
国定忠治の地元。国定を越えると、いよいよ目的地の女堀は間近です。
女堀のスタート地点国定には多くの湧水があります。ここもその一つであまが池と呼ばれています。
現代でも炎天にもかかわらず、深々とした水を湛えております。女堀はこうした湧水群は避けて造営されているのも面白いですね。
3 女堀の跡地を巡る
図に示したピンクのラインが女堀の推定地です。その南側に点々とある青い四角が湧水箇所です。大治五年(1130)に仁和寺の法金剛院領として成立したと考えられるのが淵名荘で、利根川と早川に囲まれた佐井郡(伊勢崎市)の西側一体に展開しました。ここに導水するために女堀は営まれたとされます。
現在、女堀の流路の推定値は西は桃ノ木川の合流地点から始まり、東は国定駅まで18キロにわたる長さで伸びています。もう少し東へ行けば早川に合流し、そこから南下、「STAP細胞はありまぁす」の小保方(本貫地なのか)を越え、淵名荘へと注ぐ予定となっておりました。
予定というのは、女堀は各所で開発されているものの。それらに通水の跡が見られないのです。これだけの遠大な計画、破綻するのも仕方ないかもしれません。
しかし女堀が実際に運用されている部分は現在にも残ります。それが粕川と桂川を結ぶ川上地区の水路です。上の写真では粕川に向けて高い場所から落水しています。こうした不自然な高低差も人工の水路であることを物語っています。
こちらは水路として実際に水が流れている女堀の様子。見た目は普通の用水です。
このように現代で活用されている区間はわずかで、大概は通水されずに広大な水路のみを残して放置されました。その代表格が川上地区を西へ行ったところにある赤堀花菖蒲園です。
4 女堀と藤姓足利氏の赤堀氏について
赤堀花菖蒲園は昭和58年に国指定史跡になったもので、堀の南部に位置する波志江沼の続く谷にエックス状に交差するよう作られるなど、巧みな設計がされています。
この女堀という名称も、使われなくなった用水路を媼(おうな、老女)にたとえたところから来ており、使われなかった用水路としての用語のようです。しかし川上地区など一部は運用されており、部分部分での完成、運用はされていたと思われます。
使われなかった堀ながらも、その名は赤堀というこの一帯の地名の由来となったと考えられます。赤堀は平安以前にはおそらく遡れない地名で、この地を中心に展開する女堀から採られたのではないかと推測できます。
ここを苗字としたのが藤姓足利氏支流の赤堀氏です。淵名大夫兼行の夜叉孫で、源平期に無双の勇士と謳われた足利忠綱、その弟康綱の一族が鎌倉期に赤堀氏を名乗ります。一部の子孫は伊勢に土着、四日市の地名由来となるなど、勢力を誇りました。
この伊勢赤堀氏はのちに織田信長の息子・信雄に従軍し、小牧長久手で討死したとされます。伊勢北部に多くの一族がいたことを考えると、愛知出身のラノベ作家で、アニメ脚本家のあかほりさとるは、あるいはその末裔かもしれません。彼はアジア最大の脚本家でヤッターマンやドラゴンボールや聖闘士星矢などの脚本を執筆した小山高生の門下ですが、小山氏が下野小山氏の出だと妄想すると、両者ともに藤原秀郷や淵名大夫兼行の血を引くこととなり、面白いですね。
5 東大室から二ノ宮地区にかけての女堀
女堀は赤堀菖蒲園で大きく蛇行しています。神沢川の上流につながる途中にあるのが、東大室地区の女堀です。
写真右側の土手は浅間山の火山灰が堆積した土地を掘り起こし、それを盛り立てることで築かれています。こうした処置は築堤のみならず田圃の復活のためにもなされ、火山灰に埋まった土地を掘り起こし、地中の降灰していない土を表にすることで、灰の影響を受けずに作物を植えることを可能としました。
こうした降灰の影響は田畑のみならず、女堀が展開する赤城山麓一帯の川の流路をも変えてしまったことが想像できます。
そうした状況下で、女堀が安定した水の淵名への導水目的に造営されたことは理解できます。が、遠い。遠すぎます。堀の開発が淵名荘のためだけならば、渡良瀬川の上流である桐生あたりから早川へと直接導水すればいい気がします。後の話ですが桐生は藤姓足利氏譜代の郎党・桐生氏の拠点であり、決して縁のない地域ではないはずです。
私は女堀の大工事の目的を、淵名のみならず、西隣の大胡郷、大室荘、東隣の新田荘も含む、赤城山の裾野全体に水を行き渡らせることと捉えています。
6 女堀と近代の灌漑用水との役割の類似
近代の北関東で造営された人工河川のうち、赤城山の麓に営まれた大正用水や、栃木県の那須岳の麓の那須疏水は、山裾下流の土地全体に広く水を行き渡らせ、耕作可能な地として潤すという役割を担いました。女堀にもこれに似た役割が期待されたのではないでしょうか。
新田荘の源姓足利市の新田義重と、淵名荘を中心とする淵名氏を祖とする藤姓足利氏は12世紀半ばには対立関係であったため、女堀を自領への利益のみを考えた送水と捉えがちですが、親の義国の代においては淵名氏と共同で、亡失した上野国の回復と経営に協働していたのではないでしょうか。女堀も淵名のみへの導水を目的と考えるより、周辺地域一帯の水利を回復する目的での導水目的に思えます。
図に示したように、女堀は東への流路の中で多くの河川と合流します。水勢の強い上流の河川の水を流域に分水することで、下流の田畑全体を潤す役割が期待されていたと私は考えます。
こうした工事は下流にある新田荘にも利益を及ぼします。下図のように新川その他東側の河川は淵名を越えて世良田、徳川、大館、堀口など新田荘の中心地域にも注ぎます。むしろ淵名と新田荘南部は領域的にも水理的にも強い共有関係を有しています。
新田といえば私たちは新田義貞やこの周辺に広がった彼の係累の太平記諸将をイメージし、その延長で源平期以前もとらえがちですが。源姓新田氏祖の義重の代には息子の里見義俊、山名義範、婿の矢田義清(彼の子孫からは日本水利史上最大のエキスパート集団・伊奈氏が輩出される)らの本拠地は一社八幡宮のある八幡荘を中心とした高崎以西に位置し、源平以前の新田については、上流の淵名を中心とした藤姓足利氏の方が影響を及ぼしやすい地域であったとも考えられます。むしろこうした現在新田荘南部で捉えられる地域は、当時は淵名の領域に包摂されていたのでは、新田郡衙からも遠いし…。
これと似た話で、下野宇都宮は元々紀姓宇都宮氏の中心地で後から藤原道兼流の藤姓が来たにも関わらず、現代の我々は宇都宮氏を藤姓と同一視しています。それと同じように、新田のイメージも源姓で上書きされたものなのかもしれません。
いずれにせよ、女堀は広い地域に水利を渡らせることを目的として計画され、通水は一部のみであったものの、その意義は後世に大正用水などの形で実現されたのではと考える次第です。
そんなことをつらつら考えらながら、目的地の伊勢崎駅に到着。ここからスタートの思川駅まで帰りました。いずれ新田荘と八幡荘を結ぶ新田氏ライドをして、この部分の認識を補強したいと思います。