”むじょう”ということ
電車で通勤している。
が、駅までは徒歩だ。片道30分程あるので、往復で適当な運動になる。道路ばかりだと季節の変化が感じられないので、いつも横道に逸れて河川堤防や農道を通る。小さな祠やお地蔵さんがあり、殊勝な訳ではないが頭を下げて通ることにしている。殊に感染症が蔓延している今は自ずと下げる頭が深くなる。春には桜や田畑いっぱいのレンゲなどが風景を彩り雲雀が高く上がる。そんな帰り道だった。
少し先の曲がり角にビニルのゴミ袋が落ちていた。
まったく、お行儀の悪いやつもいるものだなぁと拾うために近づいて驚いた。カラスだった。それも事切れている。人間で言えば「気をつけ」の姿勢をした格好でだ。よく見ると片側の羽の付け根に大きな傷があった。仲間内の喧嘩か、他の動物にやられたか。予期せぬ死であったことに違いない。都市伝説ではなかなかカラスというのは死に姿を見せないらしいが、外的要因なら仕方があるまい。
そういえば、10年ほど前赤信号の停車中、斜め前の電線に止まっていた三羽の雀のうち一羽が突然落ちてきて歩道の脇で動かなくなった。他の二羽は何事もなかったうように電線の上で囁きあっている。ビックリしたが、何かに殺られたわけでもないので、あれは突然死だったのだろう。
眺めながら、カラスや雀には自分の「死」というものを想像できるのだろうかと考えた。人間は、経験の積み重ねを記憶として保持し「過去」と位置づける。そしてそれを基に、「未来」を予想する。その中には自身の「未来」も入っており、着地点は「死」だ。積み重ねた経験上にある「死」は安楽というより恐怖を呼ぶ。それに対して安寧を求めて「宗教」が生まれたのだろう。一方、他の動物は恐らくだが、明確に遠い未来を予想するというより、「現在」の直後にくる瞬間を次々に経験と”本能”で嗅ぎ分けているようだ。だから、「死」は本能的に回避する対象であろうが、「恐怖」というわけではないのではないかと思う。恐怖を感じる暇もないというべきか。
明日になれば、もしかしたら数日のうちに、他の動物か、それとも心ある誰かが、丁重に”片付け”ていくのだろう。そして、その場は何もなかったように「日常」へと戻っていく。日常はそういった出来事の繰り返しの中で、徐々にそして静かに変化していく。「無常」ということかとも思う。
そこまで考えて思い出した。
小学生の頃、授業が退屈でよく教科書にいたずら書きをしたものだ。国語の授業中、挿絵として描かれていた浜辺の漁船の帆柱を折り、船腹に穴を開け、ボロボロにする落書きをしていた。見つけた先生が叱りながら、「君はこれを見て何を感じるか」と聞くので、「むじょうです」と答えた。すると先生が、おっ、とした顔をして、「なかなか難し言葉を知ってるやないの」と言い、褒めてくれたことがあった。今だから告白する。先生、あれは「無常」ではなく、「無情」のことでした。すみません。