憧憬の頂 <ヒマラヤ・メルー峰北東壁>
インドヒマラヤ・メルー峰北東壁
シャークスフィンShark’s Fin 6540m
文・馬目弘仁
再見、シャークスフィン2006年8月31日、2年ぶりに見る「シャークスフィン」。この同じ場所に足を止めて見つめるのも、これで4回目になる。キャラバンの最終日、ガンゴトリ氷河からの急登を登り切るとそこは草原となり、突然のようにメルー峰が現れる。その光景を僕はこれまでどんな気持ちで眺めてきたのだろう。いまはとても静かな心境だ。呼吸も心拍数もまったく変わらない。絶対に登るという信念がある。陳腐な言葉などいらない。挨拶は、ただじっと見つめるだけで十分だ。
今回は、ハンモックを使ってのアルパインスタイルで登るつもりだ。厳密にはカプセルスタイルといったほうが正しいのかもしれないが、僕たちの意識は短期速攻を狙うことで一致していた。それが僕たちの唯一のプライドといってもいい。ポータレッジを利用してじっくりと攻めるカプセルスタイルは、たしかに成功の可能性を高めるかもしれないが、そんなことはもう二度とやりたくない。予定では、C1を出て登頂してから戻るまでを1週間と考えた。燃料と飲料は多めに持つが食料は実質5日分を用意し、ザックの重量はギアを除けば20kg前後になるように抑えた。国内でやれることはやってきた。あとはただ登るだけだ。
忍耐、そして決す。
ハプニング多き高所順応を済ませ、3日間の休養を挟んで再びABCに上がってきたのは9月18日。いよいよ明日からアタックが始まる。僕はこの期に及んでも静かな心境だった。勢いよく燃える炎とは違う、だが決して消えることのない熱き魂こそが大事なんだと信じていた。
出発当日の19日早朝、雪。昼頃から天候が回復してきたので、出発を夕方に遅らせてC1に上がった。20日、雪。予定ルートの下部は雪崩の通り道なので動くわけにはいかない。21日、待望の晴れだ。手持ちのロープ7本を張りに出るも(アタックにはメインロープを含めて5本使用の予定)15時頃から再び雪。夜半には猛烈な降りとなった。すさまじい雪崩の音がテントの中にも響いてくる。フィックスロープやデポしたギアが気になる。22日、雪。やることもなく停滞。すでに食い延ばしをして3日目にはいっている。腹が減ってしかたがない。このままアタックに出るのは論外という状況だ。いったんBCに降りて再起を図るのが妥当と判断した。
23日、風が強いが晴れだ。降雪直後なのですぐに行動するわけにはいかない。昼まで様子をみることにした。そのあいだ、今後どうするかをもう一度話し合った。BCから再起を図るとして最低6~7日は必要だ。今日から始まった晴天の周期がそれまでもつとは考えられない。晴天は長く続かないと予感できた。では、現実的なクライミングとして何ができるのだろうか。
僕たちは、明日このままババノフの初登ルートに変更して頂上を目指すことに決めた。さっそくロープを回収して明日のアタック準備を進める。停滞による消耗など感じさせないほど僕たちは活気を取り戻しはじめ、モチベーションは衰えるどころか、むしろより燃え上がったとさえ思う。
<アタック開始>
9月24日、4時頃C1を出る。右手の雪壁に下降してひたすら登る。2001年、2004年は雪がとても少なくてブラックアイスが剥き出しだった。日が差す日中は氷が解けて浅く埋もれている石が爆弾のように落ち続けた。今回は多少雪崩の危険はあるものの安心だ。簡単な雪壁と思っていたが部分的に深
雪がたまっていて、アンカーをつくるのが一苦労だ。岩壁の基部に達してからのルートの取り方が迷いどころだった。いったん大きく迂回する雪壁を登り出したものの、あまりの不安定な雪質に行き詰まってしまった。どうするか? トップは右往左往したもの、結局は岩壁をダイレクトに登るしかなさそうだ。下からやかましく指示されてもトップの花谷は意に介するふうでもなく、再度方向転換して登りだした。岩壁の基部に達するとうれしそうな声がする。どうやら登れそうなラインがあるらしい。
トップを交代して黒田が行く。瓦を縦に重ねたようなグズグズの摂理だが弱点は一目瞭然だ。ただ、かなり危険がともなうだろう。苦労しているのが手に取るようにわかる。トラバース気味にルートがのびているので後続は右手のオーバーハングした壁を空中ユマーリングし、ザックはロープで荷揚げすることにした。次のピッチは若干傾斜が落ち、雪の詰まったガリー状に見えた。簡単に登れそうなのでトップには軽めのホールバックを背負ってもらったが、これは裏目にでたようだ。予想外に厳しいようで、ランナウトした状態のまま悪いフリークライムで核心を越えようとしているらしい。
真っ暗になった頃にビレイ解除のコールがあり、3人とも心底安堵したものだ。ユマーリングしてみると、よく頑張ったなとねぎらいたくなるような悪さだった。次は僕がトップだ。ヘッドランプを頼りにグサグサのミックス壁を登る。勘を頼りにリードしていくと雪のテラス状に出られた。これ以上は行動しても埒が明かない。現在地がどのあたりなのかよくわからないが仕方がない。標高約5800m、今夜はここでビバークだ。横一列に4人が並び、立ったままお茶を沸かして各々の行動食をかじった。零時ちょうど頃、やっと一段落ついて特製のハンモックに潜り込んだ。思ったほど寝心地も悪くなく、疲労も手伝ってか熟睡することができた。
<遠い頂稜>
9月25日、快晴。僕自身は体調も気分も爽やかだ。明るくなってみると、心配していたよりもリッジの頂に近いところにいるらしいことがわかった
簡単に右側から回り込んで反対側に抜け出られそうだ。岡田がトラバース気味にラッペルし、そこからさらに回り込んで先を見に行く。奴はふり返って片手を挙げ、ガッツポーズで応えた。やった! このまま調子よくいけば今日中に頂上に達するかもしれないじゃないか。すると自分と代わって様子をみてくれと言う。どうやら雪質がかなり悪いらしい。
信じられない思いのまま交代して登り出してみると、すぐにやばいなと感じた。花崗岩のスラブにサラサラの雪が載っているだけなのだ。苦労してなんとかピトンを打ってアンカーを作ったが、いつのまにか足元が崩れて手が届かなくなってしまった。さらに次のピッチは悪かった。アイゼンがガリガリと岩を掻く。膝と肘のフリクションを最大限きかすように這うように進んだ。50mロープいっぱい登っても、まだサラサラの雪だ。ダブルロープのうち1本を解いて落とし、接続してもらってリードを再開した。
スノーリッジの真上に出たかったが、蟻地獄に落ちていってしまいそうな感触に、右方向へと無理やりトラバースさせられてしまう。遠くに黒光りする部分が見えた。あそこが硬い氷に違いない。はやる気持ちを抑えて慎重に進み、結局80mをノープロテクションでのばすことになった。こういうのは精神的にぐっと疲れるものだ。そこから先も変則的にロープをつなげて進み、スノーボラードでアンカーを作った。こういう状況でのルートファインディングや精神的安定度など、自分でもしぶとくなったなと思う。こういったクライミングはやはり経験による部分が大きいのだろう。
さらに右にトラバースしていくとガッチリした氷が出てきた。これなら安定したプロテクションが取れる。トップを行く花谷は勢いが違う。楽観的な気持ちになり「あと5ピッチもあれば主稜線に出られるかな?」「うーん、そんなもんじゃねーのぉ」という会話を何度繰り返したことか。だがいっこうに稜線は近づかない。昼過ぎには日が陰り、気温が猛烈な勢いで下がってきた。この頃には全員「全力をもって挑戦すべき手強いルート」と切実に感じたことだと思う。
<お座りビバーク>
15時くらいから天候が崩れてきた。雪だ。主稜線上には猛烈な雪煙がたなびいている。スノーシャワーが激しくなってきた。トップの岡田とルートの取り方でしばし意見交換。もっとも登りやすそうなラインは猛烈なスノーシャワーに見舞われている。間欠的に落ちてくるデカいやつは危険すぎる。いっそ雪崩といいたいくらいだ。岡田は右のリッジ状に登りだすがとても可能性が薄く、結局クライムダウンしてきた。どうするか? 危険そうな左側のガリー状に突っ込むしかなさそうだ。あたりはすでに暗くなってきている。ここは俺の出番だ。強い自負心に押されて交代した。
ヘッドランプを付け、ダウンジャケットを着込んでしっかり夜間登攀に備えた。運よくでかいスノーシャワーはすべてビレイアンカーに着いてから浴びたのでなんともなかった。しばらくするとスノーシャワーはおさまってきたが、こんどは肝心の氷が薄くなってきた。傾斜はそれほどでもないが、悪いミックス壁を80mほどノープロテクションでのばした。ヘッドランプでは距離の間隔がうまくつかめない。稜線直下の雪庇まで届きそうな感じなのに……。焦るなよ、慎重に行けよと声に出して進んだ。
雪庇に達してみると素晴らしいビバークサイトになりそうだとわかった。しかも10mもトラバースすれば雪庇の切れ目まであって容易に乗り越えられそうだ。安堵感に満たされた思いを大声で下の仲間に伝えたつもりだが、実際聞こえたのだろうか。全員がユマーリングしてくるのを待つ間、雪庇の隙間を削ってひたすらビバークサイト作りにがんばった。
今日はほとんど飲まず喰わずのわりには驚くほど元気だった。今晩はハンモックのフライを被っただけのお座りビバークだ。僕は体育座りが腰にしんどくて一睡もできなかった。となりの黒田は神妙にじっとしている。まさか寝てるんじゃないかと疑ったが、本人曰く熟睡していたそうだ。なんて奴だ。少し腹立たしくさえなったものだ。
<頂上へ!>
3時に起きた。お茶を沸かしたら出発準備をするだけだ。食欲はまるでなかった。それよりビバーク中の無理な姿勢が祟って僕は腰が痛くなってしまった。みな疲れが溜まってきているのだろうか、
動きが緩慢な感じがした。このいま、僕が先に動かないとパーティー全体が遅くなってしまうと感じてトップに立った。主稜線には簡単に這い上がることができてうれしかったが、待望の向こう側の光景は感動を呼び起こすようなものではなかった。冷たい風を吹き上げる底なしのV字谷、そして正面に見えるテレイサガールにも、凄まじいなあという単純な感想しか湧いてこなかった。ここから先はまともなビレイが期待できそうもないので、ロープを解こうかと花谷に聞いたが、彼はロープを結び合いたいと即答した。それならそれでいいよ。まあ、本望だ。互いの命を繋ぎあうのもいいだろう。
目指す頂上はもうすぐ。でも感情の高ぶりはなかった。とにかく風が強く寒かった。まったくの空身で登っているのにペースも上がらない。それでもついにその瞬間はやってくる。ロープがいっぱいになったので、頂上手前20mくらいのところでピッチを切った。するとフォローしてきた花谷が「あんたが先に行くべきだ」と言う。そんなこだわりは俺にはないから順番どおりでいいんじゃないのと返した。だが「俺がこだわるんだ」と言われると、もう断るわけにはいかない。
それからだ。涙が止めどもなく流れてきてしまったのは。もう足元がおぼつかないくらいに。いろんなことが胸をよぎった。目指したヘッドウォールからの登頂を断念したその時点で失敗といえるだろう。ヘッドウォールを登らずしてシャークスフィンの完登はないと僕はそう信じてきたし、いまもそう思っている。でも、それでもこうして頂上に登ってきた自分は抑えようもなく、どうしようもなく感動していた。解放感か?そして安堵感なのか……。僕たちがたどってきたババノフのルートの内容が充実感を与えてくれたことも大きい。花谷と抱き合って泣いた。しばらくして岡田、黒田も到着した。僕はまだ涙を流したまま2人と抱き合った。
下降そして帰還頂上には20分くらいしかいなかったように思う。あまりに厳しい寒さのこともあったが、下降のことを考えると長居はできない。僕と花谷はほとんどを後ろ向きでクライムダウンしたが、プロガイドの黒田、岡田コンビは前向きでどんどん降りていく。さすがだなと思う一方で、気をつけてくれよと年甲斐もなく心配してしまった。僕自身はこの3月の北岳バットレスでの前科があるので、慎重にクライムダウンを続けることにした。なにせロープを結んでいる以上、自分の行動には2人分の命がかかっているのだから。 ビバークサイトに戻り、これから大仕事の前にお茶を沸かして一息入れることにしたが、とたんに眠くなってしまった。みな、なんとなく気の抜けた感じだ。
相当に疲れたが溜まってきたのだろう。下降が始まり、体を動かすとみな元気を取り戻し、登りの際に作っておいたⅤ字スレッドの支点がしっかり残っていたおかげでスムーズに下降することができた。標高差1200mをすべて懸垂下降し、21時頃には無事C1に到着した。その晩のテントでは遅くまでいろんなことを語り明かしたものだ。
翌27日はのんびりとC1を後にして、同日夕方にBCへと帰還した。登頂祝いに持ってきたシャンパンがすこぶるうまかった。12年かけてやっと美味い酒をBCで飲むことができてうれしい。ちょっぴりほろ苦くはあるけどそれは、とても心にしみる豊かな味わいであった
鱶鰭同人インドヒマラヤ登山隊2006
馬目弘仁 1969年生まれ。松本クライミングメイトクラブ(CMC)所属、文科省登山研修所講師。1994年バギラッティⅡ峰南西ピラー初登。その遠征時に見たメルー峰シャークスフィンに魅せられ、96年、01年、04年に挑戦するも敗退。
黒田 誠 1973年生まれ。CMC所属、日本山岳ガイド連盟認定ガイド。04年のシャークスフィン遠征に参加。ほかカナダ、ヨセミテ、パタゴニアなど。
岡田 康 1973年生まれ。CMC所属、日本山岳ガイド連盟認定ガイド。ヨセミテ、カナダ、ペルー、ヨーロッパアルプスなど。
花谷泰広 1976年生まれ。信州大学学士山岳会所属。04年のシャークスフィン遠征に参加。ほかヒマラヤ、アラスカ、ペルー、中国など。
行動概要
8月23日 出国
28日 ガンゴトリからキャラバン開始
31日 BC(タポバン)入り
9月4日 ABC設営(4800m)
8日 C1設営(5300m)
13日 順応活動終了 BCにてレストおよびアタック準備
18日 ABC
19~23日 C1停滞
24日 ババノフルートにアタック開始、5800mでビバーク
25日 主稜線直下6250mでビバーク
26日 7時30分登頂、21時頃C1に到着
27日 16時頃BCに帰還
31日 ガンゴトリへ下山
10月5日 デリー着
11日 帰国
*Rock and Snowより転載