渡りたい場所
毎朝の習慣。ジャージに着替え、川沿いの道をランニングする。川は朝の光を穏やかに返して、吹き抜ける風も心地よい。退職後も続けるルーティンだ。
だが困ったことに、最近はそれが叶わない。マナーの悪い車が増えたせいだ。川沿いのコース前の横断歩道で止まっても、どの車も止まってくれないのだ。この道は大通りの裏道で、混雑を避けてここを通る人が多い。混むのは仕方がない。
とはいえ、横断歩道というのは歩行者優先のはずだ。目立つ色のジャージを着ているのに、どの車も速度を緩めずに走り抜ける。それどころかこちらと目も合わせない。あまり待っていても、自分のペースが崩れてしまうので、結局川の方へ渡れずに、向かい側の道を走って家に戻る。最近はその繰り返しだった。
(くそ、今日もか)
今日も川の方へ渡れなかった。コースを変えて走ればよい話かもしれないが、あの川沿いを走りたいのだ。ふと、風に乗って花が香った。道路向かいの、川の土手からするらしい。こういう、自然の中を走りたいのに、今日も排ガスの残り香を吸い込んでのランニングだ。いら立ちが募る。なぜ譲ってくれないのか。朝のペースを崩されたいら立ちは、家庭にも不穏な影を落とした。
「おい、今日も川の方に渡れなかったよ」
家に帰り、妻に声を掛ける。しかし最近はだんまりだ。元々、妻は寡黙な女だが、こんな風に無視される覚えはない。
(伸さんは亭主関白だからなぁ、今時は熟年離婚なんてのも流行ってるんだから、愛想尽かされないようにしないとね)
かつての同僚の言葉が浮かぶ。退職後、夫が長く家にいると熟年離婚を招きやすい、という話だったか。あの時はくだらないと思っていたのに、こうも続くとさすがに問い詰めたくもなる。
「三千子、どうして俺を無視するんだ」
料理する妻の背中に問いかけたが、やはり返事はなかった。怒りに任せてテーブルを叩くと、妻は怯えた顔をこちらに向けた。もういい、と声を荒げ部屋を後にすると、妻のすすり泣く声が小さく聞こえた。酷い気分だ。こんな時こそ、あの川沿いの道を走りたいのに。望んだせいか、今朝のあの花が香った気がした。
翌日も、渡れそうもなかった。強いて渡ろうとしたが、車は止まらずに猛スピードで走ってきた。思わずひるみ、目を瞑った。確実に轢かれると思った。しかし車は走り去った。恐怖におののいて、かすれた声で「馬鹿野郎」と叫んだ。冷や汗が遅れてあふれ出し、呼吸が荒くなる。ふと、背中に視線を感じて振り返ると、妻がそこに立っていた。
「三千子」
今のを見られていたのがきまり悪く、なあ、危ないところだろう、と声を掛けた。妻は「怖いところね」と呟いて、そのまま家の方へ歩き出した。買い物帰りだったのか、ビニール袋には俺の好きなコーラとお菓子が入っている。なんだ。無視されていると思ったが、違うのか。もしかしたら、妻には悩みがあって、自分の声が聞こえない時があるのかもしれない。向き合ってやらなくてはいけない。あの花の香りがした、気がした。夜は早く眠ることにした。
今日は走らず、妻の様子を伺うことにした。なんだか、随分と背中が小さくなったような気がする。親父が死んだ後のおふくろの背中が浮かんだ。外に出かけるようなので、着いていくことにした。声を掛けたが、何も言われないので、いいのだろう。
妻が向かったのは、あの川沿いの道だった。横断歩道の前に着くと、妻は荷解きを始めた。新聞紙を広げ、そこにあった花瓶の、枯れた花をくるんだ。新たな花を活け、ジュースと菓子を置き、そして――、手を合わせた。気が付いてしまった。ずっと香っていたあの花は、ジュースや菓子は、俺に向けられたものだ。ある朝、走りにいって、この横断歩道を渡ろうとして、俺は。ああ、思い出してしまった。
立ち上がった妻が、横断歩道の前で手をすっと挙げた。俺も倣う。何台か、不親切な車は通りすぎたが、手前の道の車が止まった。そしてそれに気が付いて、対向車線の車も止まってくれた。
「さあ、お父さん、渡りましょうね」
三千子が呟いた。やっと、ここを渡れる。そう気が付くと、涙があふれた。三千子がいてくれたから、やっと川の方へ渡ることができるのだ。二人で横断歩道を渡った。夕焼けが、川のせせらぎに光を散らした。
「綺麗な場所ですね」
三千子の眼に涙が浮かんだ。こんなことなら、もっと早く一緒に行けたら良かったんだ。悔いが残る。だが、三千子がここに来てくれたから、俺はあの横断歩道から解き放たれた。この場所を二人で歩けたのだ。
ふいに、あの花の香りがした。川辺の風に吹かれて満ちて、あらゆる痛みが消えていく。ごめんな、三千子。本当にありがとう。俺はやっと、行くべきところにいける。夕焼けの空が開かれて、そこに満ちた光が俺を迎え入れようとしている。その向こうにいる尊い存在へ、俺は願った。
――どうか、もう二度と俺のような人が出ませんように。