人生最高のレース

小学校で陸上競技と出会い、サラリーマンになってもなんだかんだ細々と続けている中で、今までの人生でのベストレースを挙げろと言われたら間違いなく挙げるレースが一つある。
中学校3年生の7月の地区大会だ。
俺はこのレースで優勝をした。そして、800を専門にしていこうと決めたレースでもある。良くも悪くも人生に影響を与えたと言っても過言では無い。

このレースに至るまでの道のり

中学校3年生になって、800に挑戦しようと思ったところがすべてのスタートだった。
当時の俺は長距離をしており、1500で4分45、3000が10分1桁、ロードの3kmTTで9分50。というタイムだった。
その時の中学の陸上部は非常に強く、市内や地区対抗戦では完全優勝。県駅伝でも7位入賞などを果たす強豪チームだった。
そんな中でこのタイムは悲しいことに対抗戦ではメンバー落ち、駅伝メンバーに入れるか否か。程度の力でしかない。
1500や3000ではどう頑張っても活躍できない。ならば、どうせなら今までしたことない種目をやろう。という事で800に挑戦を決めた。
実はそれまで800は1回しか出たことが無かった。中2の秋に新人戦の枠を埋めるために走った程度だ。
しかし、ここで5月の記録会で800やってみたいと顧問の先生に提案したが却下されてしまったのだ。今思うと、駅伝に繋がらない800をやらせる意味が無い。という事なのだろうと勝手に解釈している。
だが、それでも諦めずにゴネて6月の記録会で挑戦させてもらえることになった。
ここで2分10秒というタイムを記録した。当時は県通信の標準が2分10秒00だったため、県通信を着れなかったことを非常に悔しく思った。だが、このレースで先生からの評価がガラッと変わったのを今でも覚えている。
この後、再度県通信の標準突破に挑戦するものの切れずに県通信出場の夢は消えたのだった。

地区対抗戦へ

こうして迎えた地区対抗戦の800はタイムレースながら俺が入れられた組は各校のエースが集まっている。1500や3000で県通信の標準を切っているような選手が集まっている。事実上の決勝戦のような組だった。
勝てるはずもない。県総体の標準の2分07を切れる気もしない。けど、せめて2分10は切りたいな…という思いで臨んだ。
800のレースを午後に控えたお昼ごろ、思いもよらない情報が入ってきた。有力選手の1人であるK君が絶不調だという。そのニュースにびっくりしつつも他にも強い人はいる。無用の情報だった。
そうして俺はスタートラインに立った。

レース展開

ベストの走りをするしかない。そう思ってスタートした。
オープンレーンになり、幸運にも2番手という好位置を取ることができた。
ホームストレートに入る300m地点で俺はあることに気が付いた。
ペースが遅すぎる
この組の中で一番弱いのは俺だ。なのに、ついていけている時点でこの集団のペースは明らかに遅い。もしかしてこれは得点狙いのスパート勝負…?
様々な考えが頭に浮かぶ。しかし、何も出来ない状態で1週目を通過した。65秒で通過という、非常に遅いペースだった。
そのままラスト300に差し掛かった時だった。先頭を引いていたK君が突如ペースダウンしたのだ。彼を避けるような形で思いがけず先頭に立ってしまった。
この時、何を思ったか「このまま逃げるしかない」そう感じて思い切って切り替えてスパートをした。
800においてラスト300からのスパートというのはよほど持久力に自信がある選手しかできないような芸当だ。のちに先生からは「ラスト300でしかけるなんてよほど強い選手か愚か者しかできない」といわれたのを覚えている。
そのまま600を1分35くらいで通過して、無我夢中で逃げ続けて4コーナーを曲がって直線に入った辺りから記憶が無い。気が付いた時にはタータンの上で仰向けになっていて、視界には祝福にきた同級生の女子2人の顔があった。

エピローグ

タイムレースだったが、このレースで優勝という結果を得ることが出来た。
タイムは2分10秒という優勝タイムとしては決して速くはないタイムの優勝となった。恐らく、大会史上最も遅いタイムの優勝かもしれない。
この優勝によって、推薦枠で県総体への参加も出来たのはとても嬉しかった。一度はダメだった県大会への参加ができたのだから。
県総体はただ走っただけのレースになってしまったが…
なので、県通信は出てないのに県総体は参加したという、千葉の陸上を知っている人ならわかってくれるようなレアケースとなった。

これと同じくらい燃えるようなアツいレースをもう一回体験したい。というのは今でも思う。この時の感触をまた味わいたくて走っている部分もある。

またもう一度この時のような勝利の味を味わえますように…

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