葬儀と最後の贈りもの
先週、大叔父、祖父の兄が亡くなった。
享年92才、肺癌だった。
亡くなる3日前までピンピンしており、体調を崩して入院してからも、誰もが元気になって帰ってくると思っていた。驚きだった。
大叔父とは、7年前の祖父の葬儀で初めてお会いした。
それから、祖父の実家である大叔父の寺へ時折お邪魔するようになった。
昨年からは布教でも呼んで下さるようになり、お会いする度に沢山お話をしてくれた。
祖父とは年子だったが、幼少期に祖父が養子に出されたからか、兄弟というより友達のような感覚だったそう。
会うたび私の知らない祖父の姿を沢山聞かせてくれて、また祖父と過ごした私の話も、とても嬉しそうに聴いてくれた。
また来年の春には布教でお邪魔する予定だったので、次は何を話そうかと考えていたところだった。
大叔父の葬儀には、多くの方が参られた。
社会福祉にも長年大きく貢献されて来た方故、政財界の著名な方々からも多数の弔辞が届いていた。
そんな話も、葬儀で初めて聞いて、知った。
私は僧侶という立場上、一般の方より葬儀をはじめとした仏事に携わる機会は多い方だと思っていた。
しかし、純粋な参列者としては人生で三度目だ。
布教使として、これまで様々な教えを法座で説いては来た。
しかし、そのどれもが机上の空論だったのではないかと思えるほど、実際の場は雄弁だった。
時も、集まる人も、その全てを以て「故人の生き様」が現れていると想った。
そこで紡がれる御縁は故人より齎された最後の贈りもの。
大叔父が亡くなったことは間違いなく残念で、哀しいことだった。
しかし、その哀しさはどこか清々しく、心地好さすら私の心へ残していった。
「葬式ってしなきゃダメなんですか?」という問いを受けることも増えた昨今。
今なら、胸を張り、心を込めて「必要です」と言える。
葬儀や仏事の場で出遇う人々は、みな「故人」という共通の縁を以て集まる。
葬儀を通し、祖父や大叔父の紡いだ御縁に触れ、そこに己も繋がれたことが嬉しかった。
ただの食事会では難しいような人も「御斎」の場では誰もが縁者として、心同じく対等に話してくれる。
こんなに有難く豊かな場が他に有るだろうか。
金銭や物質には限りがあるが「御縁」は誰もが受け取れる唯一の遺産なのだ。
どれだけ便利になっても人と関わらずに生きることは出来ないこの世界で、善い御縁は後世を生きるものへ遺せる一番のエールかも知れない。
そんな宝ものを誰もが取りこぼすことなく受け取ってゆけるよう、僧侶として繋いでいきたい。
大叔父、先輩僧侶として一番大切な想いを残してくれてありがとう。
でも、またおじーちゃんの話したかったよ。