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春季永代経法要@慈泉寺
様々な御縁を頂き勤まった、此度の春季永代経法要。
新しい試みといえばそうなのだけれど、どれも「なるべくして成った」ような、どこか懐かしさがよぎるありのままの帰結であった。
そして、それは「歴史の踏襲」から来る影響が大きいように想う。
伝統文化を受け継いだ人々によって、演じられる数々の業。
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「大切な人との別れを受け、何も失わずに生きることは出来ないと実感した。でも、貰ったものを守り繋ぐことは出来る。失うからこそ、貰ったものを大切にしたい。」
法話であれば「念仏相続」とか、そんな言葉でいくらでも説明はつくだろうを
しかし、幾千の語を尽くしたとしても、この笛の音には敵わないと想った。
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「笑うことは大切。大きな声を出して笑えば、身体も心も健康になる。人はそういう風に出来ている。これは落語が生まれた頃から変わらない。」
「笑えば楽しい」なんて、誰もが分かっちゃいるけれど、分かっちゃいるが実現しづらい現実問題。
しかし、それも実際に身体の芯から大笑いさせられた後に言われれば、すんなり腑に落とすことが叶うだろう。
「あぁ、こういうことか」
百聞は一見にしかずというか、その実感はどんな言葉より意義深いものだろう。
そうした出遇いを経て聞くからこそ、法話は身に染み入り、糧となる。
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私達にとって「仏法」が有難いのでは無い。
当たり前の日常を「有難く」転ずるはたらきが「仏法」なのだろう。
日常が食材ならば、それを咀嚼する役割が仏法かも知れない。
だからこそ、人々は寺院にて仏法を学ぶに留まらず、寄り合い、「⚪︎⚪︎講」のような日常すら持ち込み、味わって来たのだろう。
日常と出遇うことで仏法は活かされる。
かような歴史が在ったからこそ、此度の法要風景はどこか懐かしく感じたのかも知れないな。
「新しいことをする必要なんて無い、ただ変わらなければそれで良い。」
半世紀ぶりに引っ張り出された高座。
「曾お祖父さんがあそこに座っていたのを見たことがある」
私達にとっては初めての試みでも、お寺にとっては「ひさしぶり」の光景だったのかも知れない。
そんな想いを胸に落とされた法要で御座いました。
尊い御縁に感謝。
妙晶 拝
▼Special thanks
篠笛奏者:井上雄介氏
和太鼓奏者:山本翔馬氏、和太鼓ユニット ヒカリ
落語家:笑福亭智之介氏、白鷺亭楽笑氏
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