掛けられた想い
大切な先輩が亡くなった。
今以上に駆け出しで、誰にも相手にされず孤軍奮闘していた頃、初めて「一人前の僧侶」として認めてくれた人だった。
僧侶という仕事にプライドを持ち、やり甲斐を持って全力で取り組んでいる人だった。
だからこそ、そんな人に「貴方なら信頼出来る」と任せて貰えたことが本当に嬉しくて、支えになった。
「大切な場を預かる」という気持ちは「大切に作り上げ、守る姿」を見せて貰えたからこそ、受け取ることが出来た。
今の私の胸に宿る矜持は、この先輩から頂いたものだろう。
また、私の活動についても逐一連絡をくれて、いつも我がごとのように喜んでくれた。
一人で抱えるしかなかった胸の蟠りも、共によろこび、共に憤り、「共に頑張ろう」と活力に変えてくれる同志のような人だった。
まだ何も無く、自分でも信じ切れない私のことを、真っ直ぐに信じ、一目置き続け、話すたび「貴方はこれからを導く人だから」と、期待を掛けてくれた。
「信頼を裏切りたくない」
そんな想いが芽生え、日頃の振る舞いや言動にも気を配れるようになった。
誰にも認められず「見返したい」という思いで直走る努力とは全く違う、他者の想いを背負い、受け取ってくれる人が在るが故の心地好い努力を教えてくれた。
私が「私だけ」のものじゃなくなった。
自分を高く買ってくれる誰かに出遇えたことで、私は私を大切に想い、承認欲求に呑まれた安売りから離れることが出来た。
自分にも他人にも厳しく、駄目なことは駄目だとハッキリ言う人だからこそ「貴方なら大丈夫」の一言が、私を救い上げてくれた。
もう直接励ましてもらうことは出来ないけれど、私を信じてくれた心が間違いじゃなかったと、この人生で証明してゆきたい。
そうして、いつか、私に向けられた期待が現実のものになるよう強く念う。
貴方のおかげで、私は僧侶になれました。
これからも貴方の背中を訪い、想いを引き継ぎ、信頼を心に宿し、いつだって胸を張れる道を歩みます。
本当に、本当に、ありがとうございました。
でも、だけど、やっぱり、もっともっと見ていて欲しかった。
これからだったんだよー、ばかぁ。
ありがとう、だいすき。