墨色の法衣と緑髪
私のトレードマークにもなりつつある「緑髪」
これについて、最近は特に「して良かったなぁ」と強く想う。
これによって「偏見」や「差別を受ける身」になれたからだ。
どれだけ一心に職務へ励もうと「目立ちたがり」「不良」「仕事を利用して売り込んでる」、そんな罵倒を受ける。
ようやく得始めた実績も「若くて女の僧侶は珍しいから」「たまたま外見や才能に恵まれただけ」と、努力は認められない。
これがちゃんと耳に届く状況に在れたことは、真宗僧侶として本当に良かったと想う。
そうじゃなかったら、私は多分、歯の浮くような性善説をほざくだけの綺麗事坊主になっていただろう。
僧侶が貴族だった時代、あえて屠沽の下類とも呼ばれる差別階級の人々の下は身を落とし、墨色の法衣を纏った親鸞聖人はこんな心地だったんじゃないかと想う。
自分勝手な偏見で生み出した悪意や敵意を簡単に他者へ向け、傷付けて、利用して、苦しめる。
それを「暴力」だと気付くことすら出来ない人間。
薄汚れた心を抱えたまま、孕んだままで、そんな奴らと生きていかなきゃならないのが人生。
許し難きを許し、「それでも共に」を呑み込んでゆくしかない。
そんな道を説いてゆく真宗僧侶として、必要な覚悟を感じた。
だから、そんな愚かさを一身に受けて「それでも許す」心を我が身で実践してゆけることは何よりも有り難い。
私は、叶うなら男に生まれたかったし、多数派の僧侶達と肩を並べさせてもらえる普通の僧侶になりたかった。
でも、持って生まれたものが違った。
だから、仕方ない。
「好きな服」と「似合う服」が違うことと同じ、与えられたカードで勝負するしかないよね。
私は今生で「それでも幸せになれる」を証明出来たら良いと想う。
人間嫌い、自分も大嫌い。
それでも、案外生きることは悪いもんじゃない。
そんな言葉を心の底から吐ける道。
ただそれを目指し、歩んでいけたらと希う。
ありがとう、だいすき。