こんな私ですが、よろしくお願いします。
今日は『結婚観』をテーマにした仏教講座を開催して来ました。
全5回の内の4回目です。
「衆生」「布施」「死生観」からの「結婚観」
ここはまぁ、浄土真宗だし外せないだろう。と。
あとは、個人的に…
私も遂に25歳、妙齢です。
結婚結婚って、言われるんです。
気にしなくても気になるんです。
なので、講座のテーマにしちゃって、参加者の意見を聞く中であわよくばスッキリ出来たらなぁと。
そんな下心もありーの。
そもそも、結婚に対して別に否定的な意識は無いのです。
「いんじゃない?」とは思ってます。
「したいならすればいんじゃない?」と思ってます。
その程度です。
自分に結びついとらんのですね、要するに。
経験の不足か、将来に対する先見性の浅さか、危機感の無さか。
興味が無い。
けれど、人生において重要な出来事ではあるのでしょう。
だから、「興味が無い」「なんとなく」で済ませるのは勿体無い。
から、向き合おう。
先ずは『先人に学べ』という訳で、親鸞聖人の結婚観から聞かせて頂きました。
仏教に関心のある方はご存知かも知れませんが、親鸞聖人は僧侶の身でありながら「結婚」を成し遂げた初めての方です。
何故僧侶の身でありながら結婚をしたのかと言いますれば、それは「誰の為の仏教か」を考えたから。
当時の仏教は「戒律を守ったものが救われる」教えでした。
戒律とは「剃髪」や「肉食の禁止」等の決まり事です。
けれど、それは「その為の生活」をせねば為せぬような事柄ばかりで「人間として当たり前の生活」ではありませんでした。
そこに否を唱えたのが親鸞聖人
『ありのままの私で救われる道こそが仏教である』
そらそうだわな。
週5勤務で子育てまでしてる人に「毎日ジムに通えばスタイルキープ出来るよ」って言うようなもんで、「そりゃそうだろうよ」としか言われませんわ。
まるで貴族の嗜み。
いやまぁ、そうなんですけど。当時は。
『ありのままの私で救われてこその仏教』
だからこそ、特別なことはしない。当たり前のことをする。ありのままで居る。
だからこそ、肉食も妻帯も公言の上で成し遂げた。
その結婚も『行者宿報女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽』という考えの元。
結婚相手=観音菩薩の化身
そもそも、結婚とは要らぬ苦悩を背負わせ合う罪深い行いである。
喧嘩したり、浮気したり、別れたり、お互いの汚い感情が幾つも見えてくることでしょう。
その上で、付き合ってゆくのです。
その為に必要なモノは?
大きな信頼と正直な反省。
人間は「未知」が怖い。
返事が遅いと不安になる、他の異性と歩いてたら疑う、心が見えないから。分からないから。
最初は信頼していた筈なのに、その気持ちは薄れてゆく。
些細な違和感やヘイトに呑まれ、共に在ることを諦めてしまう。
人間は、それが出来てしまう。
「嫌なら離れれば良い」
しかし、結婚となればそうはいかない。
嫌でも離れない、自分だけの問題じゃないから。
ならば、共に在る方法を考えよう。
汚い感情をぶつけても、ぶつけられても、それを受け止められるだけの『信頼の引き出し』を持とう。
親鸞聖人が「観音菩薩の化身」と落とし込んだように、私なりの落とし込み方を。忘れても思い出せる何かを。
これはきっと、結婚に限定されることじゃない。
結婚を選ばない人も、生涯を共にする友人は作るでしょう。
だって、年を経るに連れ他者に頼らざるを得ない時が増えるもの。
その際に重要になるのが、きっとそれまでに積み重ねて来た「信頼関係」。
ならば、結婚云々を関係無く身に付けていた方が良いでしょう。
そうしていつか、人生のパートナーと呼べる人と出遇えたら、それはとても幸福なことね。