HiGH&LOWにおける村山と轟の『影』の現象学
はじめまして。ザワで人生狂わされたただのオタクです。
お堅い学術論文みたいなタイトルをつけてしまいましたが、遥か昔の学生時代にちょっとユング心理学をかじった程度のど素人が、ぼんやりした知識でふんわりキャラ萌えを語るだけなので、なんとなくで読み流していただければと思います。
では、それ前提で、以下どうぞ〜。
人間が成長する過程において、未熟な自己の擬似的な「死」を経験し、通過し、より成長した自己を獲得する、ことを自己実現といいます。
この過程は大抵無意識の内に行われるので、意識されることは少ないでしょう。それでも、人によってはそれが非常にダイナミックに意識される場合もあり、その際には強い葛藤と苦しみを伴います。
そういう場合、興味深いことに、多数の人が似通ったイメージの体験をすることがあるのだそうです。ユングが「集合的無意識」と呼んだ、人類共通のイメージのことです。
「アニマ・アニムス」という名称を聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。あるいは「老賢者」「永遠の少年」「トリック・スター」など、人種文化を越えて世界中の童話や昔話、神話に登場するそうした要素を、人間が誰もが心の中に抱える無意識下のイメージとして、それらは「元型」という総称で呼ばれます。
その中に「影」という名前で呼ばれるものがあります。
今回は、「HiGH&LOW」の登場人物、村山良樹と轟洋介の葛藤と成長を、「影」の現象学を交えて語ってみようと思います。
(繰り返しますが、ただの関係性オタクが、「影」の心理分析と共通項が多すぎて燃え狂ったのを覚え書きとして叩きつけているだけですので、くれぐれも学術論文として読まないようにお願いします……!!)
さて。
ユング心理学における「影」とは、その人の抑圧してきた性質や、自分とは相入れないものとして否定してきた傾向の発露として現れる現象のことを指します。
たとえば、真面目にコツコツ生きてきて服装も地味な優等生タイプの女性が、同僚の服装が派手で振る舞いも自由な女性のことを「あの人はどうかと思う」と強く批判するようなことはよくありますね。
普通に正反対な二人だし、相性が合わないんだね、でスルーしがちな話なのですが、実はそこに、自分も本当はもっと自由に振る舞いたい、オシャレだって楽しみたい、という抑圧してきた欲求や願望が含まれていたりします。それを、他人に「投影」しているんですね。それはむしろ、相手の問題ではなく、その人自身の問題なのです。そしてその問題が解決されることで相手との関係性も改善されるものだったりします。
この人に必要なのは、自分の中にそういう願望があることを認めた上で、その願望を否定せずに受け入れて、生活や生き方に少しずつ取り入れていくこと。生き方の変化には大きなエネルギーが必要ですが、変わることは成長すること、恐れることじゃない、とはザワでも言われている通り、大人になる為の通過儀礼です。必要なことなんですね。
でも、自我が強い人であればあるほど、影は強くなります。その反発も並ではありません。影との対決は文字通り命がけの戦いになります。(ここら辺はいくつか症例を検索してみるとビックリするような実例がいくつも出てきますので、興味がある方は一度調べてみるといいかと)
この、「影との戦い」を物語として正面から描いたのが、A・K=ル・グウィンのファンタジー小説「ゲド戦記」です。(ジブリでアニメ化をされていますが、あれはこの作品の根っこにある「影」の問題を根こそぎ変質させているので参考には出来ません。原作の小説の方の話です)
魔法使い見習いであったゲドは、己の傲慢が元で禁じられた魔法を使ってしまい、そのせいで強力な化け物である「影」を呼び出してしまいます。(影はゲド自身を大きく傷つけただけでなく、友人の命も奪いました)
その影から逃げる為にゲドは旅に出ます。影はひたひたとずっとゲドを追ってきます。ゲドは旅をしながら、どうすれば恐ろしい力を持つ「影」を打ち倒すことが出来るのか、その方法を必死で探します。
過酷な旅を経たゲドは、最終的に老賢者から「影とは向かい合わなければいけない」という助言を得ます。
長い長い旅の終点、最果ての島のもっと先で、ゲドはとうとう、影と対峙します。どんな武器もどんな魔法も通用しない凶暴な影に向かって、ゲドは賢者の助言通り歩み寄り、抱きしめ、その名を呼びます。
「ゲド!」と。
影はゲドと一体化し、消滅します。影との対決方法はただ一つ、その存在を認め、名付け、己自身として受け入れること、ただそれだけだったのです。
この物語は心理分析の手順の教科書のようなストーリー展開になっています。(事実、ル・グウィンはユング心理学の影響下でこの物語を書いたと語っています)
人間の傲慢や、目を背けたい自分、というものから「影」は生まれ、その影から目を背け続けると本体の人生を阻害するほどの破壊力をもって突如として立ち上がります。
それに拳をもって対抗しようとしてもそれは叶いません。影を克服する方法はただ一つ、認め、受け入れ、抱きしめる(握手する)ことしかないからです。
●ケース1:村山良樹
抱えている問題:人生の目的を見失っている
村山の場合は、非常に分かりやすい、典型的な「影」との出会いとその克服のルートを辿っています。
さて、その村山良樹について、彼のプロフィールをおさらいしましょう。(これを読んでいる方でハイローを知らない人はいないと思いますが……)
鬼邪高の番長こと村山良樹。成人しているのは確かですが、正確な年齢は分かりません。「五留で一流」と言われ、ヤクザからのより良いスカウトを待つ為に喧嘩の技術を磨くファイトクラブ。それが「鬼邪高校」の「定時制」です。(後に全日制という、正真正銘の高校生が出てきますが、定時制の生徒は初期には学ラン着たりもしていましたが、基本的には成人済みの大人たちです)その定時制の、史上初の「番長」。
勿論、ファイトクラブなので常に学内でも喧嘩に明け暮れており、その中で自然と序列は出来ていたのでしょうが(現に、村山が番長に就任する前は一応喧嘩の序列が一番上の古屋が番長代理くらいの地位にはいたっぽい)、「番長・頭」と呼ばれる人間はいませんでした。(鬼邪高の歴史ってどのくらいなんだろう……)
なぜなら、鬼邪高にはとある決まりがあったからです。
「百発の拳に耐えた者が番長を名乗り、鬼邪高の頭になる」という、所謂「百発の荒行」です。まあ、一人一発、喧嘩自慢の百人の男に殴られても立ち続けられるなんてタフな男はそうそういないでしょう。現に今までそれをクリアーした者はいませんでした。
それを、ついに村山良樹がクリアーします。ゾンビと称されるほどの無限の耐久力で百発の拳に耐えた後、殴ってきた奴らに対し、「ケジメをつけようじゃないか!」と叫んで殴りかかります。百発に耐えただけでなく、その拳の強さも示して最強、最凶の名を手にしたのです。
やってることはクレイジーですが、形だけを見ると、まるでアーサー王伝説のようですね。岩に刺さった剣を抜くことが出来る者のみが王となる。こういう「英雄の試練」っぽいエピソードがあることからも、村山は非常に物語性の強いキャラクターだなと思いました。
その村山ですが、鬼邪高のボスになった理由が後に語られます。
「勉強でもスポーツでも何をやっても一番になれなかったけど、喧嘩だけは負けなしだった」
「てっぺんとったら何かが変わると思った。一番上からなら違う景色が見えるんじゃないかと思った」
つまり、村山は最初から何かの組織のリーダーになって偉そうにふんぞり返りたい(美味しい思いをしたい・益を得たい)と思っていたわけではなく、他に人より秀でたものが特にないので消去法で喧嘩の腕を磨き続け、彼がこだわった「1番」になれたら何か凄い景色が見られるんじゃないかと期待していた、ということなんですね。
正直これが、得意なものが勉強だったらガリ勉になって東大に行っていたでしょうし、野球だったらプロ野球の選手になっていたのかもしれません。喧嘩は彼にとって手段であり、目的ではなかったんですね。
なんだか意外で、純粋ささえ感じる動機です。取った手段は物騒ですが(笑)
で、鬼邪高の頭になった彼はその「凄い景色」を見る事が出来たのでしょうか?
出来ていない、と彼は思っていました。
喧嘩に明け暮れ、一応(家村会がクスリに手を出すまでは)ヤクザを目指していたと思われる彼はケジメには人一倍敏感です。鬼邪高に入学しながら逃げ出したチハルを追い、それを匿ったヤマトに対し「山王は鬼邪高にアヤつけるってことでいいんだな」と念を押します。
ファンの間ではよく話題になる話ですが、意外なことに、村山は煽り耐性が非常に高い。簡単な挑発には乗らないし、組織対組織の喧嘩に関しては慎重に手順を踏みます。この時も、山王の頭であるコブラが不在だった為、一旦引いています。相手に組織内で話し合って頭が結論を出すのを待ってやるんですね。
結局、色々あって山王のメンバーにこれ以上迷惑をかける(組織対組織の抗争になる)ことを恐れたチハルが鬼邪高に戻って制裁を受ける覚悟をすることでこの騒ぎは収束するかと思われました。村山的には、おそらくチハルがケジメをつけたらそれ以上は山王に乗り込むことはなかったんではないかと思います。(元々は鬼邪高内の問題が山王に飛び火しただけだったんで)
ですが、チハルを既に山王の仲間であると認めたコブラ率いる山王メンバーがチハルを取り戻す為に鬼邪高に乗り込んでくるという全面抗争に発展。村山対コブラのタイマン勝負になります。
HiGH&LOW世界には一つの決まり事があって、それが「キングとタイマンを張れるのはキングのみ」というものです。(テーマソング中の歌詞にも出てきますね)更に、そのキングとキングの戦いの決着は、周囲の戦況がどうあれ覆すことが出来ない、というお約束。(コンテナ街抗争の際も、琥珀が落ちた、という情報で抗争は唐突に終結します。キングが倒れたらそこまで、なんですね。最初見たときびっくりしました)
全ての決着をつける為に、コブラと村山は闘います。壮絶な殴り合いの末、村山の拳も、投げ技も、コブラに膝をつかせることはなく、最終的に地に伏した村山にジャンピングパンチでトドメをさした形でコブラが勝利します。
ここのところを覚えておいて下さい。コブラは地に伏した村山にパンチでトドメをさしています。
「俺とお前の何が違うんだ」
同じ、組織の看板を背負っている頭同士、何がこの勝敗を分けてしまったのか、村山は苦悶の声を上げます。
さて、ここまで書いてきましたが、村山がぶつかる壁であり、自己実現の過程で「俺とお前の何が違う」と我が身を省みるきっかけになったコブラ。彼は村山の「影」なのでしょうか?
多分、違うと思います。コブラは村山にとって、「老賢者」の立ち位置にいます。(あんな若いイケメンを老人扱いして申し訳ないのですが、これはあくまで「機能」の名称なので何卒ご了承のほどを!)
老賢者は、前述の「ゲド戦記」にもあった通り、主人公を導き、助言を与える賢人のことを言います。HiGH&LOWの中では勿論、コブラ自身も迷い、悩み、選択を間違える発展途上の若者ですが、村山はこの敗戦後、ややコブラを理想視してしまっているところがあり、彼を自分に助言を与えてくれる(ことを期待する)「賢者」として認識しています。
村山良樹の「影」は誰か。それは勿論、轟洋介です。
轟は、村山と違い、定時ではなく全日の生徒です。高校生です。どうやらこの時高校一年生らしいので、十五歳か十六歳です。なんてこったい。村山からしたら多分、五〜六歳くらい歳下です。ガキです。お子様です。でも、轟は立派に村山の「影」を務め上げました。
村山は、コブラに負けた後、明確に現状に対する不満を意識し始めます。
得意だった喧嘩で一番をとって、SWORDのてっぺんの一画に立った。誰よりも高い位置から見渡した景色は、村山が想像してきた「違う景色」ではありませんでした。
家村会のスカウトも断って、村山は完全に人生の目的を見失います。無気力に襲われた村山の前に現れたのが、轟でした。
轟は転校初日に全日の当時の頭だった辻と芝マンを倒し、あっという間に全日の頭を奪います。ですが、鬼邪高が二部制で、定時の村山が本当の頭だということを知った轟は、村山に挑戦することを決めます。
ちなみに、ちょっと脱線しますが、轟が村山の対の存在として設定されたことがハッキリ分かるのが、轟が村山に挑戦しに来た時に言った言葉です。
村山「頭になってどうすんの」
轟「拳一つで成り上がる」
村山「成り上がった先に何があると思う?」
轟「名誉と栄光」
村山「んなもんねぇよ。帰んな」
ここ、轟の台詞としてはちょっと不自然なんですよね。
轟の喧嘩の動機は(次章でちゃんと触れますが)あくまで不良たちへの復讐です。復讐の先に名誉と栄光がある、というのは現実問題としても言葉のチョイスとしても、ちょっと考え難い。この台詞は、少し不自然になってでも、村山に轟はお前自身の影である、と意識させる為の「用意された」台詞なんだと思います。
で、この後、轟は村山に寸止めのパンチを打ったり、トレードマークのバンダナを取り上げたりして挑発するのですが、煽り耐性が高く、轟を「相手をする必要のないガキ」と見做している村山は相手にしません。
轟も「つまんね」と一言残してその場を後にします。
頭とは何か、頭になっててっぺんに立ったところで見える景色が変わらないというのはどうしようもないことなのか。自分が今までやってきたことは無駄だったのか。後輩からの挑戦にも胸躍らない村山は、夏休み、と称して鬼邪高から遠ざかります。
そして、発破をかけに来た押上にコブラの名前を出された村山は、山王に足を運んでコブラに助言を求めます。
先程、コブラを「老賢者」と称しましたが、実はコブラは、村山に対して具体的な助言はほとんどしていません。「仲間の為に熱くなれるコブラが羨ましい」というのは村山自身から出た台詞で、「大事なのは看板背負うことじゃなくて、その向こうの仲間を守るってことだろ」なーんて助言をコブラがしたわけではないのです。
今までに何度も出た煽り耐性の強さや、既に自分自身で問題点に気がついて自問自答を繰り返していることからも、村山良樹という人間の精神は、既にそこそこ大人なんだと思います。(言動に子供っぽいところがあるので誤解されがちですが)
この場合、老賢者に必要なのは、本人が自分が既に出している結論に目を向けさせてやることだけ。村山が自分で「山王と鬼邪高の違いは何なんだ」「仲間の為に熱くなれるコブラが羨ましい」という二つの言葉を繋げるきっかけを与えるだけでいいんです。
そしてそのタイミングで、大切な仲間だと無意識の内に理解していた関や古屋という定時制の仲間たちが、轟によってボコられたことを知ります。
村山は、出来れば避けたかった「影」との戦いに駆けつけることになります。
「だからガキは嫌いなんだよ」
てっぺん取れば何かが変わると信じていた、名誉と栄光がそこにあると信じていた、何も知らないクソガキ。それへの怒りがその時ようやく村山の闘志に火をつけます。クソガキは轟洋介であり、また、過去の己自身でもありました。
手を叩いて煽ってくる轟に、ハッキリ自分自身の「影」を見ます。(ここまでハッキリ「影」の現象が演出として映像表現されることは珍しいんじゃないでしょうか。これはもう、完全に意図的ですね)
「俺はもう、お前に負ける気がしねぇ」
それは過去の自分自身に対する宣戦布告です。
以前、ツイッターで教えていただいたんですが、ここの村山vs轟のアクションシーン、かなりvsコブラと似てるそうなんです。比較してみると、全部一致ではありませんが、意図的に組み立てを似せている感じはしますね。勿論、元々の村山パートを轟が担っています。影ですから。
攻防の中で轟のキックが綺麗に入って、意識を飛ばしかけた村山は、必死に見守る関や古屋の姿を見て「自分の見たかった景色はこいつら仲間と一緒に見る景色だった」ということに気づきます。そして更に、それを轟(過去の自分)に教えてやるのが自分の役目だ、と目的意識にも目覚めている。
村山良樹の、覚醒、と呼んでもいいほどの急成長です。
そして、コブラがそうしたように、地に伏した轟にとどめの一撃を喰らわせる───と思いきや、その拳は轟のおでこの前で寸止めされ、その指先でぱちん、とデコピンを弾きます。
これ、凄くないですか? コブラフォロワーの村山ですから、ここでコブラに倣ってジャンピングパンチをしてもいいはずなのに、彼はそれをしませんでした。大正解です。
これ、ゲド戦記でいうところの、「抱擁」なんですね。すごい。影との戦いで一番大切な間違えちゃいけないところを、ちゃんと村山良樹分かってる。
「でもよ、仲間がいるだけじゃダメなんだよ。テメェが変わんなきゃ、どうやら世界も変わんねぇみたいだわ。轟、その内オメェにも分かるよ」
村山は「影」(轟)を「自分自身」と認め、抱擁(デコピン)し、お前は俺自身なんだから、俺が気が付いた真理にお前もきっと気がつく。そう結論づけます。
こうして、村山良樹の自己実現は成功しました。村山の視界は大きく開け、鬼邪高の真の番長として、SWORDの一画を担う人間として、一段階上に到達しました。ぱちぱちぱち。
(さらにモラトリアムからの脱出など、村山さんには何段階も成長の物語が描かれているので、そちらも分析したいところですが、それはまた別の機会に)
●ケース2:轟洋介
抱えている問題:トラウマの克服
長!!
割と正統派で分かりやすい経緯を辿った村山の分析だけでこんだけかかるとは思わなかった!
轟はもっと複雑なんで、頑張って読んでくださいね!!
さて、轟洋介。
実は轟の症例は、「影」との戦いに「失敗したケース」です。
これにはいくつかの不運が重なってしまっているのですが、そこら辺はおいおい解説します。
轟は、HiGH&LOWのキャラクターの中では非常に特殊な人物設定をされています。
作中でもかなりの強キャラ(SWORDの一画を担う鬼邪高の頭である村山とタイマンが張れるというのは、キングにはキングしか挑めないというHiGH&LOW世界では破格の扱いです。キング、もしくはキングに準じる強さを持っているとして位置付けされていると考えていいでしょう)でありながら、元々喧嘩が強かった生まれながらの強者ではない、という点です。見た目も黒髪眼鏡、改造していない学ランにノーマルな革靴、とまともだからこそまともでないキャラクターばかりの世界観の中では非常に異質です。
彼は、金持ちの坊々で、不良たちに理不尽な暴力を受け、カツアゲ等搾取されてきました。しかしある時、反撃すべきだ、と決意し、己をストイックに鍛え上げて強者の地位を手に入れます。
そして、自分から搾取した不良を叩きのめすだけでなく、この世の全ての不良たちを排除してやろう、と不良狩りを始めます。
動機は復讐ですが、もはや個人への復讐ではなく、「不良」という概念への復讐に変化し、狩った相手が痛みに呻いて転がる姿をスマホで写真に撮ってコレクションをする、という異常性のある、ある種の怪物へと変貌します。(この、写真コレクションに関しては色々考察が捗りますね。最初は、二度と襲われないようにする為の保険だったのかもしれません)
轟は最終的に「全国から不良どもが集まる」と聞いた鬼邪高へと転校してきます。村山クラスの力を持つ男ですから、全日の高校生など相手になるはずもなく、あっという間に村山への挑戦権を手に入れます。
村山が自分の挑戦を受ける気がないと見るや、彼の仲間である関や古屋を「卑怯な罠」にかけて袋叩きにし、村山を呼び寄せることに成功します。
轟は元々不良でも何でもない子なので、それが卑怯であって頭を狙う者としては相応しくない反則技であることを知りません。というか、知っていても関係ありません。結果が全て。
あと、ここで結論を言ってしまうと、轟は頭になんかなる気は更々ないので、頭として相応しくない、と言われても全然無問題なのです。
さあ、タイマンです。
しかし、ちょっと待ってください。
この段階で、轟はまだ、影との戦いに挑む準備がまったく出来ていません。
彼はまだ、自分の問題点も意識しておらず、どうしたいのかも自覚していません。彼の、「拳一つで成り上がる」という台詞は、あくまで村山良樹の為に用意された台詞であり、轟洋介の為の台詞ではないのです。この時の彼は、まだ薄っぺらく、本体が薄ければ影も薄い。まだ、拳を合わせられるほどの輪郭を持ち得ない。
実は彼の「影」が生まれたのは、彼が村山に敗れた瞬間でした。
「なんで」
そう呟いた時、彼に光が当たり、影が生まれました。そう、なんで、どうして、自問自答を始めたその時こそ、初めて自己実現の為の長く苦しい旅が始まるのです。
デコピンによる村山からの抱擁を、轟は呆然と受け止めます。でもまだ、このデコピンは一方通行なんです。
「轟、お前にもいつかきっと分かるよ」
村山はそう断言しましたが、分かるわけがありません。村山にとって轟はもう統合に成功した影ですが、轟にとっては村山は今初めて目の前に立ちはだかった「恐ろしい力を持つ」影なんです。
そして忘れてはいけないのは、轟は「頭になること」「てっぺんから見る景色を知ること」を目的としているわけではない、ということです。
しかし、轟はこの時はっきりと、村山が対決して勝たなければならない己の「影」であることを意識します。轟の「最果ての島への旅」はここから始まっているのです。
と書いたはいいのですが。
轟の旅は、一旦奇妙な小康状態に陥ります。理由はよく分かりません。村山のデコピンのせいだったのか、辻芝という「倒すべき不良の筈なのに自分について来てくれる仲間」が出来てしまったからなのか。轟は、村山を倒すべき影として敵視し続けることが出来なかったのです。
影との戦いは、影を忌み嫌う自分自身の心と向き合って、己自身の中にある傲慢さや抑圧された願望を知り、それを受け入れて行く事です。轟は不良に暴力で搾取されたという過去のトラウマを克服する為に不良と同じ暴力を選ぶ、という矛盾を抱えています。この場合は、その目的に反した矛盾と向き合い、折り合いをつけ、克服していくことが自己実現の為の道筋なのだと思うのですが、村山から暴力以外の繋がり(デコピン)を与えられてしまった為、不良との対話に暴力以外の手段を持たない轟は戸惑ってしまったのかもしれません。
村山との対決をそれ以上進められないまま、劇的な事件が起こります。
ギャングたち(?)(家村会の可能性もあるのかな)による、鬼邪高襲撃です。
村山たち定時メンバーがいない中、轟は、辻と芝マンと共に、校門の最前線で鬼邪高を守る為に戦って、力尽きて倒れ伏しています。
「形ばかりの不良どもの集まる場所」と見下していた筈の鬼邪高を、身体を張って(おそらく命の危険もあったことでしょう。相手は学生ではなく大人の、暴力を商売にしている人間たちです)守り通すなど、轟の中にどういう心境の変化があったんでしょうか。
ここら辺はハッキリとは描かれていませんが、おそらく、轟は村山を鬼邪高の、自分の「頭」として認め、全日の頭として定時の頭の村山と共に鬼邪高の看板を背負い、守る覚悟を決めていたのだと思います。
対決を深める前に、「影」の優位性を認めている。むしろ、影を理想化して傾倒してしまっています。
これは、場合によっては思考を手放し「白い影」を投影した相手に全てを委ねるようになる危険なケースなのですが、ただ、隷属するのではなく、共に闘う覚悟を決めている、という点が違っています。
そして、コンテナ街抗争。たった一人で闘いに行こうとする村山を、ダンプに乗った轟が定時制メンバーを引き連れて駆けつけてきます。
轟は影との共闘を選んだのです。デコピン(抱擁)のおまけ付きで。
己のトラウマもまだ克服出来てない癖に、一足飛びに正解叩き出す轟洋介、恐るべし。
でも、やっぱりこの判断は非常に危険な選択だったと思います。現実的にも、轟は最後まで村山の隣で戦い続けましたが、場合によっては死んでいたかもしれない。それくらい危険な闘いだったことは村山も後に明言しています。未成年の轟を巻き込むつもりはなかったのに、強引に追いかけてきた轟を見て、村山は感嘆もしただろうし嬉しくもあっただろうけど、それでもやっぱり、ここで轟に何かあったら、村山の人生に一生消えない傷を残したことでしょう。
それはそれとして、図らずも轟はコンテナ街の闘いにおける勝利で、「村山が見せたかった景色」を見てしまうことになります。
仲間たちと、看板を背負って闘った轟。闘いの最中に、村山に「大丈夫か、お前ならまだ行けるよな」と確認するように拳で胸トンをされ、その期待に実力で応えられたこと。勝利に沸く紙吹雪の中で、辻や芝マンとお互いの健闘を称えあったこと。それら全てが、轟が「不良狩り」を続けていたのなら見られなかった景色でした。
轟は影と共闘することで、新たな生き甲斐を見つけることが出来ました。「形ばかりの不良たち」への認識を改め、鬼邪高の全日の頭として村山良樹を担ぐ。勿論、彼が頭に相応しい力を示し続けない場合はタイマンしてその座を明け渡してもらうけど。
この拳はもう、過去のトラウマを殴り続ける為だけにあるんじゃない。それに気がつくことが出来た轟は、ある意味自己実現に成功したと言ってもいいでしょう。
めでたしめでたし。
には、ならなかったんですよねぇ。
残念ながら。
(スピンオフが作られることは想定されていなかったから、製作側もおそらくここで轟をハッピーエンドにしてやったつもりだったんじゃないかと思います)
そう、ザワです。「HiGH&LOW THE WORST」。
その前日譚であるエピソード0に続きます。
轟は、コンテナ街終了時の村山の「鬼邪高辞めたら山王入れてくんないかな」という台詞を聞いています。(あの距離で聞こえてるかどうかは分かりませんが、少し離れた場所からじっと見ているのが切ない)
定時は基本的に卒業しないんで、轟も自分がいる間は村山が卒業するなんて思ってなかったんでしょう。ところが、卒業を匂わされてしまって、いつまでも共闘出来ないことを自覚します。
なら、対決するしかありません。
で、轟は一応、実質上の全日の頭なわけですが、その圧倒的な力を畏怖されこそすれ、辻芝以外の生徒からは慕われているわけでもなければ担がれているわけでもありません。
まあ、当然と言えば当然、轟は不良のボスになるつもりは無いので、鬼邪高にも「ただそこに居るだけ」です。八木工と揉めた、という生徒に「何で揉めた」と訊きますが、轟に理解出来る理由は返ってこず、やっぱり不良って理解不能だ、という結論に至ります。(ちなみに、後に轟は清史が腹を刺された時にも「どした?」と説明を求めますが、分かる返事が返ってこないのでスルーしています。ここら辺、轟は悪くないんですよね、質問にまともに答えない鬼邪高生たちが悪いよ……)
それでも、それなりに責任は感じているらしく、誰にも言わずにたった一人で御礼参りに乗り込んでしまうのですが、そこも、リーダーとしての背中を仲間に見せていない、という意味から頭としては不十分な行動です。
そして、更に、泰清からの宣戦布告に対し、「頭が欲しいならやる」と言い放ちます。彼にとって重要なのは村山との対決のみであり、それ以外の争い事には究極に興味がありません。でも、周囲は轟を放っておいてくれません。「轟へのアピール」として勝手に荒れていく全日に、轟は苛立ちを隠せません。
そして、例の村山と轟の対話です。
轟は、初心に帰って村山との対決を望みます。担ぐ頭ではなく、倒すべき影として再び対決しようとするのですが、そこで村山からは対決を拒否されます。
あの、ここの村山なんですけど、彼、完全に自分の役割を「影」から「老賢者」に勝手にクラスチェンジしてるんですよね。多分、コブラにしてもらったことを同じように轟にしてやろうと親切心で思っているんでしょうが、轟はあの時の村山と違って非常に未成熟です。まだ、ほんの少しのヒントで問題解決出来る状態にないし、何より轟の「影」は村山で揺るぎないので、勝手に影の役割を降りられると困るんですよ。轟は振りかぶった拳の下ろしどころが分からなくて戸惑います。
しかも、ここら辺から、村山は意図的に轟を定時の揉め事からシャットアウトしていきます。一度は隣に並んで共闘したのにも関わらず、です。村山側の、現役高校生である轟たちを守りたい、という気持ちは置いておいて、轟にとってはこれは「裏切り」以外の何物でもありません。
「お説教だよ」と言われても、気持ちが伝わるよりも怒りの方が強いのも仕方がないでしょう。「影」からの絶縁宣言です。轟に残された道は、死に物狂いで「影」を取り戻す為の闘いに身を投じるしかありません。
そして、ザワ本編です。
まず、冒頭の村山vs轟のタイマン。
これは非常に衝撃的でした。上記の通り、轟は断絶宣言をした影である村山を取り戻す為に決死の覚悟でタイマンを張ります。決死です。文字通り死に物狂いです。多分、これが最後のチャンスだということは分かっていたんでしょう。
結果は、皆さまご存じの通りの完敗です。片目を潰される重傷を負います。
物語の中での重傷は、ある意味そのキャラクターの擬似的な「死」を意味します。特にハイローのような喧嘩の強さがキャラクターのランクを決定するような作品で、怪我による喧嘩の封印というのはまさしく「死んでいる」状態です。
影に対する本体の敗北。これはかなり大きな意味を持っています。影に敗退し、そして影が手の届かないところへと去って行く。影の消失は、自我にとって大変危機的な状況です。
普通、影に逃げられた人間は、影を追いかけて行きます。ゲドもそうやって旅をしました。影を追い、影に追いかけられる旅の中でいくつもの学びを得て成長する、のが自己実現の旅なのですが、轟は影に「追ってくるな」と拒否され、実際に追えないように目を潰されてしまうのです。
大ピンチ!! どうなるんだ轟洋介!
そこに登場するのが花岡楓士雄です。
楓士雄は、轟の自己実現の旅の中で重要な役割を演じているのは確かなのですが、影ではありません。老賢者でもありません。
彼は、「トリックスター」なのです。
トリックスターとは、トランプのジョーカーです。変革者。常識を覆す者。
中世ヨーロッパには王様に侍る道化師がいました。絶対的な権力を持つ王様に逆らうことは誰も許されません。少しでも無礼な態度を取れば即首が飛びます。ですが、笑いを職業とする道化師だけは、その職業柄、王に対する無礼も許されていました。王権に対する民衆の不満のガス抜き的役割も演じていたそうです。
楓士雄は決して道化者ではありませんが、変革者というキャラクター性からもトリックスターの役割は相応しいと思います。
トリックスターである楓士雄は、怖くて近寄りがたい絶対的な王である轟に、唯一恐れずに近寄り、言いにくいこともずけずけと口に出し、平気で無礼(と周囲には見えるかもしれない行為)を働きます。
一方、王である轟は(敵対している関係のはずなのに)協力してくれ、と頼んでくる楓士雄に驚きます。
でも、轟の戸惑いなどお構いなしに楓士雄は轟を全日の喧嘩に引っ張り出します。楓士雄にしてみれば轟は立派な鬼邪高全日生徒です。一緒に喧嘩をする理由があります。轟が実は既に大人の闘いを経験しており、対村山だけを目指して鍛え上げた戦闘力が、高校生の闘いに放り込んでいいレベルではないことを、楓士雄は知りません。(まあ、知っていても別に躊躇しなかったかもしれませんが)
強すぎるせいで同年代からは畏怖され、距離を置かれていた轟は、型破りな変革者である楓士雄に巻き込まれて闘うことで、「最強の助っ人」としての立ち位置を得ます。きっと、物凄く頼りにされたんではないでしょうか。
ここら辺はもう、想像でしかありませんが。
不良を叩きのめす為に得た力。
影との対決の為に更に磨き上げた力。
それはそのままそれぞれの目的の為に振るっていたら轟自身を壊してしまっていたかもしれません。不良を叩きのめしたところで過去のトラウマは消えないですし、影を力で倒すことが出来ないのは「ゲド戦記」の例を見るまでもありません。
その力は、仲間を助ける為にある。仲間に信頼され、頼りにされるに足るだけの力が既に自分の拳には宿っている。轟はそれを、多分、団地攻防戦で実感したのではないでしょうか。勝敗が決した際の、空を見上げるすっきりした表情がそれを物語っているような気がします。
影との闘いに失敗した轟は、トリックスターによって価値観をひっくり返されることで救いを得た。
ザワの結末を、心理分析的に読むとそう読めるなぁ、と私は思いました。
(まー、番長ズのファンとしては、村山良樹の後継は轟洋介しかいねーーー!!!と叫びながら走り回りたい気分になりましたけどね!!)
●ケース3:前田公輝
抱えている問題:演技上のスランプ
蛇足です。
そして、二次元のキャラクターである村山と轟と違い、実在の俳優さんのことですので、分析などというおこがましいことは致しません。
ただ、轟洋介をザワで演じる時に前田さんが激しいスランプに見舞われていたということ、そして轟を演じる為にアクション練習の自主練など物凄く努力をされたこと。轟の心理状態を理解する為に台本が真っ黒になるくらい書き込みをして、「轟」と書いてそれをぐちゃぐちゃに塗り潰した跡が台本に残っているということ(この最後のエピソードを拝見した時、ちょっとゾッとしました。かなり危機的な心理状態だったんですね……)。
そして、それらを克服し、乗り越えてあの素晴らしい轟洋介が誕生したのだということを知って、めちゃくちゃ感動しました。
出会うべきタイミングで、出会えたんだな、と、轟にとっても前田さんにとっても、本当にこのタイミングは神がかってるなと思いました。
影の問題は、その人のあるべきタイミングで目の前に立ち塞がり、己との対話、自問自答を求め、未来に進むことを求めます。
三者にとってそれぞれの影との出会いと戦いは、確実に未来に向けた祝福である、と私は信じています。
どうか、彼らの未来が幸多からんことを……!!