姑にはそれを忘れることができるのだ
あまり往き来がなくどちらかというと疎遠だった親戚が亡くなった。
姑からの電話でそのことを知った。
「亡くなったのは叔父(私の夫にとっての。そしてその叔父は10年以上前に亡くなっている)のお嫁さんだから血の繋がりはないし、普段から殆ど交流はなかったからね。県外のことだし、私が行くからあなた達は仕事を休んでまで行かなくていいよ。一応知らせただけ。お通夜は明日で、お葬式は明後日だって。」。
2日後に、疲れたであろう姑に電話をかけてみた。
「家族葬というのか、親族葬というのか。お葬式に来たのは親族だけ。お通夜もね。亡くなった人の息子と娘の2人だけが泊まったけど、他の親族は泊まらなかったよ。
うちの主人(私の夫の父親)のときにはおおぜいで泊まって、交代で仮眠をとってお線香の火を絶やさないようにしたけど。お線香もね、今は渦巻状にしたのがあって、一度火を点けたら朝まで保つようになっているから。
うちの主人のお通夜のときには、家族はもちろん、主人の弟や妹とそのお嫁さんやお婿さんたちも泊まった。たしか、Wさん(姑にとっては娘婿。私の夫の妹の配偶者)も泊まったから、おおぜいだったよ」。
ああ、姑は忘れている。
そのとき、姑の娘(私の夫の妹)がわめいて泣き叫んだことを忘れている。
電話越しに聞いたあの叫び声は、人の言葉を成していなかった。
私が通夜の場にいなかったのは、義妹が錯乱したからだ。
私の夫はその頃転勤が多かった。
だから私の長男は、(理系に特化した勉強がしたかったことが第一だが)中学を卒業するとその後は父親の転勤について県外に引っ越した場合簡単に転校できないことを危ぶんで工業高専に進学していた。中学2年の二学期に、近畿地方から四国地方への転校を経験した彼は、今住んでいる県にこだわらないと決め、専攻したい学科のある県の高専に進学して15歳で寮に入った。実際その1年後に夫は中国地方に転勤となり、長男には「今度から帰省はここね」とメールで経路を指示した。
夫の父親が亡くなったとき長男は18歳で、3年次の学年末試験の真っ最中だった。
高専生は、5年生のときに国立大学への3年次編入試験が受けられる。高専卒業後に国立大学の3年生(大学によっては2年生)に編入できる制度だ。
編入試験の際には、高専3年生の学年末試験の成績は重視される。
その試験の真っ最中、夜の自習時間中、張り詰めた雰囲気の寮の3人部屋で父親から泣きながらの電話を受けた長男は学年末試験後半の成績は情けないことになったそうだが3年次編入はできたから良しとしよう。
夫は長男に「無理にでも来い」とは言わなかったし、試験中であることを理由にしないで、参列できないことを親戚一同に納得させたし(たしか、寮で風邪が流行っていて、そういうところに住んでいる人間をおおぜいの老人が集まるところにこの寒い時期に呼ぶのは良くない、という理由だったかな?)。
次男は、小学校5年生で近畿地方から四国地方に転校したのだが、中学2年生で中国地方にまたも転校することとなった。
夫の父親が亡くなったとき次男は中学3年生。滑り止めの私立高校に合格したところで、公立高校入試の直前期だった。
次男が中学3年生になろうとする頃、夫にはまたも転勤辞令がおりた。こんどは九州地方。短期間に何度も県外への引っ越しを繰り返すことは、これ以上もうできない。植物でも、やっと慣れたと思ったらすぐまた引っこ抜かれて植え替えられるのでは、根が傷み弱り、せっかくつけた花や葉が落ちる。人間にも『植え傷み』に相当する現象は起きる。
まして、近県ならまだしも、地方が違えば入試制度も違う。県外からの転校は基準が違うので転校前の内申点は一切通用しなくなる。教科書違えば履修の順番も違う。自分が目標にしうる高校の想定もいちからやり直しになる。合格の判定基準だって、県ごとに独自だ。夫は、単身で赴任した。
そして迎えた高校入試の直前期のことだった。
夫は、次男に言いわたした。
「おじいちゃんが亡くなったら、その日が高校入試の日でもおじいちゃんの方を優先するんだぞ」と。
私立高校に受かっていたからか、夫の気持ちがたかぶっていたからか。
そして夫の父親が亡くなったのは、高校入試の学力試験を20日後に控えたときだった。
夫からの電話。
通夜の場所・告別式の場所と時間。夫の実家は隣県で、私には土地勘がないので、行き方の説明。
それらを聞いているときに、電話の向こうからすさまじいわめき声が響いた。
「ちょっと…。妹が…」。
夫の妹が泣きわめいたらしかった。それは、
自分は関東の嫁ぎ先から戻ってきて、3日間病室で看病し、合間に実家の掃除をしたのに!(注)
どうして嫁であるマンネンロウはこっちに来て看病していないのか!
と、親戚一同が詰めているところで大声で怒鳴って、叫んで、泣きわめいているらしい。
「妹が言っているのは、通る話ではないのだけれど。」
と夫が言い、背後で姑が娘に言い聞かせている様子がうかがえた。
「後でまた電話する。一旦切る」。
そうか。
それならなぜ、こちら側にそこまで求めるのならなぜ、死ぬ時期を対応可能な時期までずらすことすらしないのか?
電話を留守電に設定した。
かかってきたけど、出なかった。
「通夜と葬式には、2人とも来なくていいです。来ないでください。妹がおさまらないので。
………ごめんなさい」。
父親を亡くしたばかりの夫が、いちばん悲しいときに、ごめんなさい、と謝った。
次男と電話から流れてくる声を聞きながら、
「明日、直接、告別式の斎場に行くよ」
と言った。
次男も、うなずいた。
公民館の講座で、着付けを習っておいてよかった。
朝5時に起きて、喪服を着付けた。
詰襟の学生服の次男と、新幹線と在来線とタクシーを乗り継いで斎場に行った。
夫が喪主だと聞いていたが、昨日の騒動のせいか、夫ではなく姑が喪主をつとめていた。
前をむいたまま、夫が言った。
「来てくれて、ありがとう」。
私の両親も駆けつけていた。後で実母から聞かされた話だが、夫は実母に謝ったという。
「マンネンロウは、来ると言ったんです(いよいよ危ないと聞いたときに、たしかにそう言った)。僕が、断ったから悪いんです」と。
親戚がみな気遣ってくれて、わだかまりなく夫の父とお別れをすることができた。
義妹も、静かになっていた。
今、十数年経って、姑は
「うちの主人の通夜のときに通夜の会場に泊まったのは誰と誰と………」
と、私を相手に思い出話をする。
そうでしたね。
あのときはまだ、おじさんやおばさんも若かったですね。あのとき集まった人たちのうち、もう亡くなった方もいらっしゃいますね…。
注)義妹は、結婚しているが、子どもはいない。
ときどき義父は、義妹宛の電話で、孫をそろそろ…と言って、はねつけられていた。誰の育て方のせいで子どもを持つのが怖くなったと思っているのか?!となじり、泣き叫ぶ義妹の剣幕に義父は、わかったわかったと電話を切り、私に電話をかけてきてぼやくのだった。
義妹が義父の最期に看病のために3日間病室に詰めたというが、子どもを連れて無理をして動いたわけではない。
後日譚:次男は、祖父の死後毎日泣いて、まる1週間というもの受験勉強が一切手につかなかった。
1週間経ってなんとか受験勉強にもどり、幸い志望高校に合格できた。
この頃(転勤で引っ越ししながらの子育て期)の経験があるから、
今盛んに言われている国民年金第三号被保険者制度廃止に対しては、もっと慎重に検討されるべきだと私は言いたい。
専業主婦がいることが、家族にとって必要な時期はあるのだ。