ある、就職相談会の記憶について
30代の終わりごろ、医療事務の資格を取得した。
診療報酬は月末締め。レセプトの提出は翌月10日締切だから、診療報酬請求事務は常勤でなくてもよく、家事育児との両立が可能だという。『すてきな奥さん』『ESSE』『わたしの赤ちゃん』『ベビーエイジ』『プチタンファン』『主婦の友』『おはよう奥さん』等の、主婦向けの雑誌の広告では病院で微笑むスーツに身を包んださっそうとした女性の写真と、普段着姿で幼児を抱き寄せる写真がまぶしかった。新聞の折込広告では、毎月のように開講の知らせと生徒募集がている養成機関の、通信と通学が出ていた。私はそのなかで、業界大手の会社の通学課程を申し込んだ。
説明会でも、広告にあったとおりに、月初10日必着で終了する診療報酬請求や、子どもが学校に行っている間の午前診だけの医療機関でのパートタイマーなど、就職相談会で紹介される中から各自のライフスタイルに合わせた働き方を選ぶことができると言われた。転勤で他県に引っ越しても、その県の支店で就職の斡旋を受けることができるから心配いらないと。医科と歯科があるが、歯科の方は若いお嬢さんにしか需要がない傾向がある。医科はそうでもないという。もともと歯科治療が苦手な私は医科を選んだ。
週2回、全14回ほどだったか。同年代の女性講師の講義は楽しく、社会人になって久しぶりの受講は新鮮だった。受講生どうしで友達もでき、都合がつかない日は振替補講を受講して、一回の試験で資格を取った。
資格を取ったら、毎月就職相談会の連絡が来る。
そこで知ったのは、診療報酬請求業務を選ぶと、毎月割当てられた場所に県内どこにでもいかなければならないことだった。朝の集合時刻は早い。私には当時車の免許がなかった。時給は、ほぼ最低賃金だった。「資格を取ったとはいえすぐに全般こなせるものではなく、教わりながらだから」とのこと。なるほど確かにそうだ。「自宅近くの病院に、毎月1日から10日まで行って仕事をしています。充分な収入を得ています」という、あの広告の人のような仕事をしている人もいるのだろうけど、それはあくまで一例らしい。
それでは、決まった医療機関に出勤する働き方はというと、午前診だけという求人はまずなかった。午後診のシフトに入るとなれば、業務終了は19時以降…20時を過ぎるということもありうる。子どもが学校から帰る、夕食の支度…。自宅近くの医療機関の求人も、無理な話だった。幸い、新聞折込の求人広告で、自宅から徒歩5分の小児科医院で週3回(午前診1回・午後診2回)という求人が見つかり、私は幸い上の子が中学2年生になっていたので応募に踏み切った。理想的な医院だった。
院長は言った。
「子育て経験のあるお母さんが最適だ。同じ日の午前診と午後診のシフトに入れることはしない。家庭に無理をさせれば必ず仕事に影響が出るから。人間、無理は続かない」。
さすがベテラン小児科医だった。
「受付は基本的に3人体制をとり、8人でシフトを組んで回している。1人に何もかもやらせて完結させず、ダブルチェック・トリプルチェックする。最終的な責任は、院長である私だ」。
先輩職員はたまたま皆、私と同じ養成機関で医療事務の資格を取っていた。ただ、民間資格なこともあり、院長はそれにこだわって採用したわけではなかった。そこで先輩職員から聞いた話だが、診療報酬請求業務を選んだ人は実家の親に来てもらって世話をしてもらうのが当たり前、それでなければできる仕事ではないということらしかった。
職員の家庭生活に無理をさせないことを何よりも重視しているその小児科は、とても働きやすかった。職員間の雰囲気が良く、皆仲が良かった。どう教えたら確実に習得できるかを重視して教えてくれ、誰も決して人に恥をかかせなかった。
しかし私の夫の転勤が決まり、たった半年で退職を余儀なくされた。
生活がやや落ち着いてくると、説明会で聞いた通りに私は、夫の転勤先の県にある養成機関の支店に連絡を取った。
そこで知ったのは、働き方には土地柄があるということ。
常勤、フルタイム、医療事務職員は1〜2名で回しているところが普通だった。私鉄のない県だったので、診療報酬請求業務を選ぶと始発で行っても割当地の集合時刻に間に合わないことがありうる。
上の子の高校受験が迫っている時期でもあった。来たばかりの県で、これまでのやり方・常識が役に立たないのをしょっちゅう実感していた。
紹介されたいくつかの仕事を前に躊躇して、
「たとえばどうしても休ませて頂かないといけないというとき、こちらの会社(養成機関の支店)から応援の方の手配をお願いしたりはできるのでしょうか?」
と、聞いてみた。
すると、面談していた2人のうちの1人が居丈高に言い放った。
「あなたね!そうそう自分の都合に合わせた仕事ばっかりあると思うんですか!?私だってこの県の出身じゃないけどやってきたんですよ!自分の都合で仕事が選べるとでも思うんですか?」。
…ほう?そう言うか…?
即座に私は答えていた。
「はい。思っています。こちらの会社の謳い文句は、『それぞれのライフスタイルに合わせて無理のない仕事の仕方が選べる』『家事育児と無理なく両立できる』ですよね。雑誌や新聞の広告でも、受講生募集の説明会でもそう聞きましたよ。
私が、どうしても休みを取らないといけないときに会社からの応援をお願いできるかとお聞きしたのは、もし現実にはそのような体制が整っていないにもかかわらず私の勝手な思い込みで『休めるだろう』と思い込んで就職して、仕事に穴をあけてご迷惑をおかけしては大変だからですよ。
最初からいい加減に考えていないからこそ、仕事には責任が伴うことを知っているからこそお尋ねしたのですよ」
と、静かに、はっきり、言い返した。
すると…。
私が話している途中で、居丈高に言い放った方の相談員が叫び始めた。言葉にならないわめき声で、手を振り回しながら。
「わああああああ………!!!」
と。
私の言葉をかき消そうとするように。錯乱したように。
もう1人の相談員は、私の
「勝手な思い込みで就職した後仕事に穴をあけるわけにはいかない、迷惑をかけるわけにはいかないからお尋ねしている」
という言葉に、大きく頷いていた。
「失礼します」。
と言って会場を出た。
以来、その会社経由での就職斡旋を受けたことはない。
その翌年、ハローワーク経由で、調剤薬局事務の仕事に応募して採用された。この調剤薬局がまた、先の小児科医院に負けずとも劣らない素晴らしい雰囲気の薬局だった。
共通しているのは、経営者の人柄の素晴らしさだった。
その薬局には夫の転勤で4か月しかいられなかったのか非常に残念で、申し訳なかった。
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