ここにいさせてください
顔を舐められて目が醒めた。くすんだ黄色い虹彩の中の、マイナスネジみたいな横長長方形の瞳が、私をみつめていた。びっくりして飛び起きると、相手も相応にびっくりしたらしく、二、三歩退って非難がましく一声鳴いた。
夢をみているのだと思った。夢の中で、目覚めてしまったのだと。どうみても日本ではなさそうな、四方をカラフルな壁に囲まれた、草に覆われた四角い地面。そして目の前にいるのは……やぎ、というものだろう、これは。意識が途切れる前に見ていた絵のせいだ。真司の馬鹿が、ギーガーの画集なんか買ってきて、机の上に開いた状態でひとを呼び出すから。
カラフルな壁の一つにあるドアが開いて、誰かが出て来た。若い男の人だ。太い横縞のシャツを着た、くるくるした黒い巻き毛の、ひょろりと背の高い男性が、何事か喋りながら近づいてきて、私の前に立った。
「×××××××、シンジ、オ、ノ、ノノ、ペルドン、×××?」
真ん中へんだけ、聞き取れた。真司、じゃない、ごめん――って感じ? 何語だろう。何語にしろ、ごめんというからには、私が真司でないことがわかるんだ、この人には。そういう設定の、夢なんだ。
「××××××××?」
何か言いながら、私の前に片膝をついて、少し首を傾げて私の顔を覗き込む。その姿勢が、ちょっと恭しげで、何となく気分がいい。その人は私の顔を覗き込み、自分の胸を指してゆっくり、
「オスカ」
そしてその手を、掌を上にして私に向け、首を傾げた。名前、かな?
「…………碧子」
「ミドリコ」
彼はにっこり笑った。
「×××××××、ミドリコ」
差し出された手に応えると、彼は両手で、驚くほどの熱意で私の手を握った。ちょっと痛い。夢なのに?
そう思ったところで気が付いた。違う、これは夢じゃない。痛いからじゃない。痛いだけなら、まあ、そういうこともたまにある。そうじゃない。
あまりにも突飛な状況だから夢だとばかり思ったけれど、私はきっぱり目覚めていた。どうしても目覚めなければならない、理由があった。
普段、自分がいない間に起こっていることを、私はあまり知らない。薫さんや他のみんながどんな生活をしているのか、殆ど知らない。だからいつもなら、どうして自分が呼び出されたのか、私にはわからない。でも、今日はわかる。ちょっと前に光太郎が考案した妙な分担制度のせいだ。用意された一覧表に、名前と、自分が選んだ一言を書いておく。と、次に目覚める時までに、語学に堪能な沙也が、表を完成させておいてくれる。英語、中国語、ハングル、他、全十か国語に訳した、綴りと発音。
私が選んだのは「トイレはどこですか」だった。他の皆に比べて、出ている時間が長くもないのに、なぜかこれで苦労することが多かったからだ。
さっき、オスカは私を真司と呼んだ。呼び、かけた。つまり私の前は真司だった。思わず溜息をつく。ここまでの経緯は、想像がつく。
誰かが――恐らくは傍迷惑な行動力を持つ光太郎が――、薫さんにパスポートを取得し、私達をここに運び、オスカと知り合って暫く一緒に遊んだ後空腹を覚えて、「お腹が空いた」担当の真司に代わった。光太郎ほどの行動力はないがそこそこ社交的な真司は、難なく食事にありついた後、やっぱり結構楽しく遊んで……、そして、尿意を覚えたのだ。しかもそれが待ったなしの切実さを持つまで放置しておいて、私を呼び出したのだ。
真司の馬鹿野郎、充分コミュ力あるくせに。わざわざ私に代わらなくたって、そんなことぐらいボディランゲージで充分言えるくせに。ていうか。ここがどこで何語を喋れば通じるのか、わかる状況にしてから呼び出せ!
「×××××××××?」
不思議そうな顔のオスカにのぞきこまれながら脂汗を浮かべて真司を呪った時、コートの裾が引っ張られた。振り向くと、コートの裾を、白い山羊が、熱心に噛んでいた。
「え、やだ、ちょっ……」
「オ! ノ! ブランカ! ノ! ノノノノノ! ×××××!」
オスカが慌てて山羊を押しのける。私は泣き出しそうで、同時に笑い出しそうだった。薫さんが新調したばかりの、私にとっても大切な、綺麗な緑のコート。でも、山羊を拝みたい気分にもなっている。
ブランカ。それは確か狼王ロボの奥さんの名前だ。スペイン語の「白」。白い山羊を白と名付けてるわけで、安直なネーミングだけど、でも、助かった。ここはスペインなのだ。若い男の人相手に、恥ずかしいとか思う余裕さえもうなく、涙目になって、私はオスカに向き直った。
「ドンデスタ、エル、バーニョ」
「オゥ!」
オスカは飛び上がるように立ち、私の手首をとった。
ありがとうはセリカの担当だけど、「グラシャス」は私でも知っていた。だからお礼を言って、彼が何か、多分「どういたしまして」と言ってほほ笑んだところまで、記憶がある。次に目覚めたのはまた欲求が切羽詰まってからだった。もうトイレの場所はわかってるだろうに、何故かみんなはそのタイミングで私を呼び出すことにしたらしい。結果として私は、今までにない頻度で表に出ることになった。そしてその度、オスカは私を見分けた。
こんなこと、初めて。こんな人。誰かに名前を覚えてもらうことすら、私には滅多にないのに。
目覚める度、目覚めて名前を呼ばれる度に、私はオスカを好きになって行った。この人は、私がわかるんだ。
不思議なもので、相手が自分をわかってくれていると思うと、日本語でさえあまりコミュニケーションの得意な方ではない私が、スペイン語しか話さないオスカの言ってることを理解できるような気がしてくる。彼が身振り手振りを交えて一生懸命説明してくれることが、私にもわかってくる。中庭を囲む四つの部屋の主が共同でブランカを飼っていること。雌なので乳を搾れるし、それでチーズを作れること。その為には妊娠させておかねばならないので定期的に種付けが必要なこと。
帰りたくないと、思うようになった。ここで、この小さなアパートで、ずっとオスカと一緒にいたい。ブランカのお乳を搾って、静かに暮らしたい。オスカが何をする人か、学生なのか社会人なのか、それすら知らないのに、それで構わないと思えた。そんなこと、全然どうでもよかった。……無茶苦茶だ。どうでもいいわけない。なのに、そう思えてしまう。こんなことは初めてだった。ああ、これが、好きってことなのか。人を好きになるってこういう感じなのか。オスカが私のことをどう思っているか、それさえも、今はどうでもよかった。彼は私が私であることをわかってくれる。それだけでよかった。そんな彼と、一瞬でも長く一緒にいたかった。一瞬でも長く、私でいたかった。
ある日。目覚めると、そこはオスカの部屋ではなく、いつもの中庭でもなかった。街……それも、ちょっとやそっとではない。除草用に山羊を飼っているアパートの中庭からは想像もつかないような、大都会だった。久々に担当文が役に立つ状況だったけれど、それより先に、私は思わず
「ここって、……マドリード?」と日本語で呟いていた。
大都会イコール首都、なんて、我ながら発想が短絡的だけれど、他に思いつかない。オスカは目を丸くして振り向き、笑って手を振り回した。
「ノ。ノ×××××マドリッ、×××××ブエノスアイレス」
切羽詰まっていたはずの尿意が吹っ飛ぶほど驚いた。ブエノスアイレス! それは、いわゆる「地球の裏側」では。言われてみれば、ここは今深まり行く秋だ。日本は春だったのに。その事実に今まで気づかなかった自分に呆れ、同時に物凄く納得した。地球の裏側。なぜか、それは慰められる事実だった。そんな場所まで来て初めて、私は人を好きになった、好きになれる人に会ったのだ。こんなところまで来なければ会えなかったのだ。
そして次の瞬間、壁に貼られた、簡素なカレンダーが目に浮かんだ。無造作に記された大きな赤い丸。誰からも説明はないけれど、あれは多分、薫さんが日本に帰る日。
アパートに戻るなり泣き出した私に、オスカは大いに狼狽して、何度も同じ言葉で話しかけた。どうしたのミドリコ、何があったの……多分そんなような意味だ。
帰りたくない。帰りたくない。あなたが好き。ずっと一緒にいたい。でも私は、薫さんの中の大勢いる一人に過ぎない。ずっとここにいるどころか、ずっと表に出ていることさえできない。どう説明したらいいんだろう。そもそもオスカは、私達のことをどのくらい理解しているんだろう。誰が主人格か知ってるんだろうか。
沙也の気配を感じた。真司と光太郎と、他にも何人かの気配。けれど私は、彼らを押しやった。
だめ。今は誰も出てこないで。代わってほしくない。誰にも、代わりに説明してほしくなんかない。オスカには、私が自分で言う。スペイン語が喋れなくても、どんなに難しくても、私が、自分で。
ぐいっと乱暴に涙を拭って、オスカに向き直る。彼の大きな茶色い眼をまっすぐ見て、ゆっくり息を吸う。
「あなたが、好き」
オスカの、そっくり返った長い睫が上下する。私をじっと見たまま、彼は真剣な声で、ゆっくり言った。
「×、××××?」
わからない。今までにない頻度で表に出ているとはいっても、私の時間はやっぱり他の人に比べれば短くて、スペイン語を習得はできていない。だけど、なぜか確信できた。彼は私の言ったことをわかってくれた。そして、確認したのだ。今彼はきっと「僕を愛してるの?」と言った。
頷いた私を、彼は黙って抱きしめた。それから、ラテンの人らしい、熱烈なキス。私にとっては生まれて初めての、キス。嬉しかった。体が震えるほど。何も考えられないほど。もう少しで本当に何も考えずに誰かに明け渡してしまいかねないほど、嬉しかった。けれど、辛うじて自分を保った。そして次の瞬間、彼がしようとしていることに気付いて、愕然とした。
黙ったまま、オスカは私を抱き上げ、ベッドに運んだのだ。ガラス細工でも扱うように大事そうに、そっと私を横たえ、額に軽くキスしてくれてから、自身は猛烈な勢いでシャツを脱ぎ始め――あっという間に脱いでしまった。そして私のブラウスに手を伸ばしてくる。
「ノ!」
叫んで、私は跳ね起きた。
「ノ! オスカ! ノ!」
必死に首を振る。彼は不思議そうな顔をした。
「ポルケ?」
これぐらいは聞き取れる。「なぜ?」だ。私はただ首を振ることしかできなかった。
「ペルドン」
私に喋れる数少ない言葉。ごめんなさい。
「ペルドン。オスカ、ペルドン」
彼は怒らなかった。ただ、心からの「ポルケ?」を何度も挟み、時々カレンダーを指差しながら、私を宥めようとした。どうしてだめなの? ミドリコは僕を愛してるんだよね? 僕もミドリコを愛してる。なのになぜだめなの? 三日後には君達は帰ってしまうのに。せめてもの思い出をつくることもできないの? どうして?
全然聞き取れないのに、彼の言ってることがわかる。だけど、どんなに優しく話しかけられても、私は「ペルドン」しか言えなかった。
どうして……どうして、私は、私だけじゃないんだろう。それなのに、どうして、人を好きになったりするんだろう。人を好きになれて、嬉しいと思ったのは、ついさっきのことなのに。今は。好きになるんじゃなかった。好きにならずにいられないほど、目を覚ましているんじゃなかった。こんなことになるくらいなら。
とうとうペルドンさえ言えなくなって泣きじゃくる私を、オスカがもう一度、この上なく優しく、ゆっくり押し倒し、覆いかぶさって来た。
「ノ!」
渾身の力で突き飛ばした。彼の深々と傷ついた顔を見て、私もまた傷つき、号泣し、叫ぶ。
「薫さんは日本に恋人がいるの! まだ『そういうこと』はしてないけど、でもしたいと思ってる人がいるの!」
私でさえその事実を知っている。だから、絶対、だめ。私はいつか消える存在だ。今はまだ無理でも、いずれは消えるべき、可能なら消えた方がいい、存在なのだ。その私が、好きにしていいことじゃない。
消えたいと、生まれて初めて思った。もし彼の言うことが本当で、他の人ではなく「ミドリコ」を愛しているなら、私がいなければいい。誰かと入れ替わりに引っ込むだけじゃなく、永久に消えてしまえば。そうすれば、少なくとも私が薫さんに害を為すことはない。だけど、どうしたらそんなことができるのか。
静かに涙を流しているオスカの横をすり抜けて、ドアを開ける。中庭には、いつものようにブランカが、草を食べていた。私は駆け寄って、彼女の首に腕を回した。顎を横に動かして咀嚼を続けながら、白い山羊が私を視る。不思議そうに、それとも、憐れむように? 山羊の表情は読めない。御機嫌でにこにこしているようにも、淡々と全てを受け入れているようにも見える。
ブランカの中に入ってしまえればいいのに。そうすれば、少なくとも薫さんを傷つけるようなことをしてしまう心配はないのに。その上、ずっとオスカを見ていられる。一生、ずっと。
その考えは一条の光のように私の心に入って来た。碧子は、自分の力で消えることはできない。でも今なら、その気になることは、多分できる。薫さんから離脱してブランカに取り込まれたつもりになることは、きっとできる。そうすれば一生オスカの傍にいられると思った今、心からそれを望んでいる、今なら。それでも涙を止めることはできなかったけれど、決心はついた。
黙々と食事を続ける白い山羊の顔を両手で挟み、目を合わせる。くすんだ黄色い虹彩の中の、マイナスネジみたいな横長長方形の瞳。
背後でドアが開いて、閉まった。草を踏む、オスカの足音。私は振り向かなかった。最後にもう一度彼を見たいけれど、その眼を見てしまったら、きっと言えなくなる。私の担当じゃないけどそれぐらいは知ってる、スペイン語の「さよなら」。
止められない涙の向こうに長方形の瞳を見つめて、私は言った。
「アディオス」
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