はるかなる高みの草原を超えた向こうに、年中雪の溶けない山々の連なりがある。草原に向かう垂直な壁を登りながら、ノゥユは村に残してきた妻を想った。 出会った日からやっと一年、祝言からならまだ半年にも満たない新妻のオーリョは、生まれつき口がきけなかった。 普通と違い、耳が聞こえないわけではなかった。耳に故障はないのに、声を発することができない。こちらの言うことは完全に理解しているが、言葉で答えることができないのだった。 けれどそれは、ノゥユがオーリョに惹かれ、オーリョがノゥ
イタリアっていう国のね、古い、でんせつなんだって。カレッツァっていう、きれいなみずうみがあってね、そのみずうみの、でんせつなんだって。 幼い娘の説明に、私は耳を傾け、ひとつひとつ頷いた。ベッドに横たわる娘の胸には、美しい一冊の絵本が抱かれていた。 だからねパパ。おねがい。せっかく、パパにはまほうのさいのうがあるってわかったんだもん。ちゃんとべんきょうして、このお話みたいに、みずうみににじをかけられるようになってほしいの。パパが、ヤッホーヤッホーっていいながらみずうみにに
噛み始めたばかりのアーモンドトーストを、わたしは危うく吹くところだった。昨日姫路で勝ってきた、白い紙袋に入った高級食パン、添付のリーフレットに「生で」と何度も何度も書かれているのを(なまなまうるさいわ! 生で食べておいしいものは焼いて食べたっておいしいんだっての! と喚きながら)ガン無視して、これも昨日姫路で勝ってきたアーモンドバターをたっぷり塗って、香ばしく焼きあがったばかりのトーストだ。間違っても吹きだしたりしたくない。もったいない! 租借半ばのパンを私が万一に備え
青空をバックに、蕾を付けた桜の大枝から毛足の長い黒猫が、黄色い目をいっぱいに見開いてこちらを見る。「信じられない!」と、非難の声が脳裏に響く。少し高い所にいま一匹、白地に黒の斑点を纏った猫が、すました顔でこちらを見ている。「ほらね、言った通り」とも「わかりきってたことじゃん」ともとれる顔。私は何をしたんだっけ、と思う。どんな約束を、反古にした? やるべきだったことを思い返してみる。昨日はちゃんと、通販の支払い手続きをした。荷物が届いてすぐに。大丈夫、督促状が来るようなこと
さて中一の一学年六クラス丸々の国語を担当していた教科担任は一風変わっていて言う人に言わせればA女史は学者ぶるのが好きだからというその根拠或いは一つの表れ方として文法が異様に異常にある意味病的に好きで中でも副詞及び副助詞をこよなく愛していたので我々は県下全域と同じ教科書に従って授業を受けていながらその実ほぼ一年間丸々品詞分解ばかりやってそれしかした記憶がないほどで勿論試験ともなればごく普通に漢字を書き漢字の読みを書き二十字以内で要約し主人公の気持ちを当てたりなどするのだけれど
乾いた土色の栗の葉が一枚また一枚と枝を離れ、あるかなきかの風にくるくる回りながら降りていき、かすかな音を立てて枯草の地面に到達する。 しばし足を止めて、杏子はその時間に身を置いた。晩秋。いや、もう初冬だろうか。一枚また一枚、枯葉が地面にたどり着いて立てる音の意外な速さに、季節の進みを知らされる。栗の木の向こうには、崩れかけた家がある。もとは茅葺だったものをトタンで覆っていた屋根の、真ん中が陥没し、太い梁やそれを支えていた柱、土の壁が、思い思いに朽ちていきつつある。かなり長
悲しみの匂いがした。 目を開けると、窓のむこうに夜明けの星が見えた。寝床の中で涙を流しながら、ルロは「誰の悲しみだろう」と思った。 誰のものであっても不思議はなかった。町は今、悲しみを湛えた心に不自由していない。 今日は年に一度の月祭りだ。我こそはと思う魔術師と相方の職人が、三千世界からこの小さな町に集まってくる。何日も前から町に入っている組も多い。そのうちの何組かはルロが運んだ。 「月掛け」では想いの強さがそのまま結果に結びつくのだし、強い想いは往々にして喜びよりも
赤い獣の咆哮が闇を裂いて走る。高く低く、長く尾を引いて行く。少しすると別な方角からも同じ声が上がり、やがてそれらは重なり合って同じどこかを目指した。 目をぎゅっと閉じて寝がえりをうち、サザはヒクイ達の無事を祈った。 今夜もどこかで火が燃えている。このところ毎晩だ。まとまった雨が降らず空気が乾ききって、ほんのちょっとした不注意による小さな火がすぐ大火災に発展する。人をはじめ棲息する全ての動植物と同様、炎を食べて成長する獣にとっても危険な状況だった。 この辺りのヒクイ達は
今日は特別な日だと君が言った。 ペンギン爆発の日だと。 ペンギン爆発? 僕は聞き返す。 待ってればわかる、と、君。 空に茶色の雲が現れ 形を変えながら近づいてくる。 やがてそれはいくつかに分かれる。爆発するように。 小さなカマタリが落ちてくる。落ちてくる。落ちてくる。 ばらばらに落ちてくる。 あちらに。こちらに。そちらに。一つはうちの庭に。 ペンギンってこんなに丸かったっけ。 丸いペンギンが土手を滑り降りる。 君は鳥を受け止める。 ひとかかえもあるペンギン。 嬉しそうだ。
父が消えたのは、私のせいじゃない。ばあちゃんは「あんたが帰ってきて、その違和感で思い出しちゃったんだよ、きっと」っていうけど。 そんなこと言われても、と思う。どこでしくじったんだろう。ただいま父さん久しぶり元気だった? そしてハグしただけだ。勿論、四年前の私は父をハグなんかしなかっただろう。だけど十八だった娘が二十二になって戻ってきたんだから、しかもアメリカに行っていたんだから、ハグぐらいするし、そりゃ、印象も変わるでしょうよ。違和感て。 祖母によれば「私」は、卒業する
梅の匂いが鼻先をかすめて、私はふと手をとめた。東京のアパートを引き払って戻ってきた実家で、洗濯物を取り入れているときだった。大寒を過ぎて少しだけ緩んだ空気の中、梅が咲いている。晴れた空から陽射しといっしょに雨が降り、メジロの声も降ってくる。 ――あの日もこんなふうだった。 二月の最初の日曜日だった。彼の両親を迎えての、初顔合わせ。食事の後、翌日も全員仕事だからと慌ただしく解散になった、十五年前のあの日の午後も、こんなふうに突然雨が落ちてきて、急いで洗濯物を取り入れたのだ。
階下の縁側で賑やかな声が響く。 「このアレが済んでから言よーたら、いつまでたっても会えりゃあへなぁ。若(わけ)ぇもんはともかく、こっちゃええ齢なんじゃけぇ。終わるのぉ待ちょーたら呆けっしまわぁ」 香苗もよく知っている母の友人、律っちゃんの声だった。歩いて行けるところに気のおけない友達が住んでいるというのはいいものだ。香苗は(アレの正式名称を答えなさい)とつぶやいて、漫画に注意を戻した。 耳をそばだてていたわけではなかった。ただ、真上の部屋で寝転んでいると、声は否応なしに
朝一番で干した洗濯物を取り込んで、昼前に洗ったシーツを干している時、耳元を何かが飛び過ぎて行った。 昆虫の、翅の音。わりと大きい。一瞬、最大サイズのスズメバチを想像して、頭のどこかが緊張した。しかしほぼ同時に、蜂の羽音ではないと判断する。バッタやカマキリのそれでもない。もっと硬そうな翅の音だ。甲虫っぽい感じ。 顔を上げると、目線の一メートルほど先、庭の木斛の梢近くを、タマムシが一匹、きらきらと陽を弾きながら飛んでいた。 その虫が耳をかすめてからそこまで移動する間の時間
顔を舐められて目が醒めた。くすんだ黄色い虹彩の中の、マイナスネジみたいな横長長方形の瞳が、私をみつめていた。びっくりして飛び起きると、相手も相応にびっくりしたらしく、二、三歩退って非難がましく一声鳴いた。 夢をみているのだと思った。夢の中で、目覚めてしまったのだと。どうみても日本ではなさそうな、四方をカラフルな壁に囲まれた、草に覆われた四角い地面。そして目の前にいるのは……やぎ、というものだろう、これは。意識が途切れる前に見ていた絵のせいだ。真司の馬鹿が、ギーガーの画集
三時になり、空は曇ったままでした。私は諦めて洗濯物を取り入れる為に外に出ました。庭のミモザの樹にはメジロとエナガがたくさんいて、細く澄んだ声で鳴き交わしながら、ミモザのやわらかな枝を風のない空に揺らしていました。真冬にも木の幹には何らかの虫がいてそれを探しているのか、それともただ遊んでいるのか。邪魔をしたくはありませんが、ミモザの脇を通らなければ物干し竿には近づけないのです。私は心の中でごめんねと声をかけながら歩いていきました。小鳥たちは全く気にかけない様子でした。洗濯物を
彼は私を責めなかった。ただ大きな眼で私を見つめて、呟くように訊いた。本当に帰るの、どうしても帰るの、帰らなきゃいけないの、俺と結婚してここで暮らすって選択肢は全くないの、どうして? 私はただ泣くことしかできなかった。泣いて、泣いて、嗚咽の間で謝ることしかできなかった。ごめん。ごめんね。ごめんなさい。 何をどう言えばわかって貰えただろう。普通の人に理解できると思えない。ただ、信じてほしい。私があなたを大好きだということ。あなた以上に好きになれる人間は、今までもいなかったし