アレの力
階下の縁側で賑やかな声が響く。
「このアレが済んでから言よーたら、いつまでたっても会えりゃあへなぁ。若(わけ)ぇもんはともかく、こっちゃええ齢なんじゃけぇ。終わるのぉ待ちょーたら呆けっしまわぁ」
香苗もよく知っている母の友人、律っちゃんの声だった。歩いて行けるところに気のおけない友達が住んでいるというのはいいものだ。香苗は(アレの正式名称を答えなさい)とつぶやいて、漫画に注意を戻した。
耳をそばだてていたわけではなかった。ただ、真上の部屋で寝転んでいると、声は否応なしに届いてくる。二人は何かテレビドラマの話をしているようだった。母の
「小説が原作なんよ」
という一言に、香苗の耳がぴくりと反応した。この二人の会話に、小説なんて単語が出ようとは。更に、
「うんうん。アレだきゃあ、私も読んだわ」
と続いたのが驚きだった。母以上に、律っちゃんは本など読まない人だと思っていた。その律っちゃんが言う。
「主人公が悪(わり)いよなぁ」
「アりゃあ、全然合(お)ぉとらんな」
「じゃろぉ。なんであんなんに演(や)らすんかなぁ」
「しょーがねーが。アレが今、人気なんよ」
「そぉゆうのがなぁ。嫌ぇなんよ。流行っとりゃなんでもソレゆーんが。役に、合う合わんがあろぉがな?」
「じゃなぁ」
「あがぁなんより、アレの方がよっぽどええ思うんじゃけどなぁ。アレに演らしゃあええ思わん?」
「誰よ」
「アレ、ええと、名前、なんじゃったっけ? あの、ほら、日曜の、アレに出とる人」
「男? 女?」
「男。私好みの」
「あー、アレな。うんうん。あんた好みの。誰じゃったっけ」
「えーっとな……アレ、ほれ、んー……いけんなぁ。もう。ここまで出とるんで」
もどかし気に、おそらくは喉のあたりを指して律っちゃんが言い、二人はしばらく黙る。
漫画から目を離し、香苗はくすりと笑った。母やその友人たちの会話には「アレ」が多用される。原作となった小説も、役に合っていないといわれている主演俳優も、むしろあちらの方がいいといわれている誰かも、その誰かが出ているという番組名も、全て「アレ」だ。年代特有のこてこての方言につき「今、人気」だという売れっ子俳優が「アレ」呼ばわりなのもご愛敬。
頭の中で(傍線部①~④のうち、用法の違うアレを選びなさい。)と言ってから、はて、用法の違うのなんかあったかなと思う。
なんだっけ、あれ……ぐらいは、自分だって言わなくはない。言おうとする単語が思い出せないことはある。ノルウェーの、世界で一、二を争う臭さだというニシンの漬物の名前が、昨日から思い出せない。シュトーレンでもシュレーディンガーでもないことはわかっている。けれど、ウェブで調べるのはまだだ。まだ諦めたくない。
母たちの「アレ」頼みは、加齢による物忘れの一形態なのか、思い出す努力をしようとしない単なるものぐさなのか。やがて律っちゃんが
「あ!」と声を上げる。
「思い出した! アレじゃろう。ほれ、水曜のアレに出とる」
「水曜?」
「あの人と一緒に」
「あぁ! あの人と一緒に! …………いや、違わぁ、アりゃあ、アレじゃが」
「ええ? 違うか……。ああ、そうか! そうじゃな。アりゃあアレじゃな」
窓を開け放った二階の部屋で、香苗は必死に笑いをこらえた。ここに至るまで、具体的な名詞は日曜と水曜だけ。それで難なく話が通じている。ここまでくると既にテレパシーだと思う。人はある程度の齢になると、名称が思い出せなくなるのと引き換えに別な能力が開花するのだろうか。文化的背景(というほどお堅いものではないが)の共有を前提に開花する、超能力。だとしても――。
香苗はしかつめらしく考える。その能力は、得たからといって多用していいものなのか。便利な能力を使いすぎれば何らかのリスクを負うのがファンタジーの掟だ。
加齢による物忘れは、認知症によるそれとは違うという。夕食に何を食べたか思い出せないのは「ただの」物忘れ、夕食を食べたこと自体を忘れるのが認知症だと。
人間、長く生きればその分覚えるべきものやことが多くなる。物の名前あるいは人の名前がすぐに出てこないのは、抽斗が増えすぎて必要なものの在り処がすぐには見つけられないということだそうだ。なるほどと思う。「冷蔵庫、じゃなくて洗濯機、じゃなくて掃除機!」というような、アレだ。しかし、たとえ目当てのものにたどり着くのに時間がかかるにしろ、その抽斗を端から開けてみる努力はするべきではないのか。すべてを「アレ」で済ませてしまっていいものか。
夕方、休日だからと食事の支度を請け負って、野菜入れから出して並べたトマトを眺めているところに、母が現れた。
「あんまりアレなやつはもうさっさとアレしなさいよ」
「わかってる。今そう思って選別してるとこ」
答えて手を振り、向こうに行ってろと母を追い払う。この「アレ」はまた別物だ。
(アレAとアレBの組み合わせとして正しいものを①~④の中から選びなさい。)
つぶやいて、これはアレの呪いだなと思う。
正解はA:「古くて傷んでそう」B:「諦めて処分」だが、それらしい選択肢を残り三つ考えつくまで、今夜は眠れない気がする。
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