湖の虹
イタリアっていう国のね、古い、でんせつなんだって。カレッツァっていう、きれいなみずうみがあってね、そのみずうみの、でんせつなんだって。
幼い娘の説明に、私は耳を傾け、ひとつひとつ頷いた。ベッドに横たわる娘の胸には、美しい一冊の絵本が抱かれていた。
だからねパパ。おねがい。せっかく、パパにはまほうのさいのうがあるってわかったんだもん。ちゃんとべんきょうして、このお話みたいに、みずうみににじをかけられるようになってほしいの。パパが、ヤッホーヤッホーっていいながらみずうみににじをかけるでしょ。そうしたらわたし、そのみずうみでおよぐわ。それからパパがにじをひぱって、ちぎって、ぜんぶみずうみにいれちゃうの。おはなしのとおりに。きれいな、にじいろの、みずうみのできあがり。おはなしとちがうのは、わたしはにげてしまわないで、パパにだきついて、キスするってことよ。ね。やくそくね。
幼い娘の細い指に自分の武骨な指を絡ませて、私は約束した。昨日、晴明魔法学院から使いが来て発覚したばかりの、なけなしの魔法の才。
修行して得る魔法を決して営利目的に使わないことを宣誓して、文書にも署名して、私は魔法の勉強を始めた。忙しくて、娘のそばにいてやれない日も多くなった。
虹をかけられるようになるまで、三年かかった。石の上にも三年、と、私は娘に笑いかけた。笑い返す娘の笑顔は随分弱弱しくなっていたけれど、私は勉強を続けた。自分のかけた虹を実態のあるもののように引っ張り下ろし、ちぎって湖面に投げ込めるようになるのには、更に十五年を要した。
カレッツァ湖に赴き、私は虹をかけた。虹をかけるのに特に呪文は必要ないが、娘に約束した通り、私は「ヤッホーヤッホー」と言いながら杖に見立てた木の枝を振った。美しい虹が、湖面に映った。その虹を、私は引きずりおろし、粉々にちぎって湖に投げ入れた。娘が持っていた絵本の魔法使いにも負けないほど、怒り狂って、嘆き悲しんで、自分がかけた虹を引きちぎった。
七色に輝く湖のほとりに呆然と佇む私の前に、不思議な、マントのような割烹着のような服を着た人々が現れた。彼らの服には大空や森を背景にたくさんの花や虫や動物が無節操に入り混じって遊んでいる模様が描かれていた。
「子供との約束評価委員会」だと、彼らは名乗った。
「あなたはご自分の人生における十八年の歳月を費やして、娘さんとの約束を守られました。我々はあなたに、最高評価の五つの☆を差し上げます」
そういって、掌に載るほどの、キラキラ輝く星を五つ、空中から取り出し、私の手に載せた。呆然と、私はそれを見守った。
一分ほども、見つめていただろうか。私の眼に涙が盛り上がり、溢れた。滂沱と涙を流しながら私は、手の中に星を一つだけ残して、残りを湖に投げ込んだ。
「何をするんです!」
驚いて止めようとしたが間に合わなかった委員会の人々が、私をなじった。
「せっかくの、滅多に得られない、五つ星ですよ?」
けれど、私は首を横に振った。
私は間に合わなかった。私が守ったのは、約束のうち、自分がする部分だけだ。娘が約束を守れるようにはしてやれなかった。
私がもらっていい星は、せいぜい一つだ。自分が間に合わなかったことで、最愛の娘に約束を破らせることになってしまったのだ。どうして二つ以上もの星を貰うことができるだろう。
泣きじゃくる私を囲んで、委員会の人々は湖を眺めた。投げ込まれた虹と星で輝く湖を。
「そうですね。では、あなたには☆ひとつだけを授与した、ということで記録しておきます。残りの☆は、いつの日か、あなたが天の国で娘さんに再開されたときに」
涙にくれながら、私は頷いた。私の肩に手を置くと、委員会の人々は現れた時と同じように音もなく去って行った。
投げ入れたものの輝きが湖面から消える頃、西の空に、星がひとつ浮かんだ。
了
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