暁の魚
はるかなる高みの草原を超えた向こうに、年中雪の溶けない山々の連なりがある。草原に向かう垂直な壁を登りながら、ノゥユは村に残してきた妻を想った。
出会った日からやっと一年、祝言からならまだ半年にも満たない新妻のオーリョは、生まれつき口がきけなかった。
普通と違い、耳が聞こえないわけではなかった。耳に故障はないのに、声を発することができない。こちらの言うことは完全に理解しているが、言葉で答えることができないのだった。
けれどそれは、ノゥユがオーリョに惹かれ、オーリョがノゥユに惹かれる、何の妨げにもならなかった。
ウルグルの成魚を自分の竿で釣り上げたくて、身を切るような雪解け水に足を浸しながら沢を登ってきた春の日に、ノゥユはオーリョに出会った。
浅瀬に踊る陽光のような金色の縮れ毛がノゥユを誘い、春の流れに遊ぶ小魚のような楽し気な手がノゥユに語りかけ、調理台の上の魚のような何者をも責めない深く透明な瞳がノゥユを捉えた。
釣り上げた魚を扱うあなたの手の優しさが好きだと、声を出さずにオーリョは言った。深みに揺らぐ魚の影に寄せるあなたの憧れが好きだとも言った。山や川やそこに生きる全ての命を敬うあなたを心から愛していると、わずかな指先の動きや視線だけで、彼女は伝えることができた。
オーリョと同じ日に生まれて姉妹のように育ったというサリュは、声をもって語ることをしない親友を深く愛し、一生かけて自分が護ると堅く誓っていた。そのサリュも、二人の想いを否定することはできなかった。
生まれ育った町に戻らないことを、ノゥユは迷いなく決めた。オーリョのいるこの村で、畑を作り、魚を獲って生きる。贅沢はできないがささやかな幸せは作れると思った。自分はウルグルの成魚を釣ることができるから、食うに困ることはないはずだと。
幼魚は、雪解けの水に混ざって人里に降りてくる。雪解け水と同じ白っぽい碧色の、掌に乗るほどの魚だ。時期にはたくさん獲れる。平地が少なく牧畜にむかない山間の村の主要な蛋白源であり、わずかな収入源でもある。
成魚は、深い淵にひっそり棲む。大人の二の腕ほどの大きさで、淵と同じ、暗く深い緑色をしていた。そのわりに臭みのない柔らかな身が幼魚より少しばかり高く売れるのは数が少ないからだと、村人は信じていた。自分たちの口には決して入らないその肉が実は、若返り効果を歌われて、町ではどれほどの値で取引されているか、村人は知らない。
ノゥユも、知っているからといって自分だけが儲けようとは思わなかった。村人と同じ、幼魚より少しばかり高い値でウルグルの成魚を売って正直に暮らそうと思っていた。その伝説を聞くまでは。
一年を通して雪が溶けきることのない山々の、頂近くに、それでも夏の間数日間だけ現れる水たまりに、その魚は棲むという。人の背丈ほどの大きさの、暁色の魚がいて、その数日の間に、数億個もの卵をうむのだと。それこそがウルグルの成魚なのだと。
雪の峰にたどり着くには遥かなる高みの草原を越えねばならず、草原にたどり着くには垂直な壁を十日間も登らねばならない。それは、山に登ることそれ自体を目的として山に挑む者の行く道だ。ノゥユは釣り人に過ぎなかった。そして釣り人として行くからには、釣り具を携えていかねばならない。生きて帰れるかどうか、いや、生きてたどり着けるかどうかさえわからない。それでも、ノゥユは憧れを抑えることができなかった。人の背丈ほどの暁色の魚を、どうしても見てみたかった。ノゥユはウルグルの成魚を一尾だけ町で売り、すべての必要を整えた。
サリュは怒り狂い、大鎌を持ち出してノゥユを追い回した。涙を流し身を投げ出してノゥユをかばうオーリョの前に刃物は手放したものの、出発の朝までずっとノゥユに付きまとい、死んでしまえと罵り続けた。
年に数日しか現れない水たまりで、どうやってそんな大きな魚が生きていけると思うのか。子供でも分かるそんな大法螺に惑わされて新妻を捨てていこうなどという男は帰ってこなくていい。死んでしまえお前など。
ノゥユは新妻を、捨てるつもりなどなかった。オーリョへの愛は初めて会った日から微塵も変わっていない。けれどそれを、サリュにわかってもらうことはできなかった。
出発の朝、サリュは初めてノゥユに「生きて帰ってこい」と言った。ただしオーリョがお前を待っているなどと思うなと。お前が戻ってきた時彼女の腹に宿っているだろう誰とも知れぬ男の子供を愛し育てる勇気があれば、生きて戻ってこい、と。
そういうこともあるかもしれないと思った。ごく普通の女である妻が、悪意を持った相手に力で抗えはしない。かといってそういう目に遭ったとき自分や相手や宿った命を傷つけたりも絶対にしないのがオーリョだった。それこそが彼女の強さだ。彼女の、そういうところも好きだった。
垂直な壁の途中に自身を固定して蛹のようになって眠るたび、ノゥユは夢に見た。
暁色の魚がオーリョの顔をしていて、自分を水の中に誘う。自分と魚は交わり、自分は死んで、村ではオーリョが誰とも知れぬ男の子を孕む。またある時は女神が現れ、釣り上げた魚を放せば妻が口を利けるようにしてやろうと言う。必要ないと答えた。魚は放すが、妻は今のままでいい。
たどり着いた水たまりには、白い大きな魚がいた。朝日を浴びて暁色に輝いたそれを、ノゥユは釣らなかった。釣らないことを決めると、魚は氷の壁に溶けて消えた。
山を下りると、妻は微笑んで彼を迎えた。
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