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六月某日 晴れた空の下

 朝一番で干した洗濯物を取り込んで、昼前に洗ったシーツを干している時、耳元を何かが飛び過ぎて行った。
 昆虫の、翅の音。わりと大きい。一瞬、最大サイズのスズメバチを想像して、頭のどこかが緊張した。しかしほぼ同時に、蜂の羽音ではないと判断する。バッタやカマキリのそれでもない。もっと硬そうな翅の音だ。甲虫っぽい感じ。
 顔を上げると、目線の一メートルほど先、庭の木斛の梢近くを、タマムシが一匹、きらきらと陽を弾きながら飛んでいた。
 その虫が耳をかすめてからそこまで移動する間の時間に、自分の記憶はだいたいの大きさと質感を正しく構築していたのだ。なんとなく満足する。 
 ものがタマムシであるだけに、この自己満足は妙に誇らしげに輝いた。私の中で「玉虫色」は、「見方に寄ってどのようにも解釈できる曖昧な表現」という意味ではなくて(私はこの表現を一生使わないだろうと思う)、この世界の不思議と魅力を象徴するようなただただ綺麗な贈り物の一つだ。
 もっと精度が高くないと、「蜂ではない」「大きめの甲虫」なんて大雑把な聞き分けでは、特に誰かのあるいは何かの役に立ちそうな気もしないけれど。それでも。
 これまで生きて来た年月も全くの無駄ではなかったらしい、などと大仰に考える。
 みんなちゃんと気づいているかなと思う。こんなふうに、月日は積み重なっていくんだよ。こんなふうに、世界は色を増していくんだよ。大人になったからって、色褪せてったりしないんだよ。
 十年しか生きていなくても、私の倍もの細かさで多くの虫を聞き分け、虫博士と呼ばれるような小学生もいるだろう。一方で、健康な聴覚を保ったまま私の倍生きたとしても虫の羽音に違いがあることさえ知らずに過ごす人もいるだろう。どちらがいいとか悪いとか、ましてや劣っているとか優れているとかいうのではなくて、それぞれに違う恵があるというだけの話。
 みんな、ちゃんと喜べてるかなと思う。ちゃんと、自己満足できているかな。できれば毎日、小さな満足があるといいなと思う。
 今日の自己満足は金緑色。青空の下を飛ぶ。

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