ENMA
「冷やしタヌキの並、刻み海苔とウズラを抜きにして、その分値段を安くしてくれるかい」
初老の男性がカウンター越しにそう注文した。肘まで捲った作業服の袖から日焼けした筋肉質の腕が伸びている。柔和な口調の裏に高圧的な態度が透けていた。相手が若い女性店員だからかもしれない。
県内に6店舗を構える人気のうどんチェーン「む碍ん」の永津久店。これから正午を回ろうという時刻だが駐車場はすでにいっぱいで、店内には注文待ちの長い列ができている。
冷やしタヌキうどんはこの店の人気メニューである。角がシャンと立ったコシの強いひやうどんにキンと冷えた特製の甘醤油のつゆをかけ、たっぷりの揚げ玉と刻み海苔、刻んだオクラと茄子天、ウズラの生卵を乗せる。540円。
「あーすみません冷タヌはトッピングを抜いてもお値段はそのままになっておりまして」
店員がすらすらとお断りの文言を返すと、男性の眉間に深い皺が寄った。
「ああ? おかしいだろそんなの、海苔もウズラも乗せない分そっちの得になるだろうが。浮いた原価丸々安くしろってワケじゃないんだよ、この、540円からいくらかでも安くならんのかって言ってんだよ」
音量は大きくないが、低くよく通る声なので凄みがある。
「ではご説明いたします、失礼します」
店員はそういうが早いか、落ち着いた様子で手元の機械からコードを伸ばし、澱みない動作で先端の針をカウンター越しの男性の首元へ差し込んだ。瞬間、「ぶ」と鳴ったのは喉の奥かそれとも接続音か、男は体を小さく一度スンと震わせてその場に直立した。
一瞬のまばゆい閃光の後、男性の脳内に広がったのは「む碍ん」の調理場の光景である。誰に言われたわけではないが、自分がこれから作ろうとしているのが冷やしタヌキうどんであることは初めから分かっていた。麺釜の隣の幅の広いザル、通称“休ませ”にあげられた一人前のうどん玉を、向かって右手の茹で場のスタッフから受け取り、すぐさま氷水に潜らせてからよく水を切って丼へ。お玉一杯分の特製つゆを回しかけて、トッピングは……? そうだ、この「タヌキ」と書かれたレバーを引くと、全ての具材が定量で丼に落ちてくる仕組みになっている。レバーと連動してカッターの刃が傾き、殻を割られたウズラの卵から中身が流れ出てくる。む碍んはこの一連の機構で特許を取っているらしい。
「冷タヌ並お待ち!」
かけ声は元気よく。次の注文は? 冷やしタヌキ並、次は? 冷やしタヌキの大、次は? 肉うどん並と冷やしタヌキ並、次、たまとろの並、次。肉うどん大、生姜生醤油の並、冷やしタヌキ並、冷やしタヌキ並、次。
次、次、次。
ランチの時間帯、客のなす列はどんどん最後尾が延長されて終わりが見えない。単品で税抜600円を超えるメニューがないこの店では効率と回転が命である。駐車場が満車だったから、という理由で諦めて帰るお客さんを少しでも減らさないといけない。次、次。ん?
次の注文は冷やしタヌキの、海苔とウズラ抜きだ。具材の抜き注文は、不必要分だけを別皿で受け止めて取り除くのがマニュアル通りの対応になる。効率のため抜いた海苔もウズラもすぐさま廃棄にするしかないが、提供速度は回転率に直結するので背に腹は代えられない。何しろ俺はこの長蛇の列をできるだけ早く捌かねばならないのだから───
ぶ
瞼を開くとそれまでの調理場の光景は消え去り、男の目の前には笑顔の店員が立っている。俺は何をしていた? そうだ、久しぶりにむ碍んにうどんを食いにきて。
男は首元に針を差し込まれてから一秒に満たない間に、“冷やしタヌキうどんのトッピングのどれを抜いたとしても、それは値下げの理由にはならない”ということを完全に理解し、納得していた。
「冷やしタヌキの、並。海苔とウズラ抜きで」
「冷タヌ並の海苔タマ抜き〜!」
「はいよ〜」
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202X年6月X日放送
ニュース・ザ・デイライト
午前10時42分
「多馬で起こったこちらの事件、先月も同様の手口で逮捕者が出ています。円見さん、専門家の視点からご意見をお聞かせください」
「えー、そうですね、まあ、あの、この手の事件、良いか悪いかでいったら絶対に悪いんでしょうけど、そこに至るまでの過程や犯人の心理って完全には理解できないというか、今わかってる情報だけで言ったらそれは、普通に身勝手だな、独り善がりだなって感想を持つんです、でも、実はこの犯人にはこういう背景があって、みたいな情報が後から出てきたら、それまで抱いていた気持ちってもう、全く的外れになってくる可能性があるじゃないですか。
わあ、事件の前にそんなことがあったんだ、そうだったんだ、じゃあもう仕方がないじゃん、とまでは、流石にいかないかもしれないですけど、でも、翻って自分が全くその、犯人と同じ境遇にあったとして、それでも自分が同じ過ちを起こさないかと言ったらもう、それは全然、否定できない。だからもう、今出てる情報だけでこれが悪い、これを正せばいい、こうすれば良かったのにみたいなことって言えなくて、実際ほんとに全部、もう、全てがそうなんですよ。
どんな凶悪な、理解し難い所業でも、日常の、ほんの些細な、結果的に過ちとなってしまった判断でも、“自分なら絶対にそんなことしない、しなかった”なんて言えるのは、今の自分が、偶然、偶然、偶然の重なりの結果として、たまたまそんなことをせずに済んでいるだけであって。
我々だって、今はこの立場でものを言ってますけど。どんな環境に生まれ落ちたとか、最初から背負わされてるもの、生きてるうちに背負うことになったもの、通過してきたものが、その、今の我々の価値観からして信じられない、悪の所業を為した人物と全く同じだったとして。そして、全く同じタイミングで、被害者になり得る人物と邂逅したとして、果たして、同じように犯罪を起こさずに居られるかといったら、もう、わかんないですよ。そうではないですか」
「はい。あー、えー、円見さん、ありがとうございました」
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その“装置”の成立の起源は、ずいぶん昔、ということだけしか分かっていない。AI技術革新の黎明期、まだ満足な法整備もされていなかった時代、残された僅かな資料から推察するに、WEB上で100名を超える技術者が装置の開発に当たったようだが、今となっては全員の身元が判然としない。
装置とその仕組みは、ENMAと呼ばれている。
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「これから私たちが行うのは犯罪です」
東京高等裁判所の3階、フロアマップでは空白になっている小空間の中央にその装置はあった。判事補の棚加は装置上部の平面にぺたりと左の掌を置いたまま説明を続ける。
「さて、この中にあるのは間枝宏綺の大脳皮質から抽出した、その生涯の記憶と思考ルーチンです。
間枝は幼少期、同居していた母方の祖父母と実母から過干渉と暴力による虐待を受けており、学生時代は間断なく部活の先輩、同級生、ときに教諭からも残酷なハラスメントの対象とされてきました。社会人になってからの惨憺たる暮らし向きは本人のウェブログに詳しいですが、与古山さんはそちらもよくご存知かと思います。
さて、いわゆる重大犯罪者の思考ルーチンがセットされたENMAを接続するにあたって──」
棚加の言葉を遮るように、パイプ椅子に浅く腰掛けたスーツの男が、右手を軽く前に上げた。与古山昭伸。自身も法曹であり、2年前、当時25才だった長女を間枝に殺害されている。
「装置を起動・接続させるにあたっての注意事項は3つ。
一、ENMAで得られる他者の思考ルーチンは、当人のものと混濁しないよう厳格にコンパートされている。当然それが犯罪者のものであったとしても、ENMAが人格へ干渉したり、元の記憶を汚染することはない。
二、ENMAで得たシミュレートの結果は、決して第三者に開示してはならない。
三、特定犯罪の被害・加害関係にある者同士はENMAによる記憶情報の受け渡しを行なってはならない。これは被害者・加害者の二親等までの親族に適用される」
与古山は棚加の言葉の後を引き取り、澱みなく誦じた。棚加が言う。
「失礼、与古山弁護士には釈迦に説法でした。そして、これから私たちが犯すのは、その第ニ、第三の事項です」
与古山は無言で深く頷いたが、その所作は懺悔のためにうなだれたようにも見えた。
「与古山さん、2年前に娘さん── 莉南さんが亡くなったのは、果たして必然だったのでしょうか。私は決してそう思いません。加害者がそれまでどんな人生を歩んでいても、どんな背景を背負っていたとしても、過ちは過ちであり、罪は罪であるということを、私たちは証明しないといけない」
「ありがとうございます。棚加さん、こうしてあなたを巻き込むことになってしまい、申し訳なく思います。
私は間枝の思考の中で、間枝のまま、間枝を否定するつもりです」
与古山の娘、莉南は間枝に殺害された後、生前の派手な交友関係からいわゆる“魔性の女”であったとして報道され、世間から強いバッシングを受けた。弁護士の娘という立場や、間枝が自らの生涯の悲惨な歩みをブログに詳細に書き残していたということもあり、事件直後、莉南やその遺族に向かう誹謗中傷は度を超えたものになった。莉南のような女は遅かれ早かれ誰かに殺されていただろう、そんな心無い声が、遺された与古山たちを蝕んだ。
与古山は司法修士時代のつてを頼りに、間枝の事件を担当する棚加にコンタクトを取った。与古山は棚加に懇々と、娘の無念、そして自らの正義を説き、今回のこのENMAを用いた試みについて全面的な協力を得るに至ったのだった。
ENMAは単なる記憶の再生装置ではなく、シミュレーターである。設定された思考ルートを逸脱した際には、状況に応じて「そうだったであろう」続きの世界が接続者の脳内に展開されるようになっている。
「間枝の52年分の記憶を反芻するためには約2時間は必要です。装置を起動した後も、私はずっと側にいます。ご安心ください」
「心強いです。よろしくお願いします」
「それでは参ります。よろしいですか」
ひと呼吸おいて、与古山は答えた。
「はい」
ぶ
ぶ
「────山さん。与古山さん」
棚加に肩を揺さぶられながら、与古山は二重、三重だった遠い視界が、徐々に一つの濃い輪郭に収束するのを眺めていた。
「大丈夫ですか? ああ、すごい汗だ」
棚加は装置の傍らに置いてあったビジネスバッグから新品のミネラルウォーターを取り出すと手早くキャップを捻り、与古山に手渡した。与古山は口の端から細く水をこぼしながら一息もつくことなくがぶがぶと喉を鳴らし、そのままボトルを空にした。ワイシャツの背がぐっしょりと濡れている。ただ、全身を巡る熱気のせいでまだ冷たさは感じない。
棚加は与古山に何も尋ねなかった。尋ねられなかったという方が正しいかもしれない。棚加は、ただ静かに、目の前の男が話し始めるのを待った。
「いやあ……棚加さん、ひどい時間でした。文字通り、 悪夢のような……」
与古山が口を開いたのは、装置が停止してから15分ほど経ってからのことだった。
「でも、私は、成し遂げました。間枝としての私は…… 莉南を殺しませんでした。間枝の罪は、間枝だけのものでした」
「そうですか。そうでしたか。良かった」
良かった。本当に良かった。
棚加は心から安堵した。この試みは、理論的には非常に高い確率で自らの娘を手に掛ける体験を与古山に課すものだったからだ。前述の通りENMAは完全な記憶の追体験をもたらすものではない。しかし、経験の蓄積とそれに基づく思考回路のトレースは、ほとんどのシミュレート結果を同一の帰結に導く。今回与古山が間枝の思考ルーチンの中で莉南を殺害せずに済んだということは、間枝自身の行動選択肢の中に「殺害しない」が含まれていたことに他ならず、間枝は間枝自身の判断によって──つまり、彼が現在置かれている環境や生育過程の刷り込みによって“どうしても、仕方なしに”ではなく──与古山莉南を殺害したということになる。
「与古山さん、本当にお疲れ様でした」
これで心置きなく間枝を憎めますね、とは、きっと言わない方がいいだろう。心の中に「殺さない」が残っていたならなぜそれを選ばなかったのか。娘が殺されたのは決して必然ではなかった。必然でなかったのなら、なぜ。この疑問と誰に縋ることもできない悔恨はこれから生涯に亘って与古山の胸中にこだますることだろう。
「棚加さん、今日はありがとうございました」
与古山は絞り出すように言った。
嘘をついていた。
両手に娘を縊った感触が残っていた。