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BFC3幻の2回戦に参戦

#BFC3幻の2回戦作

万条由衣 『決心』

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 みずうみに行った。水色のワーゲンをパーキングに停めてみずうみのへりまで並んで歩いた。ときどき道の向こうから人が来るので、片側に寄ってあなたのうしろを歩いた。すれちがってしばらくすると、あなたの手が私の手をさがして引き寄せるので、またとなりに並んでみずうみをめざした。湖面には鳥の形を模したボートが浮かんでいて、あなたは私に視線をおくったけれど私はしゃがみこんで、光る石、それは瓶が欠けてその破片が削られ流れついたシーグラスよりもやや角がとがっているけれど、液体じみたしつこいきらめきをともなって充分誘惑するものだったし、手首から切断されて放られた指の形をした貝なんかだって転がっていたから、そういったものたちのほうにこそ興味があるふりをして、やり過ごした。
 夏の日にみずうみを見た。山でキャンプをした帰り道、私たちが乗るワゴン車はすんでのところでみずうみを通り過ぎてしまうところだった。ハンドルに手を置いたあなたは、どうする? とふりむいた。私の太ももには男の子の頭がのっていて、遊びつかれた男の子は深い眠りのなかでもなお虫捕りに興じているのかその顔には笑みが浮かんだままだった。私の片方のお乳はやわらかな、けれど強い吸引力を発揮する女の子のくちびるにあてがわれていた。ワゴン車はみずうみのへりをゆっくりと走りつづけた。というのも、そうしたほうがいいだろう、とあなたが言って私が同意したからしかたなかったが、おだやかによせる波にほてった足さきを浸すことができなかったのは残念だった。ゆっくりとゆびさきからしのびこませてもきっとみずうみのあの水はひどくひんやりとして、むすうの虫が這いあがってむずむずする感じが背中にのぼってくるのを少女のようにはしゃいで声をあげたりしてみたかったのかもしれなかったが、その役目はいずれこの子たちに引き継がれていくのだと思い、首から上だけをみずうみに向けてこっそり眺めるだけにした。あのとき湖面は硬質な石のようになって細やかな光を反射していて、その表面を歩いてみたらあの遠くにのぞむ山々にたどり着けそうだった。歩いている途中に硬い表面は水となってほどけて、皆ずんぶくぐりしてしまうさまを想像して身ぶるいが起きた。かんちがいしたあなたは、ちょっと冷えすぎるか、と言ってエアコンの設定温度を上げたついでにラジオのスイッチを入れた。ボリュームをしぼってね、と言おうとしたとき十年前のヒットナンバーが車内にあふれだした。あなたはもてあました指でハンドルを叩きながらリズムをとったけれど、それはいつかと変わらずに微妙な具合に狂っていて私は少し笑った。
 みずうみはテレビに映っていた。近くの休火山が噴火した、とみずうみをバックにつっ立っているアナウンサーが目じりを上げもせず下げもせず一定の声質で告げていた。大きな噴石が登山客をおそい、そのうちの数人が亡くなった。アナウンサーが着用しているジャンパーと水中メガネみたいに大きなレンズが、みるみるうちにくすんで灰色になっていくのを見ていた。私は、みずうみと山がさほど離れていなかったことを知っておどろいた。それに思っていたほど大きくなかった。もともと川だったところに、土石流がおきたり、噴火で石が飛んできたりしてせきとめられ、みずうみはできたのだと説明されていた。地図で示されてみればアメーバじみた形をした、私が住む町よりも狭い水たまりにすぎず、今回の噴火で埋もれてしまったらどうしようと気が気ではなかった。
 秋の朝、みずうみにきた。空をまんべんなく埋めつくした雲は、私が乗った特急電車を追いかけるようにしてついてきた。みずうみの最寄り駅におりたったものの、ずっと考えごとをしていたせいでロータリーに待機していたかもしれないタクシーを見落とし、けれど歩いているうちに四十分なんかすぐに過ぎてしまった。重い雲の緞帳はおろされたままで、みずうみは空からありったけの憂いを抱えこまされていた。その色や水音や、まとわりついてくる空気にいたるまですべてが今の私をそっくりそのまま映しだしている。気がつくと私は顔を砂利につけ突っ伏して泣いているようだったので、いっそこの水になりたいとねがった。右手の方に群れているのは鳥の形を模したボートだった。二十年のうちに子どもたちは反抗期や思春期をむかえ、それぞれの受験をのりこえた。そのあいだ夫婦には五回ほど選挙なんかもおとずれたりして、交わされた言葉は胸の内をけずり洞をつくった。柔軟に生きることができたなら、もう少し楽なのかもしれない。けれど私はきっと母ににているのだ。それから私はすっくと立ちあがり、からだについた砂利をはらいはじめる。春になったら湖畔のあの桜の木には、白っぽい薄桃色のかわいらしい花が咲きみだれるだろう。それを父と母と、子どもたちや姉夫婦らとみんなで眺められたら……。私はみずうみに向って大声で言う。いいえ、決して! すると背後からあなたがかけよってきた。ありがとう、うれしいよ、言いながら私をつよく抱きすくめた。後悔しない? と問われたけれど、口をかたくつぐんで家を出て特急電車に飛び乗ったのだった。あの子らが産まれた記念に町から贈られたハナミズキの木を根こそぎ掘りおこして車二台分のガレージをつくる、というあなたの提案を、私は受けいれることにした。


万条 由衣


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