ペーパーバックを読む #15
カズオ・イシグロとイアン・マキューアンのAI小説
一ヶ月か二ヶ月前だったと思うが、いつも読んでいる新聞の書評欄に、カズオ・イシグロの新作小説「クララとお日さま」と、イアン・マキューアンの新作小説「恋するアダム」がひとまとめにして紹介されているのを読んで興味を覚えた。この二人はどちらも現代英国を代表する人気作家だけれど、作風はかなり違うし、比較の対象になるとは思っていなかったからである。でも、その記事を読んで納得した。この二つの小説は、似たようなテーマをとりあげていたのだ。かつてはロボットとかアンドロイドと呼ばれていたが、現代ではAIと呼ばれることが多い、人間型の人工知能が主役あるいは准主役の物語である。かつてはブラッドベリやクラークや小松左京を熱愛するSF少年であり、70歳になった今でもSFへの興味を失っていない私は、さっそく、この二つの小説を読むことにした。(余談だが、今話題の中国SF「三体」3部作は日本語訳が出る前に読んでいて、その感想は、この「ペーパーバックを読む」シリーズで既に昨年紹介している。以上は自慢。)
先に読んだのは、Kazuo Ishiguro"Klara and the Sun"(日本語の題名は「クララとお日さま」)の方だった。 前作の"The Buried Giant"(「忘れられた巨人」)と同じく、ファンタジー小説のようでそうではなく、例えば、サン=テグジュベリの「星の王子さま」のように、大人も子供も楽しめて、大人になればなるほどその深い意味に気づくといった名作とも違う、まあ、はっきり言うと、何が言いたいのかはっきりしない退屈な小説だというのが正直な感想だった。私は、カズオ・イシグロの愛読者だと自認しているのだが、全ての小説が気に入っているわけではない。それでも、ノーベル文学賞受賞後の初めての小説ということで期待して読んだのだが、少々、がっかりした。もちろん、小説というのは作者と読者の合作という面もあって、深読みしようと思えばいくらでもできる。力量のある作者によっては、そんな詮索好きの読者のために、物語のどこかに普通の読者なら気づかないような目印を密かに残しておいたりもするのだ。その場合、作者はお釈迦様で読者は孫悟空だということになる。読者自身の分析力や批評眼によって深い意味を発見したのではなく、もともと作者がそのような読解をさせるように仕掛けてあったのだ。だから、今回、この小説を面白く読めなかったのは、カズオ・イシグロのせいだけではなく、著者の意図を読み切れなかった読者である私の責任でもあるわけだが、でも、私にはこの小説にそんな深い意味や仕掛けがありそうには思えなかった。ひょっとして、私は孫悟空でさえなかったのかもしれないが。
というわけで、以下、すこし小説の内容に触れる。これからこの小説を読む予定の人は注意してもらいたい。私がこの小説を読んで連想したのは、アニメ映画の「トイ・ストーリー」だった。この小説の主人公クララは、子供の遊び相手として商業ベースで造られた人間型AIの一体である。長らく店頭に陳列され、自分を友達として選んでくれる子供が出現することを、仲間のAIたちと待っていたが、そんな子供はなかなか現れなかった。しかし、ある時、ようやく自分を愛し選んでくれる女の子が現れた。その女の子は、最新式のAIをすすめる母親を説得して、他ならぬクララを選んでくれたのである。クララの幸せな新生活が始まった。しかし、その女の子は生来虚弱な身体の持ち主だった。ある時、重い病気で寝込み、生命の危機が訪れた。女の子を救うため、クララはお日さまと取引をする。たぶん、太陽発電で作動しているクララにとって、お日さまこそが生命の根源だった。だから、お日さまにお願いすれば、女の子の命は助かるに違いないとクララは思ったのである。お日さまとの密かな契約を果たすためにクララは奔走する。たぶん、このあたりが、この小説の山場になるのだと思う。クララがしたことは、煙を吐き散らして、お日さまを隠してしまう機械を動けなくすることだった。地球環境問題をとりいれたんですね。テーマは違うが、深刻な社会問題をファンタジーにとりいれたという意味で、エンデの「モモ」を連想させる。でも、煙を吐き散らす機械は、クララが壊した、それ一台だけではなかった。クララは、お日さまとの約束を果たせなかったのである。さあ、クララはどうしたか。ここは書かないでおきましょう。あとは自分で読んで確かめてください。結局、女の子の命は救われた。女の子は、その後、すくすくと健康に育った。でも、女の子の成長は、クララとの別れを意味するものでもあった。ある日、遠い地方の学校に進学する女の子は、クララとともに育った懐かしい家を出ていく。このあたりがまさに「トイ・ストーリー」そのものですね。愛する女の子にとって、もう不要になってしまったクララの悲しみ。カズオ・イシグロの描写は、例によって淡々としている。それはいいのだが、問題は、この小説は「トイ・ストーリー」以上の深い感動を読者にもたらしたのかという事だ。残念ながら、私にはそうは思えなかった。
次は、IAN McEWANの"Machines Like Me"(「恋するアダム」)。この英語の原題からわかるように、この小説の主人公は、Adamと呼ばれる人間型AIではない。Adam を、「自分に似た機械」だと認識している人間、この小説では、死んだ母親の遺産で高価なAIであるアダムを購入したけれど、実生活では失敗続きで、かろうじてネットでの株の売買で生計をたてている男性、つまり「リア充」ではない、チャーリーという若い男だ。このチャーリーは、同じ建物の階上に住むミランダという謎めいた女性を愛していた。舞台は80年代のロンドン。でも、このロンドンは私たちが知っているロンドンではなく、平行世界の、こうもありえた世界のロンドンだった。この小説は、カズオ・イシグロの小説とは正反対の、皮肉に満ち満ちた大人の物語だった。なにしろ、人間そっくり(能力は人間より遙かに上)のAIと人間のカップルの三角関係を描いているんだから。
ここで、この小説の内容に触れる前に、著者のマキューアンについて書いておきたい。イアン・マキューアンの作品といえば、"Atonement"が有名だ。日本では「贖罪」と訳されている。映画化されて、「つぐない」という題名で公開された。キーラ・ナイトレイが実に美しくて魅力的でした。しかし、私がイアン・マキューアンの名前を知ったのは、この作品がきっかけではなかった。「贖罪」より前の作品であり、カズオ・イシグロが受賞してから9年後の、1998年度のブッカー賞を受賞した"Amsterdam"によってである。この頃には、私は毎年のブッカー賞の受賞作を読む習慣ができていた。ということで、翌年の1999 年7月に読了している。今では小説の内容を忘れているのだが、当時書いた簡単なメモによると、知的な皮肉の効いた、巧みな小説だと評価して、「一人の女性を愛した事のある4人の男達の物語。その女性の葬式の場面から始まり、男達のうちの二人の死で終わる。主役は、小説に一度も登場しないモリーという死んだ女性その人だろう。社会的地位も才能もある男達を『死してなお走らせた』その魅力は読者が想像するしかない。実にうまい。」と書いている。これを読んでも、小説の内容は思い出せない。でも、巧みな小説だったようだ。
いつか、大江健三郎が丸谷才一さんの小説を、Ian McEwanよりずっとうまいと評していて、丸谷さんの大ファンだった私は、そんなことは当たり前だと思ったことがある。それどころか、1948年生まれ(カズオ・イシグロより年上だが、丸谷さんよりはかなり若い)のマキューアンを丸谷さんと較べること自体が失礼だとさえ思った。今、冷静になって考えれば、国際的には丸谷さんよりマキューアンの方がずっと有名なのだから、大江さんに悪気があったはずがない。大江さんとすれば、丸谷さんの作品がとても巧緻で素晴らしく、英訳されれば、もっと世界で高く評価されるのにということだったのだろう。
2000年に英国のペンギンブックスで出版された「現代作家案内」によると、イアン・マキューアンは、ジュリアン・バーンズ、マーティン・エイミスと並んで、英国人作家のビッグスリーに挙げられている。初期の彼は、幼児殺しや少年愛や近親相姦などをテーマにした物語を書いていて、かなりスキャンダラスな作家として知られていたようだ。その後、作風が変わって、ヒューマニスティックな物語を科学的な意匠とともに描くようになった。「アムステルダム」でブッカー賞を受賞して評価を高めたが、この小説には彼の弱点も現れている。それは、あまりにも緻密な構成を持っていること。彼の小説は読みやすいが、読後に、どうしても理解できない落ち着かない気分が残るのだ。というのが、この案内本でマキューアンの項を受け持った批評家による、イアン・マキューアンの評価だった。数冊しか彼の小説を読んでいない私には、この評価が妥当なのかどうか判断できないが、なるほどと思わないでもない。
さて、いよいよ"Machines Like Me"の内容紹介。先ほど「平行世界」と書いた。SFではよくある話で、そのひとつのジャンルに「歴史改変」モノというのがある。第二次大戦でドイツがあるいは日本が勝利した世界を描くという類いだ。このマキューアンの小説はサッチャー時代のロンドンが舞台なのだが、その世界ではイギリスはフォークランド紛争で敗退する。それでもサッチャーは、国民の同情を集めて、首相を続けている。さらに重要な改変は、あのアラン・チューリングが、英国の英雄として戦後も活躍を続け、アダムとイブと名付けられた数体の人間型AI開発の黒幕になっているという設定だ。(machinesと複数形になっていますね。)主人公のチャーリーはチューリングをとても尊敬していて、ある日、対面を果たす。カンバーバッチが主演した映画「イミテーション・ゲーム」をご覧になった方はおわかりのように、実際のチューリングは、戦時中の暗号解読の偉業を国家機密にされ、戦後は悲劇的な生涯を送った天才数学者だったから、こんなことはあり得ない。このように、この小説はそんな歴史の改変ぶりを読むだけでも楽しい。とても知的な皮肉がきいていて、いかにもマキューアンらしい才気を感じさせる。
では物語のほうはどうかというと、先ほど「三角関係」と書いた。そう、この人間型AIアダムは、なんと主人公チャーリーの恋人ミランダと、彼女に誘惑されたとはいえ、性行為を行い(これが可能なんですね)、さらには恋に陥ってしまうのである。その後、恋するアダムは何をしたか。なんと、ミランダに捧げる恋の短詩、アダムが言うところの俳句を詠むのである。主人のチャーリーを裏切ったことへの罪の意識と、諦められないミランダへの思いとの板挟みでアダムは苦悩する。しかし、そんなアダムが、チャーリーの代理で始めたネットでの株式投資で大もうけをすることで、チャーリーとミランダの生活は大きく変化するのだ。そして、アダムは、持ち前の情報検索能力により、ミランダの秘められた苦悩の原因を見つけ出し、チャーリーとともに、彼女を救うために活動を始める。しかし、AIであるアダムが考えていた救済と、人間であるチャーリーやミランダが考える救いとは意味あいが違った。その後、物語は意外な展開をする。どうです、面白いでしょ。というところで、後はご自分でお読みください。私としては、カズオ・イシグロの作品よりも、このマキューアンの小説の方がおすすめです。