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今月読んだ本 (18)

2024年9月

 英語を忘れないために、毎月kindle で読む英語の本。今月は、Rebecca F.Kuang "YELLOWFACE"を読みました。知らない著者の小説で、どうやら、まだ日本語訳はないようですが、アメリカでベストセラーになっているという情報と、本の題名とカバーのデザインが気に入ったので、読んでみることにしました。まあ、ジャケ買いですね。

 結論を言うと、ベストセラーになるだけあって、とても面白い小説でした。早く日本語訳が出ればいいと思います。でも、この人の小説は、やはり英米でベストセラーになり、英国ブックオブザイヤーにも選ばれたという"BABEL"(同名の映画とは別物。)もまだ翻訳されていないようなので、どうなるかな。ここで簡単に内容を紹介しておくと、これは、ビジネスの世界に劣らない苛烈な競争社会である現代のアメリカ文学界で、若い作家たちがいかにして名声と地位を獲得していくかを描いた物語です。著者自身は、この小説は底知れない孤独を描いたホラーだと言っています。確かに、アメリカで作家として成功するには、作家はこれほどまでの試練を経ねばいけないのかと慄然としました。まあ、この小説の主人公の場合は自業自得ではあるんですがね。

 ともに名門エール大学で学び、作家をめざした二人の女性。美人で才能に満ちあふれた中国系の女性の方は学生時代から既にデビューして時代を代表するベストセラー作家となり、一気にスターダムに駆け上がります。英語圏の作家の場合は世界中がマーケットですから収入も巨大です。もう一人の、この小説の主人公である白人女性の方はと言えば、デビューはしたけれどもほとんど売れず、無名作家のまま。当然ながら嫉妬の塊になりますが、表面的には二人は親友としてつきあいを続けます。そんな時、その美人作家が主人公の目の前で急死し、まだ未発表の小説の原稿がこの主人公の手元に入ることになります。主人公は、その原稿に手をいれて完成させ、その小説を売り込みます。エージェントや出版社と相談のうえ、名前を中国系風のペンネームに変えて、再デビューすることになりました。この小説は爆発的に売れ、彼女は文学界の輝かしい新星として認められました。でも、しばらくして、この小説は剽窃であるとして、主人公はネットで集中攻撃されます。さて、主人公の運命は?この先は書かないほうがいいですね。多文化主義が尊重されるアメリカ文学界では白人よりもアジア系や他のエスニックの作家が尊重されるというような話を含めて、ビジネスとしてチームで作家を売り出すアメリカ文学界の内幕も垣間見えて、すこぶる興味深い物語でした。それにしても、これはアメリカだけの話ではありませんが、SNSによるフェイク情報や誹謗中傷、さらにはキャンセルカルチャーの中で、作家をはじめ、クリエイティブな仕事をしようとする人たちにとっては現在は実に辛い時代ですね。

 さて、著者のRebecca F.Kuangのことです。なにしろ小説が翻訳されていないので、日本では情報がほとんどありませんが、ネットで検索して、少しわかりました。中国広州生まれの中国系アメリカ人。なんとまだ28歳の若さ。アメリカではファンタジー小説の書き手として知られているようです。Poppy Warという作品でネビュラ賞も受賞している。この小説の舞台にもなっているワシントンDCのジョージタウン大学(河野太郎さんの母校でもある)で中国文学を学び、マーシャル・スカラーシップを得て英国のケンブリッジとオックスフォードで学位を得ました。現在はエール大学で現代中国文学の博士号をめざしているそうです。学究肌なんでしょうね。教えることも好きなのだとか。今度の小説の中に、中国系の女性作家は、肉親が天安門事件で迫害され、やっとの思いでアメリカに移住したなどという、真偽不明の家族の物語を書いて自分を売り込んだりすると批判的に書いていますが、つまり、自分はそんな私小説じみたものは書かないという宣言ですね。というわけで、まだまだ若い彼女はこれからどんどん素晴らしい作品を生み出してくれるでしょう。彼女の小説が早く日本語に翻訳されることを希望します。

 次に読んだのは新書本、楊駿驍「闇の中国語入門」です。私は、定年退職後の長い時間を充実させるためには何かを勉強したり研究したりすることが一番だという経験者の意見に共鳴して、中国語の勉強を始めました。大学で東洋史を専攻していたので、それは自然な流れだと言えるかもしれませんが、私が卒業論文のテーマにしたのは朝鮮の実学で、その意味では韓国語を選ぶ方が自然でした。でも、「冬のソナタ」以来、韓国ドラマにはまった家内が先に韓国語の学習を始めてしまったので、真似をしたと言われるのが嫌で、私は中国語を選びました。でも、月に2回、教室に通うだけではやっぱり圧倒的に学習時間が足りません。十数年経った今も、私の中国語は初級段階のままです。最近では、日本と中国の関係は、過去最悪と言ってもいいくらい悪くて、中国語を勉強したいとか、中国へ旅行したいとか言う人の数は減っているようです。コロナ禍が終わった今も、互いの短期旅行ビザ免除が復活していないことも要因なのでしょう。私の場合は、当分、中国旅行はできないと諦めていますが、漢詩を読むときのたすけや認知症予防にはなるかなと思って、今も学習を継続しているのが現状です。

 この「闇の中国語入門」は中国語の入門書ではありますが、今まで私が一度も中国語教室で習わなかったような単語ばかりが取り上げられています。というのも、この本は現代中国社会入門でもあって、特に若い世代の生活状態や思想傾向を紹介する本だからです。両国の関係悪化が影響しているのでしょうが、最近の日本のメディアは、中国の人たちの現状を紹介する時には、好んでネガティブな情報ばかりを報じるので、過度な競争社会でもある現代中国を生きる若者たちの抑圧された窮状については、ある程度の報道がなされています。その意味で、この本で特に新しい知見を得たというわけではありませんが、楊さんの、若者たちの間での流行語を紹介するという方法で、彼らの行き場のない辛い現状がより胸に迫ってきました。特に、この本のあとがきに感銘を受けました。2023年の上海で魯迅に扮した若者が、「新しい文芸運動」を提唱したというのです。魯迅は、諸外国に蹂躙された当時の中国において、権力に唯々諾々と従っている阿Qたち(民衆)に向かって精神の反抗を呼びかけました。それが文芸運動だったわけですが、共産主義とは名ばかりの金権主義や権威主義と過度な競争に蹂躙され、疲弊しきった若者達に、「新しい文芸運動」をうながしているのです。楊さんはこう書いています。「古い中国は闇に終わり、新しい中国が闇から始まる。」。この本の書名には、そんな意味があったんですね。まさに、言語の入門書に偽装した希望の書です。

 次に読んだのは、高野秀行「語学の天才まで1億光年」でした。二年前に出版されてかなり評判になったので、文庫化されたら読もうと思っていたんですが、今月は語学学習の話題になったので、この際だからと電子本で読むことにしました。高野さんは著書が何十冊もある人で、読者も多いようですが、私は読んだことがありませんでした。印象としては、椎名誠さんのような書き手かな思っていた程度です。私は、高校生の頃には小田実の「何でも見てやろう」と北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」を愛読していて、この二冊は何回読みかえしたかわかりませんが、結局、バックパッカーにも旅行フリークにもなりませんでした。基本的に人見知りで、なおかつ怠け者だったので、行動するよりも本を読んでいる方が良かったんですね。旅行好きの家内と結婚してからは、年に一度くらい海外旅行をするようになりましたが、旅行の計画をするのはいつも家内でした。

 それだけに、高野さんのような無鉄砲な国際行動派には無条件で尊敬してしまいます。うろ覚えですが、私が若い頃に尊敬していた小田実には、やはり世界中を旅行していた開高健との共著「世界カタコト辞典」という本がありました。この本は、その本よりも更に凄い。主な対象になっているのが、著者自ら「辺境言語」と読んでいるマイナーな言語で、それを、これも著者のいう「ブリコラージュ学習法」で実践的に身につけていった方法論が実に生き生きと面白く書かれていました。あとがきで高野さんが書いているように、スマホやITが進歩して、いまやマイナーな言語だって機械翻訳が出来る時代になりつつありますが、言語には「情報を伝えるための言語」と「親しくなるための言語」があって、後者のためには、やはり著者のような言語学習の実践が一番なのだと思いました。この本は、そんな実践のための最良の教科書です。残念ながら、もう年をとってしまった私には実践する時間がもうほとんどありませんが。それにしても、高野さんの文章力は素晴らしい。まるで語学をめぐる冒険小説のようでした。なお、高野さんは、これまで25の言語を学んだそうですが、今でも使えるのは10言語以下。その中には中国語も含まれているそうです。これは大連で中国人教師に習った本格派。

 
 次に読んだのは文庫本。佐野洋子さんのエッセー本「役にたたない日々」。先月、谷川俊太郎さんの本を読んで、一時、妻として同居していた佐野洋子さんに興味を持ちました。これが初めて読む佐野洋子本です。佐野さんが中国からの引き揚げ者で、少女時代の一時期、大連に住んでいた事や、日本では静岡の清水に住んでいたというだけで親しみが一気に湧きました。大連は、一度行っただけだけれど、私の大好きな街ですし、清水にはこの夏に初めて行きました。ちびまるこのサクラモモ子さんの育った街ですね。まるこちゃんが大人になったら、佐野さんのようになったのかななどと思いました。佐野さんはもともとは美大を出た美術家だったんですね。谷川さんとの関係は、高村光太郎と智恵子のような関係だったんでしょうか。精神を病んでしまった智恵子。佐野さんも鬱や神経症に悩んだことがあるそうです。

 このエッセー本は、谷川さんとの離婚後に書かれたものです。文章の中で、ガンになったことが書かれていました。その闘病中に、「冬のソナタ」他の韓流ドラマにはまってしまった事も。いつも同じ姿勢でテレビ画面を見ていたのであごがはずれたなんて書かれていましたが、本当でしょうか。医者に行ったそうだから、本当なんでしょうね。谷川さんが佐野さんと付き合い始めた時は、佐野さんはまだ文筆家ではなかったそうですが、谷川さんは佐野さんの手紙の魅力の虜になったそうです。なるほどと納得できる、佐野さんの文章力でした。でも、やっぱりこの夫婦は破局するしかなかったでしょうね。西洋古典だけではなく、音楽が嫌いだという佐野さんと、毎日でもモーツァルトを聴いていたい谷川さんがうまく同居できるはずがない。結婚せずに、友達としてつきあえば良かったのにと、いまさら他人が言っても仕方がありません。佐野さんは、そのガンによって、70歳になるやならずで亡くなられました。このエッセーを読むと、もう死ぬ事なんて何でもないと達観されていたようですが、さて、本当はどうだったんでしょう。

 次は新書本(今回は電子本をkindleで読みました)、スティーブン・ウルフラム「ChatGPTの頭の中」。今や、GAFAMと呼ばれるグローバルIT企業の全てが莫大な投資を続けている生成AIですが、その先頭ランナーであるChatGPTの登場は巨大な衝撃を世界に与えました。今後、このChatGPTが、良い方向にも悪い方向にも、人類の文明を変えてしまうのではないかと多くの人が考えていると思われます。私もその一人です。試しに、無料のサービスを利用したことがありますが、こちらの質問に間髪をいれず、いかにももっともらしい、箇条書きに整った答えを返してきたことには驚きました。少なくとも私自身よりも頭がよさそうだと思いました。

 その後、いろいろな報道や書籍によって、ChatGPTがどういう仕組みなのか、なんとなくわかったような気になっていましたが、一度、ちゃんと勉強しておこうと思って選んだのが、この本です。結果、私のChatGPT理解はほとんど進みませんでした。そもそも、この本は私のような理数系に弱い人間向けではないんですね。 著者であるウルフラムさんは理論物理学者だそうです。40年以上も、計算言語やニューラルネットワークを研究していて、ChatGPT出現以前の質問応答ソフトWolfram/Alphaの開発で知られる人物だそうです。そんな、この世界の第一人者がChatGPTの解説をした。専門用語が多くて、やはり、私には無理でした。でも、そんなウルフラムさんさえ、ChatGPTが実際にはどんな作業をしているかよくわからないそうです。ニューラルネットワークとしてはそんなに複雑ではないのに、(パラメータ1750億だそうです。何の意味かわかりませんが。)ちゃんと言語を習得できるのだから、案外、人間の言語というのは簡単な仕組みなのかもしれないという記述が記憶に残りました。とりあえず、ChatGPTという奴は、膨大な言語情報を読ませるだけで、特に具体的な命令をしなくても、適当に自分で文章をつくるのだそうです。今のところは真偽の混在したもっともらしい文章も多い。でも、ウルフラムさんの考案したWolfram/Alphaは、ちゃんと正しい答えを出すそうです。だから、ChatGPTとWolframを併用するのがベストというのが、この本の主張のようでした。

 今月最後に読んだ本は文庫本。四方田犬彦「見ることの塩」上巻でした。副題は「イスラエル/パレスチナ紀行」です。本業は世界を股にかける映画研究者である四方田さんは、比較文学者にして批評家・詩人でもあり、自伝的文章や紀行文を含めて膨大な著作を刊行している旺盛な文章家です。私よりも二歳ほど年少ですが、ほぼ同世代で同じ大阪出身者であるこの人の本を私は今までかなり読んできました。まあ、四方田さんの全著作量から見たら、ほんの小部分を読んでいるだけですが、特に、韓国やニューヨークなどの紀行文を愛読していました。四方田さんの紀行文は、世界的知識人・文化人としての現地体験&交流記という性格を持ちながらも、まるでジャーナリストのような視点で書かれた現代史の記録といった趣があります。この「イスラエル/パレスチナ紀行」はほぼ二十年前に行われた紀行の記録ですが、文庫化するにあたって、最新の章が付け加えられました。

 ハマスによる拉致侵攻への反撃として始まった、今回のイスラエルによる軍事行動(大虐殺)は、対象をガザからヒズボラのいるレバノンにまで拡大して、いつ終わるのかも分からない情況になっていて、幼い子供達や女性達は今も殺され続けています。この二十年前の紀行文が今文庫化された意味はここにあるのでしょう。
私たちは、ガザの街や人々の惨状については、まったく十分ではなくても、断片的には情報を得ていますが、攻撃する側のイスラエルの街や人々についてはほとんど知識がありません。何も知らないと言ってもいい。私は、二十年前の記録ではありますが、この本を読んで初めて、イスラエルの街や人々の生活の実態がわかったような気がしました。最近流行の表現を使えば、解像度が上がった気分です。イスラエル人といっても、その一人一人の存在はアメリカ人と同じくらい多様で、とても一括りに出来ないということはこの本で知りましたが、それにしても、基本的には、周囲を外敵に囲まれて、極度に抑圧された情況にある人々だということでしょう。アラブの人たちを人間だと思っていないかのような傲慢さも、その不安心理の裏返しなのだと思えました。四方田さんも書いていますが、全ては、イスラエルという人工国家を作ってしまったことに原因があるのかもしれません。ユダヤ人にとっての地上の楽園をつくるはずが、悪性腫瘍のような地獄を作り出してしまった。

 

 


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