見出し画像

「世界の名著」を読む #07

マルクス その1

 今回はいよいよマルクスをとりあげる。「世界の名著」シリーズでは、マルクス・エンゲルスとして2巻をあてている。他に2巻を割り当てられているのはプラトンだけなので、これは破格の扱いと言えるだろう。それほど、マルクス(とエンゲルス)は重要な思想家だった。その共産主義思想は、一時、世界を変えた。そして実に多くの人々の人生も変えた。しかし、ソ連(ソビエト連邦=現在のロシアとその周辺の国家群ですね。)のあっけない崩壊によって、その思想はいったん死んだ。もちろん、いわゆるマルクス主義はエンゲルスが作り出したもので、マルクス自身の思想は本質的に違うという意見は、かつても今もずっと存在する。現に、ソ連崩壊後にかえって、マルクスは、政治運動の指南書ではなく思想として、真剣に読まれ始めたとも言われる。貧富の格差拡大や地球環境破壊などにより、一人勝ちしたかに見えた資本主義の未来に陰りが見えてきた現在、世間では今、ちょっとしたマルクスおよび「資本論」のブームだそうだ。

 正直に言うと、私はかつて「資本論」を何度か読み始めたが、一度も最後まで読み通すことができなかった。この年齢になって、何度目かの挑戦をすることも悪くはないが、読み通すことは、時間的にも体力的にも自信がない。
そこでまず、準備運動として、手元にある一般向けのマルクス入門書の類いを少しずつ読みかえすことにした。まずは、最初の本として、柄谷行人「マルクスその可能性の中心」をとりあげる。この本は1978年に刊行され、1985年に文庫化された。私が読んだのはこの文庫本。なにしろ書名がかっこよかった。なお、ソ連がゴルバチョフの辞任とともに解体されたのは1991年のことだから、私がこの本を読んだ時点では、まだソ連はちゃんと存在していたことには注意。この本は、文芸評論家として出発した柄谷さんが、哲学に転回した記念碑的作品だと言われている。私は、中上健次の盟友だった文芸評論家時代から、柄谷さんの読者だった。余談だが、柄谷さんは東浩紀さんの師匠筋にあたる人物だが、東さんは、現在、破門状態らしいですね。知らんけど。ちなみに、柄谷さんは、東大の経済学部を卒業してから文学部の大学院に進んで英文学を研究した。そして、漱石論で批評家デビュー。

 さて、「マルクスその可能性の中心」には何が書かれていたか。柄谷さんは、この書物の冒頭付近で、マルクスのこんな文章を引用する。

 商品は、一見したところでは自明で平凡な物のように見える。が、分析してみると、それは、形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとにみちた、きわめて奇怪なものであることがわかる。

 そして、利子を生み自己増殖する怪物である資本の象徴として貨幣をとりあげることは誰にでもわかるが、平凡な商品にこそ奇怪さを見出して驚くマルクスの視点こそが、「資本論」を読み解く鍵なのだと主張する。「資本論」とは、そんな驚きの視点で読まれた、古典経済学のテキストに対するマルクスの読解なのであり、それ以上でも以下でもないというわけだ。そこに新しい哲学はない。では、柄谷さんが読むマルクスの可能性の中心とは何か。それは、商品の奇怪さを考察することを難しく言うと「価値形態論」なのだが、そのマルクスの「価値形態論」において、マルクス自身にさえ「まだ思惟されていないもの」を読むことだという。これはいったいどういうことなのだろうか。柄谷さんは言う、従来のマルクス解釈では、有名な「労働価値説」に代表される「価値形態論」は、「貨幣の必然性」を証明するための章として片付けてしまっている。しかし、「価値形態論」こそが「資本」
の秘密を明かすのであり、実は、マルクス自身もこのことに十分自覚的ではなかったのだ。そして、哲学的訓練ができていない私などには理解がとどかないような難解な文章がいろいろと続いた後で、この論文の最後はこう結ばれている。

 マルクスのヘーゲル哲学の転倒は、ついにヘーゲルの用語のなかでなされるほかなかった。しかし、他のどの場所のヘーゲル批判よりも、『資本論』におけるヘーゲルへのこうした忠実さにおいてこそ、ヘーゲル哲学が否定されているのではないだろうか。『資本論』を読むことは、その困難の中に身を投じることである。

 この文章は、ニーチェはプラトン主義の転倒を企てたのだと主張するハイデッガーの文章を引用した後に書かれているのだが、実は、「マルクスその可能性の中心」そのものが、ハイデッガーの影響の元に書かれていると言えないこともない。ヘーゲルはプラトンに始まる西欧形而上学の代表として存在する。マルクスはそのヘーゲルを転倒した。しかし、困難はまさにここから始まるのだ、と柄谷さんは言うのだが、先ほども書いたように、久しぶりにこの論文を再読してみて、私にはよく理解できなかった。最初に読んだ若い頃には理解できていたのかな。でも、理解できないなりに思ったことは、この論文の肝にあたる文章はすでに冒頭部分に登場しているということだった。こういう文章である。

 価値形態論の叙述、あるいは「商品」という奇怪なものにとりくんだマルクスの考察は、たんに「ヘーゲルを転倒する」ようなものではない。たしかに、価値形態論は、一見すれば「貨幣の必然性」を、証明しているだけのようにみえる。しかし、貨幣の自己実現というヘーゲル的展開にもかかわらず、マルクスは、貨幣の成立が商品あるいは価値形態をおおいかくすことを語っているのだ。(序章3)

 私が考える、この文章の意味はこういうことだ。柄谷さんは言う。ソシュールの言語理論を援用すればわかるように、商品には内在的な価値があるのではなく、あくまでその価値は商品と商品の示差から生じるのだ。しかし、貨幣の発明はそのことを隠蔽してしまった。つまり、貨幣の存在が、まるで商品に内在的価値があるかのように見せてしまうということですね。マルクスはその事に気づいていたのだが、明確に主張することはなかった。これこそハイデッガーの言う「まだ思惟されていないもの」だと言うわけだ。ちなみに、労働価値説を含めた「内在的価値」という考え方は、まさにプラトン主義、ヘーゲル主義そのものです。

 柄谷行人のマルクス読解の歩みは、その後も、失敗した生産協同組合運動の実践活動などをしながらも、ずっと続いていて、その主著「トランスクリティーク」では、マルクスとカントを比較して論じている。もうヘーゲルではないんですね。というところで、柄谷行人から岩井克人に移る。岩井さんは柄谷さんとほとんど同世代で、同じ東大の経済学部を出ているが、少し在学の年次がずれていて、学生時代は交流がなかったようだが、アメリカのイエール大学に滞在中に親しくなった。ちなみに、岩井さんの奥さんは、私が敬愛している作家の水村美苗さん。私は、著名な経済学者である岩井さんが一般向けに書かれた文庫本を何冊か持っているが、今回は「貨幣論」を再読した。岩井さんの専門はマルクス経済学ではないが、ソ連崩壊の最中に書かれたという、この本の主要なテーマはマルクスの思想である。その第一章が価値形態論。岩井さんは、その章の前の序文でこんな風に書いている。

 なぜ商品は貨幣と交換されることによってしか価値を実現できないのかという問いをみずからに発し、それにたいして、商品の価値形態の発展という弁証法的な形式のもとで答えをあたえる試みーーそれが、マルクスのいわゆる「価値形態論」である。マルクスは、それによって「貨幣の謎」を解消すると宣言している。これからわたしは、まさにこの「価値形態論」のなかに、資本主義社会の危機=全般的な過剰生産による恐慌、というマルクス自身の等式を無効にしてしまう根源的な思考の可能性が秘められていることをしめしてみようと思うのである。

 どうです、まるで柄谷行人みたいですね。まさに、岩井さんは、柄谷行人の論考を読み直す試みをしたのである。そのことはちゃんと本に注釈してあります。それよりも、この論文が、そもそも柄谷行人が主催する雑誌「批評空間」に掲載されたものだということを知れば、その性格がわかる。(「批評空間」は、若き東浩紀がデビューした雑誌でもある。)というところで第一章を再読してみる。

 もしわがマルクスが構造主義のマイナーな先駆者以上の存在であるとしたならば、それはかれが商品の世界を価値体系として規定したことにあるのではない。マルクスの思考を古典派経済学や新古典経済学の「構造主義」から区別するのは、商品世界のなかでこの価値の「体系」とはいったいどのような「形態」をもたなければならないのかという問いを発したところにある。(略)資本主義社会とよばれる商品世界に固有の価値の「形態」とは、「貨幣形態」であるからである。

 上記の文章は、構造主義の創始者だと言われるソシュールがその言語理論をまとめるに際して、マルクスに批判的だった経済学者パレートの影響を強く受けたという記述のすぐ後に登場する。ということは、この文章は、柄谷さんの「可能性の中心」の記述を批判しているのだろうか、それとも注釈しているのだろうか。私は前者だと思う。専門の経済学者として、柄谷さん、あなたのその解釈はちょっと浅いのではないの、方向は間違っていないけれど、もっと先があるでしょ、本当に大事なのは、商品の究極の形態である貨幣でしょ、と遠回しに言っているのだ。そう、岩井克人は、マルクスが歩みを止めた地点から出発した柄谷行人の歩みを、さらにずっと前にまで進めようとしたのである。

 マルクスの「価値形態論」が中途半端に終わったのは、かれが「労働価値論」を信じ切っていたからである。その論理を極限まで推し進めれば、「労働価値論」を捨てざるを得ないことを、マルクスはうすうす知っていた。しかし、彼は「労働価値論」を捨てることが出来なかった。これが、柄谷さんを経た、岩井さんの解釈である。岩井さんは、こんな風に言う。

 貨幣が貨幣としての役割をはたすためには、それにたいする社会的な労働の投入や主観的な欲望のひろがりといった実体的な根拠はなにも必要とはしていない。(略)それ自体が実体的な価値をもつ商品である必要はいっさいない。まして、それは金という特殊な商品である必要もない。(略)さらにはコンピュータの記憶装置に電磁気的に書きこまれた貨幣単位の情報コードでも、貨幣として社会的に認められていさえすれば貨幣としての機能をはたすことになる。
 それ自体はなんの商品的な価値をもっていないこれらのモノが、世にあるすべての商品と直接に交換可能であることによって価値をもつことになる。ものの数にもはいらないモノが、貨幣として流通することによって、モノを越える価値をもってしまうのである。ここに「神秘」がある。

 次は、マルクス主義の哲学者として、一部の学生や知識人たちに神格化されるくらい尊敬された東大教授、廣松渉さんの「今こそマルクスを読み返す」。かつて私は、廣松さんの本を読もうとして、その吉本隆明を数倍したような難解さに、これは日本語ではないと読むのを諦めたことがあるが、さすがにこの本は、ソ連崩壊後の1990年に、廣松さん流にマルクス思想の可能性を継承しようと、一般向けに書かれた新書本だから、私にも読むことができた。廣松さんは、残念なことに、61歳の若さで亡くなられている。

 まず、その序文において、廣松さんは、マルクス文献の取り扱い方に注意をうながしている。現在流通している、「唯物論」「弁証法」「唯物史観」とかいったものは、正統・主流派(スターリン解釈)のそれを通俗化したものに近いというのだ。まずは、すべてマルクスの原典にあたって、厳しいテキストクリティークを経なくてはならないという。まあ、我々素人には無理なことだが、マルクス哲学の主著「ドイツ・イデオロギー」において、廣松さんは、この作業をされた。

 というわけで、この新書はマルクスの思想を全体的に解説したもので、「資本論」についてだけ書かれたものではないのだが、ここでは、「資本論」について述べられたところだけを読んでいく。まず、今まで読んできた、柄谷さん、岩井さんが問題としてきた「価値形態論」について、廣松さんは、いかにも廣松さんらしい文体でこう書いている。

 マルクスは、等労働交換ということを暫定的に先取りする構制で価値表現・価値形態を論じ、そのなかで「抽象的人間労働」の弁証法的再措定をもおこないつつ、「貨幣」というものの可能性の条件を究明してみせ、さらには物神性論において商品価値に関わる物象化的錯認を事後的に闡明・批判したうえで、「交換過程」や「貨幣」そのものへと議論を運んでおります。ここでは、しかし、その議論を追跡することは省略しても差し支えないと考えます。

 ということで、ほぼスルー。廣松さんの議論はさらに続く。以下、簡単にまとめると、まずは「剰余価値論」について。資本家が労働者に剰余労働をおこなわせて剰余価値をまるごと取得するのは、マルクスの理論では正当であるということにまず注意する。資本家がいかに「正当な」手続きで剰余価値の搾取を達成しうるのか、その機制を解明してみせるのが、マルクスの「剰余価値論」の本趣だという。もちろん、マルクスは搾取そのものを容認しているわけではなく、「賃金奴隷制」などという言葉を使っているくらいである。

 廣松さんとしては例外的にわかりやくす書いた新書本だといっても、やはり精読していくのは疲れるので、以下に、「資本論」だけではなく、マルクスの著作類全般を読み込んだ廣松さんのマルクス解釈の一部を引用して終わりにする。

 資本の利潤追求衝動が、生産力の上昇を実現したことをマルクスは認め、そこに資本の”歴史的使命”があったことも彼は認めます。しかし、今やそのことが却って、”禍い”ともなりました。資本の歴史的使命が終わったのです。今や、資本としての資本には退場を迫る時期、それが可能でもあり、必要でもある時期だ、というのがマルクスの主張です。
 社会的生産ファンドが「資本」という定住形態をとって物象化した”自己運動”を続けファンドの自己破壊を進めている現実は、地球資源の蕩尽、地球環境の破壊をもたらし、併せてまた、資本主義下の”人口法則”を作動させ、人類生態系の危機を招来するまでに至っているのです。
 マルクスは、資本の妄動が人類生態系の危機を招来することまでは見通しておりませんでしたが、社会的生産ファンドが「資本」という私的所有形態で定住することが、もはやファンドの浪費・自己破壊をもたらす事態になっていることをいちはやく洞見して、その「歴史的使命の終熄」を宣告したのでした。

 次は、比較的新しくて2014年に文庫本として出版された、佐藤優さんの『いま生きる「資本論」』。佐藤さんのことは今更紹介の必要はないだろうが、いったいこの人はいつ寝ているんだろう、あるいは、佐藤優という人には何人も影武者がいるに違いないと思わせるほど、日々膨大な文章を書き、毎月のように本を刊行している人だ。同志社で神学を学び、外務省でロシア担当となって外務省のラスプーチンと呼ばれ、刑務所に収監されたという経歴を含めて、実に興味深い。その風貌からも畏怖を感じさせる人物だ。私よりずっと年下なのに。この本は、そんな佐藤さんが、私のような、「資本論」については無知な人たちに向けて行った講義の記録だ。だから要約は難しいけれど、この本を読めば、もう難解な「資本論」なんか読まなくてもいいのではないかと思うほど面白いし、分かりやすい。(佐藤さんとしては、それでは困るわけですが。)というわけで、ここではこの本の内容には触れない。各自で読んでもらいたい。あとがきの文章だけを少し引用する。

 資本主義は、労働力の商品化によって初めて成立する。(略)労働力は、必ず商品なのである。労働力という「何か」が、古代からずっとあって、それが資本主義の成立とともに商品化したということではない。資本主義というシステムが、労働力の商品化を生み出すのである。
 資本家は、自らが生き残るために、利潤を極大化することが求められているのである。この論理に付き合っていると、労働者は「命かカネ」のどちらかを選ばざるを得なくなるという究極的選択に迫られる。『資本論』を読んで、資本主義の内在的論理を理解していると、働きすぎて命を失うというような愚かな選択をしなくて済む。
 社会に正義を実現することを人間は真剣に考えなくてはならない。資本主義システムに対応できるのは、個人でも国家でもない中間団体であると私は考える。具体的には、労働組合、宗教団体、非営利団体などの力がつくこと、さらに読者が周囲の具体的人間関係を重視し、カネと離れた相互依存関係を形成すること(これも小さな中間団体である)で、資本主義のブラック化に歯止めをかけることができると思っている。

 次はもっと新しい本。2020年に出版された、白井聡さんの『武器としての「資本論」』。この本は、佐藤さんと同じような問題意識で、若い人たちに「資本論」を読むことをすすめている。ただ、佐藤さんは、今よりも悪くなるかもしれないからと、革命までは考えていないが、白井さんは、どうやら本気で革命をめざしているようなのが違いと言えば言えるかもしれない。もちろん、「資本論」そのものは革命を訴えるものではないが。とにかく、この本は「資本論」を白井さん流の視点でわかりやすく解説したものなので、私がさらに要約しても意味がないし、そもそも要約は難しい。でも、一応書いておくと、白井さんが「資本論」の中で最も重要視しているのは、「包摂」という概念と「剰余価値」という概念だと思う。白井さんの解説によると、「包摂」とは人類史の大半で共同体的に行われてきた生産的労働が、近代資本主義の開始とともに、商品交換を介しておこなわれるようになり、商品としての労働力がうまれた。これは、共同体の外部の原理が共同体を呑み込んだということであり、マルクスは、このことを「包摂」という概念でとらえようとした、ということになります。なかなか分かりやすい。「包摂」は資本主義の発展とともに、「形式的包摂」から「実質的包摂」へと進む。私たちの世代は、生まれた時から資本主義システムにどっぷり浸かっているわけだから、もちろん、実質的に包摂されている。次が大事なところだが、ここで白井さんが強調するのは、現在の「包摂」は、生産の過程や労働の過程を呑み込むだけではなく、人間の魂、全存在の包摂に向かっているということだ。その象徴が「新自由主義」だという。日本の企業は、ある種の共同体主義をかろうじて残してきたのだが、今やそれも、新自由主義化によって崩されつつある。戦後の高度成長期を経て、無階級社会になりつつあった日本が、新自由主義化の進行と同時に、再び階級社会化していっているのだというのが、白井さんの判断だ。

 「剰余価値」についての白井さんの解説も分かり安い。安く買って高く売ることによって生じるのが剰余価値だが、等価交換が原則である資本制社会において、そんな不等価交換が可能なのは、商人が「空間的差異」あるいは「時間的差異」を利用してきたからである。しかし、商人資本主義の段階を越えた、近代資本制社会においては、剰余価値を生むのは、まさに労働力なのだ。資本主義社会は、この労働力の生み出した剰余価値の搾取によって成立している。(廣松さんも書いていたように、この搾取そのものは正当なものだ。なぜなら、労働者は奴隷労働をさせられているわけではないから。)剰余価値には「絶対的剰余価値」と「相対的剰余価値」がある。前者を増やすには労働時間の延長しかないので限界があるから、現代の資本主義は後者の価値をたえず増大しようとしているのだが、その手段は技術革新、つまりイノベーションによる生産性の向上である。マルクスは、イノベーションのことを「特別剰余価値」と呼んだ。もちろん、現代日本の非正規社員の増加に見られるように、賃金の抑制も「相対的剰余価値」増大の手段ではある。(日本では生産性が向上しないから、賃金を抑制するしかないのだということもできる。)

 という風に書いていくと切りがないし、白井さんの本を読んでもらった方が早いので、そろそろ終わりにする。この本の最後で白井さんが主張するのは、再び「階級闘争」を始めようということである。白井さんが本気で革命を考えているかもしれないと書いたのは、まさにこのことがあるからだ。白井さんの主張は、現在の世界を席巻している「新自由主義」というのは、実は、資本家階級から仕掛けられた、上から下への階級闘争なのだと言うことで、階級闘争なんてもう古いと言っていた労働者階級は連戦連敗の状況にある。だから、労働者諸君よ、「資本論」を武器に、いまこそ立ち上がろう、というアジテーションの本なのですね。この本の装丁が真赤なのもその含意がある。もちろん、白井さんとて、今の世の中で、かつてのロシアや中国の革命のような、暴力的階級闘争が可能だとは考えていない。まず「資本論」を読んで、意識の改革から始めようということです。白井さんは、貧しい労働者にだって美味しいものを食べる権利がある、まず、そこから始めようと言っている。(白井さんはこんな事は書いていないが、アメリカの貧しい労働者は、ジャンクフードばかり食べて、ぶくぶく太っている。アメリカでコロナの死者が際立って多いのは、肥満の人間が多いせいだという説がある。おいしく質のいいものを食べて満足すると量を求めなくなるので、肥満することもない。)今度新しく首相になった岸田さんは、所信表明で、これまでの新自由主義的経済をあらためて、「新しい資本主義」を進めたいと言っている。それはたぶん、白井さんが言っていることとは違うんだろうな。

 最後は、昨年、白井さんの本の半年くらい後に出版された、斉藤幸平さんの『人新世の「資本論」』。読みやすい新書本で、大ベストセラーになったので、読まれた方も多いと思う。ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの紹介者として登場したと思ったら、この書によって一気に日本の現代思想のトップランナーの一人になった斉藤さんは1987年生まれ。低成長期に入った日本しか知らない世代だ。その斉藤さんが訴えるのが「脱成長」だというのは皮肉だなと思う。まず書いておかないといけないのは、この本は「資本論」の解説書ではないということ。どちらかと言うと、環境問題について書かれた本で、マルクスや「資本論」は、そのダシに使われたと言ってもいいくらいだ。廣松さんが書いていたことだが、マルクスの著作は、公刊された以外に書簡や未刊行の論文など膨大にあって、まだ完全な全集がない。ソ連時代に全集の編纂作業が始まったが、ソ連が崩壊した後、当時の編集がかなり恣意的なものだったこともあって、現在、厳密なテキストクリティークのもとに、新たに全集編集作業が行われている。ドイツで学んだ斉藤さんもその編纂作業に関わっていて、そのドイツで大きな賞も受賞している。この本は、そんな斉藤さんが読んだ未刊の原稿類の中で、マルクスが、資本主義のもたらす弊害としての環境問題についても警鐘を発していたと主張するものだ。

 先ほど書いたように、この本は「資本論」の解説書ではないので、私もここで内容を紹介することはしない。ただ、とても面白く刺激的な本だから、未読の人には読んでみることを勧める。今年のノーベル物理学賞に日本生まれの真鍋さんが選ばれた。50年前に地球温暖化の基礎的研究をしたことが業績として評価されたのだが、それくらい、現在の世界では、地球温暖化をはじめとする環境問題が重要視されている。この本は、そんな環境問題と、静かなブームだと言われるマルクスを結びつけたところに、多くの読者をひきつけた秘訣があったのだろうと思う。資本主義、それも新自由主義システムの中にすっかり「包摂」された私たちは、もし資本主義がなくなれば、水や空気がなくなったのと同じように、生きていけないと思わされている。でも、果たしてそうだろうか。この本を読んで、どうすれば脱資本主義社会をつくることができるのか、そんな思考実験をしてみるのも一興だろう。

 でも、この本の序文に書かれているように、400万年前の地球の平均気温は現在よりも2~3度高く、海面も6メートル高かったというのなら、現在の温暖化が、果たして人間がもたらしたものと言えるのだろうか。それに、寒冷化に較べれば温暖化の方がまだましだと考える私は、環境問題を解決するために「脱成長コミュニズム」を主張する斉藤さんに全面的に賛成しているわけではない。それでも、現在の地球は人口が多すぎるし、資本の論理で、成長することにばかり気をとられて、エネルギーを使いすぎると思っている。資本主義は、動きを止めたら死んでしまう魚に似ているが、せめてその動くスピードを半分くらいにしないと地球はボロボロになると、地球温暖化によって地球は破滅するという説には懐疑的な私でさえも、考えている。だから、斉藤さんの議論の半分に賛成だ。なにしろ、斉藤さんの議論は、先に挙げた廣松さんの考えともとても近いのだから。たぶん、斉藤さんが主張するように、マルクスもまたそう感じていたのだろう。「まだ思惟されていないもの」として。

 というところで、今回は、「世界の名著」のマルクス・エンゲルスの巻を読むための準備作業をした。実際に読むのは次回。冒頭にも書いたように、たぶん、完読はできないだろう。でも、もう一度、いや二度目か三度目かな、挑戦してみよう。今度こそ、たとえ跳び跳びにでも、最後まで目を通せるかもしれない。

 


 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?