今月読んだ本 (17)
2024年8月
まず、今月亡くなられた松岡正剛さんのご冥福をお祈りします。松岡さんは、本を読むという行為の持つ広大さと奥深さと悦楽を私に(そして多くの人々に)教えてくれた恩人でした。残念ながら、一度もお会いする機会はありませんでしたが、松岡さんと同時代を生きることが出来たのは、私の大きな喜びでした。
今月もkindleで読んだ英語の本の紹介から。SARAH BAKEWELL "AT THE EXISTENTIALIST Cafe"。「実存主義者のカフェにて」という題名で日本語訳が出ています。この著者のことは知りませんでしたが、新聞の書評欄でこの本のことを知って、面白そうだったので、さっそく読む事にしました。今や「実存主義」という言葉自体が懐かしい存在になってしまいましたが、私が大学生だった頃には、思想界の帝王と女王と称された、サルトルとボーヴォワールは、老齢ではありましたが健在で、「実存主義」は主流ではなくなりつつありましたが、まだ現役の哲学でした。私よりも一回り年長である大江健三郎さんの学生時代あたりがサルトルと「実存主義」の絶頂期だったのかも知れません。とにかく、「実存主義」は、戦後の世界を席巻した思想でした。学生時代の私も、サルトルやボーヴォワールの本をそれなりに熱心に読んだものです。
この、サラ・ベイクウェルさんの本は、今は半ば忘れられた存在になったサルトルや「実存主義」に新たな光を与えて復権をめざすものだと言えるでしょうが、堅苦しい思想史の本ではありません。思想よりも人間の方が面白いというサラさん(私よりも一回りほど年少の哲学研究者兼作家らしい。)は、評伝風に当時の思想界の人物像を描きました。登場人物は、サルトルとボーヴォワールのカップル(当時、自由恋愛のカップルとして有名でした。)とその友人たちの他、「実存主義」のアイデアの源流となった、ドイツの「現象主義」の産みの親であるフッサールとその反逆した弟子ハイデガー、その他、カミュ、メルロ・ポンティなど実に多彩です。
そんな多彩な登場人物の中で特に柱となるのは、サルトルとハイデガーです。(著者自身は、ハイデガーでもサルトルでもなく、メルロ・ポンティの文章が最も今の自分にあっていると書いていますが。)共に、フッサールから影響を受けながら、独自の思想を築き上げました。フランス思想界における次の世代の構造主義やポストモダン哲学者らから厳しい批判を受けて、今ではサルトルは半ば忘れられた存在になっていますが、ハイデガーは今でも20世紀を代表する哲学者としての権威を維持しているように見えます。これは私の考えですが、たぶん、ハイデガーはサルトルのように時代の寵児にならなかったから、転落することもなかったのでしょう。ハイデガーといえば、そのナチスとの関係がよく話題になります。サラ・ベイクウエルさんも、その事をとりあげています。そこで引用している、ハンナ・アーレントの言葉が興味深い。言うまでもなく、ハンナ・アーレントはハイデガーの教え子で愛人でもあって、後にアメリカに亡命した哲学者です。ユダヤ系でした。彼女はこう言っています。「ハイデガーは性格が悪かったのではなく、性格がないのです。」一時、ナチスに近づいたのも、深い考えがあってのことではないということでしょうか。ベイクウエルさんは、ボーヴォワールやメルロ・ポンティを引用して、こう書いています。「性格のないハイデガーに対して、サルトルはあまりにも豊かで多彩な性格の持ち主だった。彼は正義の人であり、いつも正義をめざしていた。」面白いですね。
なお、著者はこの本の前に書いたモンテーニュの評伝で高い評価を得たそうです。モンテーニュの評伝としては、我が堀田善衛さんの「ミシェル 城館の人」という
傑作があります。読み較べてみるのも一興かもしれません。
常識に囚われるな、反抗や決断こそが自由だと、戦後の混乱期に、人はいかに生きるべきかを示して一世を風靡したのがサルトルらの「実存主義」だったわけですが、それに対して、哲学はそもそもいかに生きるべきかを問題にすべきではないと主張したのが、20世紀の「言語哲学」あるいは「分析哲学」でした。今月読んだ、 野矢茂樹「言語哲学がはじまる」は、そんな、「言語哲学」の入門書として書かれた新書です。いかにも入門書らしく、比喩をまじえたわかりやすい文章で書かれています。それなのに、時々論旨についていけなかったのは、私の年齢のせいか、あるいは、私に哲学的な資質がないせいなのでしょうか。たぶん、その両方でしょうね。
この本は、「言語論的転回を切り拓いた3人の天才たち」、フレーゲ、ラッセル、ウイットゲンシュタインを紹介しています。バートランド・ラッセルについて言えば、彼の自伝と「西洋哲学史」は今も私の愛読書ですし、ウイットゲンシュタインは、アインシュタインと名前が似ていることもあって、若い頃の私にとっては、まさに天才の代名詞でした。フレーゲについてはほとんど無知でしたが。というわけで、大きな期待を持ってこの新書を読み始めたんですが、さきほども書いたように、これで言語哲学というものがよくわかったとは言えないのが辛いところです。この本で野矢さんが最も書きたかったのは、どうやらウイットゲンシュタインだったようです。ウイットゲンシュタインと言えば、前期の「論理哲学論考」と、一時、哲学の世界から離れてから復帰し、そこで書かれた、後期の「哲学探究」との関係がよく問題になります。この本では、有名な、「語りえぬものについては沈黙しなければならない。」という文章がある「論理哲学論考」についての解説がほとんどなのですが、野矢さんは、最後に、「論考」から「探求」への変化についても言及しています。野矢さんはこう書いています。「私は、『論考』から『探求』の変化の核心は、空間的言語観から時間的な言語観への転換だったと考えています。」さて、その意味を知りたい方は、どうぞ、この新書本をお読みください。
次に読んだのは文庫本。谷川俊太郎さんのインタビューと詩を尾崎真理子さんの文章でまとめた、谷川俊太郎の評伝ともいえる「詩人なんて呼ばれて」でした。現在92歳の谷川俊太郎さんは、ほとんど70年間にもわたって、日本の現代詩を一人で代表してきたような大詩人で、私も少年時代に「二十億光年の孤独」を初めて読んだ時の衝撃を今もありありと覚えています。その谷川さんは、今に至るも思索と詩作を続けておられますが、数十年前の作品も今日書かれたようで、ちっとも古びていないのは奇跡。まさに天才としか言いようがありません。元新聞社の文芸記者だった尾崎真理子さんは、大江健三郎の読解と評伝の仕事で実にいい仕事をされていますが、谷川さんに関してもこんなに素晴らしい仕事をされていたとは、この本が文庫化されて初めて知りました。不明を恥じます。谷川俊太郎の大ファンを自認しながら、今世紀に入ってからは、ほとんど読んでいなかった事が見え見えですね。なにしろ谷川さんは大スターだから、定期的に新聞に詩を発表したり、息子さんとコンサートをしたりと、いろいろと関連情報が入ってくるので、すっかり読んだつもりになっていたんですね。
親本は7年前の出版だそうですが、文庫化に際して、谷川さんの最新の動向についての文章も追加されているのはとても有難いことです。それがなかったとしても、とても興味深い本でした。この本を読んで、谷川俊太郎さんと父君の哲学者谷川徹三さんは一卵性父子だったという言葉を思いつきました。谷川さんによれば、父親はこの一人息子にあまり関心がなかった。でも、大学進学を拒んだ息子の詩人としての才能を発見したのは父親だった。父親が息子の作品を友人の三好達治に見せなかったら、後の詩人谷川俊太郎はいなかったかもしれない。父親にも詩人としての資質があったから、俊太郎さんの才能の真贋がわかったんですね。
もうひとつ、この本の手柄は、今まで誰も指摘しなかった、谷川俊太郎と村上春樹の親近性を指摘したことだと思います。この両者のファンである私自身も今まで考えたこともなかった。盲点でした。もちろん、村上春樹が谷川俊太郎の読者だったという証拠はありませんが。この本では、他にも、三度目の妻だった佐野洋子さんとの結婚と離婚の話、現代詩の詩人たちと谷川さんの関係など、興味深い話が満載でした。改めて書きますが、尾崎真理子さんは素晴らしい仕事をされました。
次に読んだのは月刊「文藝春秋」。今期の芥川賞受賞作を読みました。今期は二作が受賞しました。まずは、朝比奈秋「サンショウウオの四十九日」。朝比奈さんは現役の医師だそうです。この小説はSFに分類されてもいいくらい、大胆で知的な想像力に満ちていました。まさに安部公房の後継者が出現したという印象です。この作品で作家としての資質は実証されましたが、さて、今後どんな素晴らしい作品を生み出してくれるのか、大いに楽しみです。そう、この作品はあくまで出発点です。それにしても、結合双生児とは難しい題材を見つけましたね。面白い。よくある身体が部分的に結合した結合(シャム)双生児ではなく、右半身と左半身が別人であるような、外見的にはほとんど一人である結合双生児。ひとつの身体の中で二つの人格が生きている。せっかく思いついたものの、作者としても小説の展開には困ったようで、この結合双生児は二重人格とどう違うのかと作者自身が疑問を抱いているような部分がありました。ここを読んで、私は村上春樹「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を思い浮かべました。事実、双生児の一人が死んでしまったような描写もありましたね。でも、小説はそういう方向には展開しませんでした。さて、結合双生児がどうして「サンショウウオ」なのか。それは、各自、この小説を読んで確認してください。
もうひとつの受賞作は、松永K三蔵「バリ山行」でした。意味のわからない題名と変わったペンネームから、なにやら前衛的な小説を読まされるのか思っていたら、選者のひとり松浦寿輝さんが書いているように「ベタな小説」でした。それなのに松浦さんも高く評価したのが面白い。それは、小説に登場するキャラクターの魅力によるところが大きかった。私もほぼ松浦さんと同じ感想を持ちました。ペンネームと違って正攻法の小説です。作中の山行きの迫力ある描写を読みながら、私は、中上健次を思い浮かべました。褒めすぎかな。やはり選者のひとりである山田詠美さんは選評で、この二つの傑作を世に出すお手伝いができたのはうれしいと書いています。絶賛ですね。皆さんも、「バリ山行」という題名の意味を確認するためにも、ぜひ、この小説もお読みください。
今月最後に読んだのは新書本でした。𠮷弘憲介「検証大阪維新の会」です。大阪・関西万博についての批判の高まりと関係があるんでしょうか、最近、維新についての出版が目立ちます。でも、この本は維新批判のために書かれた本ではありません。信頼できるデータを元に、維新の政策を公平に分析した学問的な仕事であり、その分析の結果は大阪だけではなく、全国的にも応用できるものだと思いました。なお、私は大阪府民ではありますが、今まで維新に投票した事は一度もありません。この政党はお金の話しかしない、吉本的な反知性主義で芸術や文化に関心がないと思っていました。でも、維新の政治が何年も続き、最近では大阪駅周辺や「うめきた」、あるいは御堂筋の再開発事業、さらに中之島美術館の開設などがあって、私の維新に対する反発は薄らぎつつあります。そんな時にこの本を読んで、なるほどと納得しました。維新の政策を分析するこの本のキーワードは「財政ポピュリズム」です。
吉弘さんによると、「財政ポピュリズムとは、既存の財政を既得権益として解体し、さらにそれまで財政による受益を感じづらかった多くの人びとに原資を配り直す行為です。」これが維新が多くの人々から支持されてきた大きな要因であったわけですが、ここで問題になるのは、「既得権益」とは何かということですね。
ここには、社会的弱者やマイノリティに対する救済的支援も含まれていた。下品に言えば、「あいつらだけうまい汁を吸いやがって」という民衆の下卑た思いを維新は助長したのではなかったかということです。吉弘さんは、「財政ポピュリズム」は、結局は、社会を貧しくすると指摘します。「持続する人間社会や、多様な素晴らしい創造物があふれる社会は、自己利益の追求を超えた先にある。」からというわけです。大阪維新の諸施策の分析というこの本が、このような若い学者の高い志のもとに書かれたことを喜びたいと思います。この本で批判されているのは維新だけではありません。現在の私たちの社会です。
なお、𠮷弘さんは、「ふるさと納税」を「財政ポピュリズム」の一変種だと考えておられます。私も同感です。ふるさとに納税(寄付)するのは良いが、自分の住む市町村にもちゃんと納税すべきだし、ましてや返礼品目当てなどとんでもない。
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