【積丹】種播きしながら僕の思考はどう移ろったのか─発芽・酪農・倫理
積丹のたかのふぁーむでWWOOFしています。最近の日本酒は富久千代酒造「鍋島」です。
昨日は、午前はカボチャのマルチ貼りと種蒔き、午後は午前の続きとセルトレイにカボチャの種播きをしました。午前のは今までと品種が異なり、種を直接畑に蒔きました。
これまでに紹介したことのある作業だったので、今日の投稿では、僕が午後種を黙々と座りながら蒔いているときに考えたことについて述べます。
たかのふぁーむでは複数品種のカボチャを手掛けています。ほとんどの品種は水や温度を管理された居心地のよいところで発芽させてから畑に植えます。ただし、ミニカボチャという品種は畑に直接種を蒔きます。直播(ちょくはん)といいます。他の品種と比べて発芽しやすいからです。
以前、たかのふぁーむは全てのカボチャを直播し、発芽しなかったところに移植するために、苗を播種量の1割分用意する方法をとっていました。しかし、用意した苗では間に合わないくらい発芽しないことが多くなり、全て苗から育てることにしました。苗を育てて移植するとなると、反収は確実に上がりますが、手間がかかります。育苗土を作る、セルトレイに育苗土を入れる、毎日水をやる、畑に移植する、移植後に水をやる。これらは直播ではしない作業です。労働時間が長くなると(農家自身の)人件費が高くなります。
だから、直播が望ましいのです。そして、ミニカボチャは発芽しやすいから直播します。それでも念のため1つの穴に2粒蒔いて、芽が出揃ったあと間引きます。ミニカボチャは「発芽しろよー」とヒトに言われて願われて、いざ発芽したら「ありがとうな、でもごめん」と言ってプチっと切りられます。ヒトが自分勝手なのです。そうやって食べ物を食べています。
ようは、発芽しないと何も始まらない、発芽大事ということです。
ここで思考が酪農に移ろいます。酪農なら、分娩しないと始まりません。乳が出ないから。
現代の酪農では分娩したあと、母牛と子牛を引き離します。子牛は哺乳ボトルで他の母の初乳や粉ミルクのようなものを溶かしたものを与えられます。理由は、子牛の飲む量を管理するため、初乳を検査・保管するためです(ですよね)。
母と子を引き離す。これがもしヒトだったら、と思考が移ろいます。
子どもを産んで売ることができる、実験動物のように扱えるヒトが存在できる、と僕は思いました。そういうのが許されるなら、ヒトに関する科学が発展することでしょう。そのようなヒトには人権はありません。
産まれたときから隔離して、生涯誰ともコミュニケーションをとってこなかったヒトを作ったり、ジャングルに放っておいたらどうなるか─食べられるか、育てられるか─を実験したりなどなどできそうです。
こういうことができないのは、こういうことを否とする倫理が形成されてきたためです。倫理という言葉を僕のスマホに入っている辞書で引くと「人として踏み行うべき道。道徳。モラル」とあります。上記の想像は現代の倫理から外れています。未来の倫理で、これが外れることになるのかどうかはわかりませんが、実験動物のように扱えるヒトの存在を認める倫理が形成されないことを願います。
でも、倫理に反しているようなことはこの世の中たくさんあると思います。僕の着ているこの中国製の半袖1つとっても、広大な面積を単一の植物が占める畑、高濃度の農薬に暴露されうる綿花農家、排水を垂れ流す紡績工場、法外な安さの給料で工場に勤める労働者、真夜中にも働く物流の運転手、機会損失を生まないように売り切れるより少し売れ残るのを望むメーカー、過剰に消費を促す広告。このように自然環境や資源を省みず、人間の尊厳を軽視するのは、全て利潤を上げるためです。効率を高めるためです。僕は偏った意見を書いています。
あと、中国といえば、新疆ウイグル自治区です。ここでも倫理から外れていることが行われています。
倫理から外れているといっても、それは僕がそう思うだけで、倫理に沿っていると思う人もいるのだと思います。「これは世界に数台しかないこの超大型ハーベスターだよ」と胸を張る農家は、農芸化学の技術を活用した大規模栽培は倫理に沿うと考えると思いますが、僕は倫理から外れると思います。
ここまで考えて来て、倫理という言葉の使い方が合っているのか気になりました。僕が書いてきた倫理に沿う・倫理から外れるというのは、ようは意見の対立です。倫理は人によって異なる、と僕は思っているから。異なる倫理観を持てば、意見も異なります。それとも、人々の共通の認識が倫理になっていくのか。これは調べないと。
倫理といえば、村上春樹さんのスピーチを思い出します。2011年6月9日、カタルーニャ国際賞授賞式におけるスピーチです。https://www.kakiokosi.com/share/world/183 から少し引用しますと、
壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります
東日本大震災と原発事故を指しています。
以上、カボチャの種を蒔いているときに考えたことでした。おやすみなさい。