揺らぐ己のセクシャリティについて
性自認も性的嗜好も揺らぎ続けている。その自覚はある。
多分もともと恋の概念がほとんど自分になかったんだけど、あまりにも世界が恋を大切にしているもんだから、それがなんなのか知るために無理やり自分を恋に近づけた。音楽、小説、世間話、映画もみんな、まるで必須科目みたいに恋愛は、つきまとってきて離れてくれなかったから。
そして恋愛を、経験できたと思う。その感情についても知れたような気がする。でもまあ別に知らなくてよかったとも思う。
やっぱりあんまり好きじゃなかった。恋愛はあまりにも、居心地が悪かった。
不健全な人間関係をやめたいと願った。それには恋も含まれていた。そしたら恋人という人間関係が私から消えた。
性欲あるいは恋愛感情を向けられると、違和感で吐き気がする。
他人から向けられるのはもちろん、大好きだった恋人だった人たちから向けられるエネルギーも嫌だった。
散々無視してきたが、ちゃんと血の流れた肉であることを自覚させられると、少し混乱する。
産声をあげることのできなかった未完成の胎児、あるいは老人の身体を観ていると心が落ち着く。幼少期から、手足がグニャっと曲がって一つの肉に近づく身体への妄想を重ねてきた。人は生まれる時も死ぬときに、性別という概念を失った一つの生き物のように見える。その感じがとても羨ましい。
何者でもなくなりたい、究極まで。
恋、羨ましくてわからなくて狂ってて、アレルギーを起こしてしまう。
さて、ここまでは心の話。
体の私は、ちゃんと女だと思う。パートナーが欲しいと願う。
獣が群れて眠るのと同じくらいには、自然に起きる願いだ。
ところが今の気持ちはどうですか。何にもときめかず、何も性的に思えない気持ちで眺める世界はどうですか。体がはっきり絶望しているとわかる。世界が灰色に見える、そういう感覚の類だと思う。体が絶望し続けると、本当に泣いてしまう。心を通さず、体だけが反応して涙を流す。
そういう揺らぎの中で、この体でずっと生きてきた。
心の願いを叶えれば、体が絶望し
体の願いを叶えれば、心が絶望するようなこと。
このジレンマに耐えれず身を投げそうになる。
せめて人じゃなければこんなこと思わなかったかな、なんて思いながら今日も命を撮っていく。
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写真で呼吸する記憶。
日々撮った写真の記録。考えたことの記録。
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