原因究明魔をけとばせ

 初めて見てからというもの、もうすぐ3ヶ月が経とうとしていて、これはもう困ってしまって困ってしまって、しょうがない。この映画についての文章を書こうと試みては、挫折を繰り返す日々を送っている。なんといってもこの映画がどうにもこうにも、こう、面白くないのだ。ちっとも私の心をワクワクさせてなんてくれない。じゃあいかにこの映画が面白くないのかを書いてみるか、例えば脚本がダメだとか、カット割りはこれでいいのかだとか、照明はここでいいのかだとか、そんなことを書き連ねていかにこの映画が注目に値しないことを書いてみるか、といってもこんな無意味なことはない。

 甲子園で優勝した瞬間の映像を見るのが好きだ。全ての敵を倒して、最後に勝った人たちの喜ぶ姿は涙を誘う。常に勝利は周りの人も興奮させてしまう力がある。スポーツの勝利の瞬間が人をこうもドキドキさせてくれるのには、やはり相手の存在があるからだ。これが相手もおらずに行っているのでは何の面白みもありはしない。

 ところで、映画は何を相手にしているのだろうか。そんなことを思うと黒沢清の言葉を思い出してしまう。

「殺し屋だってそう簡単に人を殺したりはしません。でもやっぱり、殺し屋は殺さなければならないとしたら、そこで繰り広げられるのは、映画の原理と世界の原理との壮絶な覇権闘争です。そして、ついに映画の原理が目の醒めるような勝利をおさめた時、譬えようもない快楽と感銘が生み出される」


 あまりにもかっこよくバシッと決められたこの言葉。ずっとこれが心に引っかかっていた。ある意味合点がいくけどどこか引っかかる。映画と世界の原理はそんなにも相反するものなのだろうか。つまり、私たちは恋人に恋をする。相手が不細工だろうが、恋するときには恋をしてしまう。そこに理由なんて本当はないんじゃないか。世界で起きているのは所詮そんなもんだ。映画とはそんな世界で起きていることをただ映し出すための機械でしかない。だからここで語られるべき対立項は映画と世界ではなく、「映画=世界」対何かである。

 では映画は何に戦っているのか、映画をつまらなくしているのは誰なのか。それは恋人たちに「なんで恋したのですか?」なんて聞いて回る野暮な人たちだろう。事件をなんとか原因究明しようとする人たちだ。これが困ってしまう。「◯◯さんのどこに惹かれたんですか?」なんて聞かれても言葉に詰まる(でしょ?)。「うーん、目元が」とか「優しいところが」とか考えて言ってみるんだけど、その後に「あれ、そういうところが好きで付き合ったんだっけ?」と思ってしまう。どうも納得がいかないなぁと思っているうちに結婚式では「新郎◯◯さんは、新婦◯◯さんの『優しそうな目元』に惹かれて…」なんて紹介されてしまう。

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