ディストピア is

胸くそ悪い。

深夜のTOHOシネマズ。レイトショー。「ズートピア」が開始された20分後、わたしは「いつタバコを吸いに行こう?」だけを懸命に考えていた。ダイソンのごとく、ただひたすらポップコーンを吸収し続けていた。隣の友人もさぞかし一服したいところだろう、いつ誘ってあげようとワクワクしていたのだが、残念ながら友人はわたしのそんな心遣いをはるかに裏切り、大いに楽しんでくれていたようだった。

わたしたちは映画が終わってから( 念願の )一服をするのだが、わたしには煮え切らない苛立ちのようなものが滞っていた。友人の「おもしろかったね!」にも上手に答えることもできない。胸くそ悪いのだ。でも、どうして。

どこがどう胸くそ悪かったのかを自らでも説明のつかないままである。わたしはズートピアを見ながら一つのパフォーマンスを思い出していた。ストリートアーティストであるバンクシーが2015年にイギリスで開催した「ディズマランド」をご存知だろうか?”ディズニーランド”という夢の国を皮肉って、”悪夢のテーマパーク”として大規模なパフォーマンスをした。朽ち果てたシンデレラ城、難民で溢れるボートが池に浮かび、ベンチには鳩に襲来された女性がいる。メリーゴーランドには鋭い目つきでこちらを見ている白衣とマスクのおじさん。かぼちゃの馬車はひっくり返りシンデレラの遺体が窓から露出している。ブラックユーモアたっぷりのテーマパークである。今回の「ズートピア」で大勢が口をそろえたのが「ディズニーではありえないブラックユーモアが挟まれている」だ。しかし、ディズニーは今までユートピアとして、まさしくキラキラとしたおとぎ話を歌っていたのにも関わらずどうしてそれを裏切ってしまったんだ?という、がっかり感がまずわたしを襲っていたのだとそこで気がつく。胸糞悪い理由、ナンバー1。ディズニーが今まで提示してきた崇高な世界感はもはや聖域( 主人公である人間、と動物たち共存しあう )であったはずだし、そこがわたしたちが目指すべきもの・場所なのではなかっただろうか?しかし今回においては、ブラックユーモアを混じえてきてしまったが為に、そこは聖域ではなくなってしまったのだ。すっかり。わたしたちはその崇高だったはずのユートピアに親近感のようなものをいかんせん感じてしまった。これだ。現代社会、においてわたしたち人々、民衆、大衆が常に求めていることがこの「親近感」なのだ。親近感ほど、悍ましいものはない。芸能人の不倫騒動にバタバタと笑いながらランチで持ち切りの話題にしてみたりして、夜になればあなたは同じ会社の若い女と黒い壁のエロめの隠れ家的なバーでワインと、慣れないシガーをたしなんじゃうのだ。最近流行りのバル的な飲み屋では若いスタッフたちが子供っぽい字でニックネームを名札に書いてオススメの一品を紹介する。酔っ払いは絡むだろうよ、そのニックネームを慣れ慣れしく読んで「⚪︎⚪︎ちゃん/ ⚪︎⚪︎くん、かわいいね〜!/かっこいいね〜!」なんて言うんだろうよ。わたしたちが親近感を求めているままでは、傷の舐め合いのようなものであって、理想の聖域に近づくことはできないはずなのである。ズートピアで「よかった〜♡」から、差別問題・固定概念の恐ろしさ & サクセスストーリーを、親近感とペアセットのようにしてディズニーは売ったわけだが、わざわざ今、その問題を言わないといけなかったのだろうか?という疑問がわたしを不甲斐ない気持ちにさせてくれていた。わたしたちの暮らす現代では、人権および基本的自由の平等として人種差別というものが1965年国連総会において定められているはずなのだ。が、わたしたちの潜在意識には未だにこの差別が大きく壁を作っている。そして驚愕することに、この人種差別撤廃条約に日本が加入したのはなんと、1995年のことだったのだ。驚愕!なんという遅れ!しかしわたしは納得をする。人種差別の単位でいうと男尊女卑があるのだが、これを感じるのはやはり少し年上の女性たちとの会話であったり、少し年上の男性であったりするのだ。( わたしは1993年生まれ ) つまりこの条約以降と以前では、我々の概念がそっくりそのまま異なっているように感じ取れる。それは母と朝食を食べに行った時の会話であった。カウンセラーとして働いている母のお客の中には、結婚生活で悩める女性が多いそうだ。そこから母は豪語する「女性は解放されるべきだ!」と。あれれ?なにかがおかしい。これだ。このなにかがおかしい感じ!!ズートピアを観た時と同じ感覚である。まさしく。解放されたはずの女性、あるいは黒人、あるいは部族出身者たちは果たして解放されていなかったのだろうか?そんなはずはない。わたしたちは確かに解放されていて平等を与えられているはずだ。問題なのは社会的差別ではなく、もはや世論として残っている、意識の違いなのではないだろうか。我々は平しく扱う・扱われることを強いられているにも関わらず選択肢を自ら、減らしているのである。もはや「女性( 差別されている人種 ) の解放」なのではない「女性の思考の解放」を要しているのである。( もちろん、女性だけではなく人間全員のことだが )結婚生活で悩める女性たちはあらゆる世論と、固定概念によって「自立する」という選択肢を自ら見なかったことにしてしまっているのだ。よく昔からいうであろう「いい人を捕まえて、早いとこ幸せになっちゃいなさい」なんてセリフ。そもそもこの言い伝え、いわば伝説。には間違いがある。いくら「いい人」でも幸せになんかしてくれないし、幸せを「いい人」まかせにすることはあまりにも人生をおざなりにしすぎているのではないだろうか?この現代に与えられているであろう平等のはずの一人一人の条件を見て見ないふりをして、有効に活用することができていないからなのではないでしょうか。自らがコンフォータブルに生きることができる、これこそが理想郷。つまり、ユートピアのはずなのではないだろうか?

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