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不マジメ文系博士学生のやってること

前回記事でnoteとブログの使い分けに迷った挙句、こちらは研究日誌というかインド関係の記事というか、とにかく多少は読みごたえ的な何かがある記事を書こうと思いました。

とりあえず私みたいな適当で不マジメな人間がどんな研究生活を送ってるか書こう、と思ったけど、世間一般に文系の研究生活ってどうイメージされているんだろう?

というわけなので、まずは文系の中でもド文系だと思われる文化人類学の大学院生が何やってるかを紹介しときます。
(岡本は学部はインド近現代史の研究、修士は地域研究、博士は人類学をやってます。こんなに専攻がころころ変わるのも不マジメさ故…)

「研究」に必要なもの

研究とは、ある対象について自分で何らかの「問い」をたてて、その応答として「自分の説を主張」することです。

問いも主張も「オリジナル」であることと「根拠」があることが大切で、例えばすでに主張されている・解き明かされている事について問いをたてる(本当にそうなのか疑う)のであれば、「なんとなくそう思った」とか「そう囁くのよ私のゴーストが」とかではなくて「こういう事例があるのだからこの主張が適切とは言えないのでは?(眼鏡くいっ)」と根拠を提示して主張しなくてはいけないわけです。

もちろん、すでに主張されている事柄が正しいかどうかを検証するために行われる研究もあります。その場合でも歴史学や文化人類学では、全く同じ研究対象を選ぶことはほとんどなくて、地域を変えたり時期を変えたり研究方法の何かを変えてみたりして、それでも以前の主張の通りであるのかどうかを検証することになります。

じゃあオリジナルなら何でもいいのか、どんなニッチなことでも良いのか、というとそれも難しくて、研究テーマには「意義」が必要です。
私はどうも意義を考えるのが苦手で、「これについて考えてると胸がどきどきわくわくするから研究します!」と本当は書きたいけど、そんなこと書いても論文として受理してもらえないし研究費も貰えないので、理屈をこねくりまわして「というわけでこれは人類に貢献するのです!(だから論文受理して!研究費くれ!)」と言わないといけません。つらい。

まとめると、研究には「問い」と「主張」が必要で、それを提示するには「根拠」と「オリジナリティー」が求められ、その研究をやることにどんな意味があるのか(「意義」)を説明できなくてはいけない、ということです。

「研究」の中身

「研究」と一言で言っても、上の構成要素を満たすためにやるべきことはたくさんあります。ざっくりまとめると以下のような手順です。
 ①先行研究を読む
 ②問いと仮説を立てる
 ③考えるための材料を集める
 ④材料をもとに考える
 ⑤考えたことをわかりやすく書く
 ⑥誤字脱字を直す

先行研究を読んで問いと仮説を立てる

まず、根拠がありオリジナルでもある問いを探す、あるいは主張を考えるには、これまで積み上げられてきた先人たちの研究を見直すことが必要です。つまり本や論文を読むのです。めちゃくちゃいっぱい読むのです。
そうしないと、とっくに発見されている出来事について「新発見だ!!!私は天才だ!!!!」とはしゃいで後から恥ずかしい思いをすることになりかねません。

問いをたてるにも、まず現状がどうなっているか、一般的にどう理解されているのかを知る必要があります。
文化人類学の場合は研究する地域に直接赴いてあれこれ見て現場で謎を発見することがよくありますが、よっぽどの天才じゃなければ全く新しくて重要な事象をゼロから発見することはできないと思います、少なくとも岡本には絶対無理です。
なので文化人類学でもやっぱりフィールド調査と同時並行で文献(本や論文)を読みます。めっちゃくちゃ読みます。その地域や人や事象についてどのような説が唱えられているのか、まだ言及されていないことはないかなどを事前に頭に入れておき、現場に出て自分の観察やインタビューで聞いたことと照らし合わせながら考えます。

ちなみに、私は学部の卒業論文でひたすら文献を読んだことで「もう文献は読みたくない!体を動かさないとアイデアなんか出ない!現地の風を感じたい!」と修士から現地調査をやるようになりました。
が、文化人類学でもめちゃめちゃ文献を読まなくてはいけないことにほどなくして気がつき、今現在とても苦労しています。浅はかなり岡本。

そして文献を読むといっても、読んだものすべてが論文に使えるわけではないのです。どの文献を読むか選出するのにも時間がかかります。読んだ結果「私の研究にあんまり関係なかった…涙」というものもあります。いや、それはそれでいいんですけど。

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↑ 最初はこう思っていた…
が、現実は ↓

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材料を集めて分析する

問いと仮説をたてたら(とりあえず問いだけでもたてたら)、その疑問を解消するために材料を集めます。そして集めた材料をもとに脳みそこねこねして「こんなことが言えるんじゃないかしら」と考えます。
文化人類学ならここで現地調査をやってデータを集めるわけです。見聞きしたものをノートにかたっぱしから記述したり、写真や映像を撮りまくったり、インタビューを録音して書き起こしたり。

ただ、この材料は客観的に見て「中立」じゃないといけません。もし偏ってるなと思うなら「こういう事情があるんで偏ってます」と正直に言わないといけません。
文化人類学の場合は「客観的データ」を集めることは不可能なので(例えば語り手の話を聞く=語り手はそこにいる私に対して話す=他の人のときは違う内容になるかも)、どんな状況でどうやってその情報を集めたのかを明らかにして透明性を高めることを重視します。

自分が主張したい内容にあわせて材料を選んでそれと矛盾するような材料は捨てるようなことをしても後から絶対にばれますし、ばれなかったとしても気持ちよくないじゃないですか。
「ぼくのつくった最強の主張!」じゃダメなんです。とにかく根拠。そのためには満遍なくデータを集める。あるいは限界を自覚して最初に謝っておく。嘘はいかん。ということです。

材料の分析方法はいくつかあるんですが、それは別に書きます。

文章にする

問いをたてた。主張したいことが見つかった。
そしたら、言語として表さないといけません。
みなさんご存じかどうか知りませんが、人間は言葉でコミュニケーションをしないといけない生き物らしく、脳みその中の言葉は「言語」「文字」として表されないと誰にも伝わないらしいのです。悲しいね。

この文章化というのも厄介で、頭んなかには言葉が渦巻いている、思念というか感じていることがおぼろげな霧のように浮いてはいるのに、論文として書こうとするとスルスル逃げていってしまう、ということがあります。というか岡本はだいたいそうです。

そして現在の岡本は血の涙を流しながら、10月の学会に向けて頭んなかの思念の文章化を進めているところです。
え、いや、こんなnote書いてる場合じゃないじゃん、ってうわ、もうnote書き始めて2時間たってる!!!いいから論文書けよ!!!!


というわけで各項目の詳細や、誰も特に知りたくはないだろう岡本の日々の研究生活についてはこれから別に細かく書いていきます。以上。

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