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エッセイ「初体験」藤沢雄真
「初体験」には味がある。経験はチューイングガムだ。噛めば噛むほど味も噛み応えもなくなる。初体験はチューイングガムの噛み始め。味が付いている表層。だから味がある。フルーツ味の甘くてにっこりしちゃう味、かと思えば辛くて涙がでてくるキシリトール、まずくて吐き出したくなるサルミアッキ。ガムによって味が違って、楽しい。ガムを食べることは大好きだ。
物心つく前に食べたガムはどんな味だったのかな、と気になる時がある。人はみんなお母さんのおなかかから出てきた直後にガムを食べている。でも誰もその味を覚えていない。もちろん私も。もったいないな、と思う。きっと大声をあげるほどにおいしかったに違いない。
だから一つ決めていることがある。人生最後に食べるガム。私が死ぬときに食べるガム。それを最大限に味わって食べてやる。そう心に誓っている。
そういえばこの間おもしろいガムを食べたので最後にそれを紹介しようと思う。そのガムの一番の特徴は味がなかったことである。
今年の七月の話だ。場所は練馬。家探しをしていた私は三角ビルの地下一階という物件を不動産から紹介されて三角錐をそのまま縦にしたそこに内見にきていた。この物件、家賃が結構安い。ただ一つ懸念点だったのが、実家が神職だという大学の司書課程の先生にそこは絶対住んではいけない、行ってもいけないと強く叱られていたことである。
地下室に繋がる扉を開け、階段を降りるともう一つ扉があった。その扉を開け、部屋に入ると寒いくらいの涼しさだった。外は真夏。ぞくりとした。右手には3畳の和室があった。左手にはトイレがあって扉は全面鏡貼りだった。開けたくない、と強く感じた。逃げ出したかった。扉を開けると中に先客がいた。一目散に逃げた。トイレには「何か」がいた。後から一緒にいた霊感がある先輩に聞くとそれは少年だったらしい。
こうして生まれて初めて霊を観たわけであるが、実のところその時の恐怖をもうあまり覚えていない。もしかしたらあれは夢だったのでは、と思う時もある。霊の恐怖には味がない。噛み始めも後味も。
そう思っていたのだが、最近思い直した。ただ自分が味を感じる暇がなかっただけで味はあったのではないだろうか。そう考えると惜しくなってくる。味わいたくなってくる。だから私は近々先輩と共に心霊スポットを訪れるつもりである。今度こそ「初体験」を味わうために。