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月と六文銭・第十三章(2)

 武田は同僚工作員の田口たぐち静香しずかにリラックスしてもらうために食事に誘った。相変わらず機械のような冷静さを崩さない姿勢に畏敬の念すら持っていた。
 そこで、武田は田口がその緊張を解くことがあるのか、聞いてみることにした。

~コードレッド~(2)


 田口がうがいをして、歯を磨き、髪を整えている音がした。
「彼女、ピルを服むことにしましたか?」
 バスルームから田口がベッドに腰かけている武田に声を掛けた。
「ええ、昨晩のセックスがすごく良かったようで…。
 英国に行くまでできるだけたくさんしたいとも」
「しかも、着けないでした時の感覚を忘れたくないから、とも言ったでしょ?」
「どうしてそれを?
 田口さんは何でも分かるんですね」
 バスルームの鏡に口紅を直している田口と目が合った。小さなブラシで唇に口紅をつけているところだった。
 角度によっては武田の初恋の千恵美ちえみに似ているこの女性は、武田の興味、関心の大きな対象だった。
 小説やノンフィクションにも書かれることがないような過酷な訓練を経て、幾人もの人を殺め、命令されたら悪党の命すら救ってきたのだろう。
 ターゲットに近づくためなら、医療従事者の知識や経験だけでなく、女性の部分を使うことも厭わず、生まれつきなのか、これまた訓練で身に付けたのか、口技や膣の動きは多分どんな男でも虜にしてきたのだろう。
「いろいろな経験をしてきていますので、そこから類推しています」
「そうだと思いますが、ほとんどぴったり合っているのがすごい」
「株の予想には使えませんが」
「株価なんて市場参加者の心理を予想するのに近い気がするが…」
「まぁ、ターゲットの心理を読み誤ったら、こちらが死ぬことになりますから、それに比べたら市場参加者の心理を予想する方が楽そうではありますが…」


 田口はトレフルのダークグレーのレースブラを丁寧に着け、谷間を整えてから、ウェストにガーターベルトを留め、ガーターの位置を確認した。お揃いのショーツを引き上げて、ガーターとのバランスを取った。
 ガーターを先に着けてからでないと、化粧室に行った時にショーツを脱ぐのが大変になってしまう。このため、ガーターの上にショーツを着けるのが正しいとされている。逆でもなんとかなるが、ストッキングが床まで落ちてしまったり、履き直す必要が生じる。
 次に田口は黒に近いグレーのストッキングを引き上げて、プチ、プチと留めた。それだけでもう武田には頭がクラクラするほど魅力的であり、トレフルのカタログに載っているモデルのようだと感心してしまった。
 田口は胸元がV字に開いたレースドレスを着け、振り向いて武田に微笑んだ。
「あ、はい!」
 武田はスッと近寄り、背中のファスナーを引き上げた。
「ありがとうございます!
 これがすぐ分かる男性が少なくて、日本では」
 そもそも日本で女性は出かける準備をしている姿を見られたくないとか、邪魔されたくないということもあるが、脱がすのが下手なのに加えて、着るのを手伝ったことがない男性がほとんどだった。
 田口はレースブラとレースドレスの胸の谷間の位置を合わせ、スカートの丈を調整し、白と黒のエナメルのパンプスを履いた。
 最後に隠れたオシャレポイントとして、黒く塗られたチェーンをウェストに付けた。留めがちょうど尻の上に位置するように調整して、田口の準備は完了したようだった。
 食事中に武田がチェーンが黒であまり目立たないと指摘したら、必要ならターゲットの首を絞めるのに使うものですから、初めから目立っては困りますと真面目な顔で言われた。
 どこまでも任務に忠実で、ガードを下げることがない。理想的なヒューマン・ウェポン=人間兵器と言えた。食事やワインを楽しむ時でさえ、警戒を怠らずにいるのが分かった。


 武田は疑問に思っていたことを口にした。
「田口さんはcode-redコードレッドを解くことはありますか?」
 コードレッドとは警戒態勢のことを指し、映像的に言えば真っ赤な警告灯が点滅している状態と言えた。
「解いたことがないように見えますか?」
「はい。
 今でさえ、もしこの店の入り口に気になる人物が来たら、それを察知して、腰のチェーンを外し、クラッチの中からメリケンサックを出して、戦闘態勢に入れるでしょ?」
「それは準備ができているだけで、常時コードレッドとは意味が違います。
 武田さんだって、ベルトバックルの仕込みナイフはいつでも使えるようにしてあるでしょ?」
「それはそうですが…」
「それとも、お財布の中の0.01について話しますか?
 あれも武田さん的には戦闘準備の一環ですよね?
 いや、プロテクション、防御の手段、ですか?」
 武田は苦笑いするしかなかった。米国では俗にプロテクションと言って、防御や保護にひっかけて、保護膜=コンドームを指すスラングがあった。
「いやあ、田口さんも気の休まる時がなくて大変だと思いまして」
「お気遣い、ありがとうございます。
 時には気を緩めることはありますよ。
 それがいつなのかは言えませんが。
 その時を狙われたら、私は平均的な女性よりも何もできませんので、多分、あっさり人質になってしまうか、殺されるかするでしょうね」
「そんなことはないでしょ、その戦闘力で」
「100%の状態を続ければ続けるほど、疲労も蓄積します。
 具合が悪くなった時のダウンタイムは長く、ダウンの程度が深くなってしまいます。
 機械とある意味一緒です」


 田口は静かにグラスを持ち上げて、グラスと武田の顔が並ぶ位置にして、武田を見つめながら、言った。
「そのような話より、このワインについて教えてください。
 あの分厚いリストから、すぐに白はこれ、赤はバル何とかを選んだように見えましたから、珍しいのか、思い入れがあるのか、価格以上の質なのか、興味があります」
「この白ワインは…」
 武田は話し始め、ビンの特徴、ブドウの味、メゾンの歴史、そしてこのワインとの馴れ初めについて話した。
「素敵ですね。
 多分どのワインにもストーリーがあるでしょうから、後で赤の方も聞かせてくださいね」

 その晩の田口は髪をアップにして、上品なイヤリングを付け、胸元には3連のアルハンブラが鈍く光っていた。
 胸の形や体型・スタイルが特徴的なのか、田口は着やせするタイプで、スリムに見えるが、脱いだ時のスタイルの良さは一種のイリュージョンだった。田口が武田の部屋に来る時はほとんどの場合、コートの下にはランジェリーしか身に付けていなくて、部屋に入るなり前を広げて武田に見せては彼の反応を見て楽しむという悪戯を繰り返していた。

 武田が田口の胸元でかすかに揺れるアルハンブラを眺めていたら、ふいに田口が切り込んできた。
「今後はお口だけにしましょうか?」
「え、どうしてですか?」
 武田は不意を突かれ、しどろもどろになった。
「私の喉の動きをいたくお気に召しているようですが、あのように頭を掴まれることはあっても、最後の一滴が出るまで離してくださらない男性は初めてです。
 正直、とても苦しかったし、アソコの代わりに口に出すつもりなら、今後は口だけでお相手させていただくことにしたいです」
「え、いや、ごめんなさい。
 夢中になってしまって、つい、このまま出し切ってしまいたくなって」
 武田は若干頭を垂れ、視線は田口のワイングラスのステムとフットプレートの接しているところへと下がっていった。
「私の口に出せば十分に満足なのだ感じました。
 今後はのぞみさんとは生でして、中に出せると思うと、田口は口に出しちゃえばいいと思いませんでしたか?」
「いや、決してそんなことは…」
「思ってないですか?
私が武田さんのストレス解消の対象だから、解消するならどう扱おうと構わないと少しでも思ったことはないですか?」
 武田は伏せていた顔を上げて、田口を真っ直ぐ見つめようとした。

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八反満
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