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月と六文銭・第七章(4)

 武田は品川駅で自分の視野から逃れようとする中国人らしき女性が気になった。海外アサインメントのうち、もう20年以上前の香港マフィアとの対決を思い出していた。

~香港夜話~


 のぞみに聞かれた時の武田の香港の感想は“血の匂いのする街”だった。大学時代の同級生だった小山内おさないいつきと武田は華やかなメインストリートではなく、地元の人たちの食べるものを売っている、メインストリートから2本も3本も奥に入った通りを歩き、そこで売っているものを食べた。

 肉は店先にぶら下げられてあって、注文すると包丁で切り売りしていた。肉を切った時の血がそのまま道路の側溝を流れて、下水に入っていくのだった。カエルやヘビなども売っていた。こちらはカゴに入っていて、そのカゴ単位で売られていた。

 中華料理屋に入った時、いや、香港にいて中華料理屋と呼ぶのもおかしいが、地元の定食屋に入った時、小山内はニコニコしながら、注文した料理が来るのを楽しみにしていた。

 本人はお目当ての料理を頼んだつもりだったが、出てきたものがあまりに違い過ぎて目が点になったのが面白かった。その時はエビ焼きそばを頼んだつもりだったみたいだったが、出てきたのが日本で言うタラコ・スパゲッティのような「エビっこ」焼きそばだった。エビ=蝦の字は合っていたが、隣に“子”の字を見落としたまま注文したようだ。


 自分のマンションに戻ってすぐに全ての部屋を回って誰も潜んでいないこと、チェストの隠し引き出しに入れてあったパスポート類とクレジットカード類が触られていないことを確認した。

 玄関のセキュリティビデオには誰も録画されていないことを確認した。向かいの佐藤さんと奥さんが数回カメラの前を通過したが、他には誰も写っていなかった。

 念の為、液体類をすべてトイレに流した。冷蔵庫にあった水、ジュースやサイダー、ラックにあったスコッチ、小型セラーにあったワインもちょっと残念だったが、すべてさよならした。

 冷蔵庫の中の食べ物もすべてダストシュートに放り込んだ。調味料まではどうかと思ったが、それらもすべて捨てた。

 各部屋にあった隠しカメラの映像も確認したが、誰も写っていなかったし、タイムスタンプはズレていなかった。人がいると自動的に録画するようセットされていた記録には、のぞみには言ってなかったが、二人の睦み事もすべて録画されていた。ただ、それを見返す趣味のない武田は、二人の行為の写っている記録映像のその部分は定期的に消していた。

 一通り何か仕込むことが可能な物品を処分して、ちょっとだけ安堵したところで、自分の服を全部脱いでシャワーを浴びた。シャンプーもボディウォッシュも捨てたので、ざっとお湯で流し、パンツだけ履いて、リビングのソファに座った。


 中国人に狙われるなら、理由はやはり香港三合会一掃作戦しかないと思った。
 しかし、もう二十五年も前のことに、今頃動くか?と武田は首を傾げた。

 そこで職場の中国人アナリストが興味深いことを言っていたのを思い出した。
「中国人は百年単位でものを考えます。二十年三十年なんて短いですよ。百年前に取られた香港が返ってくるなら、彼らは喜んで受取りますし、戻ってきたのを良しとすると思います」

 中国当局の容認姿勢を反映してか、結局三合会は香港返還を生き延び、今の民主運動で暴力問題を起こしては香港警察の介入の口実を作っているのだとされていた。要は大陸政府のマッチポンプのマッチ役な訳だ。

 武田はOSPを通じて当時のバンコクと香港のアセット両名が無事か照会した。“香港”は引退し、10年前から後任のアセットが稼働していた。“バンコク”の方は2年前に交通事故で亡くなっていた。不審な点があったため、“関連するもの”は全て“整理”されていた。

 メッセージの最後に“chun-li 2/3”と表示された。つまり日本に潜入している工作員3人のうち2人を把握しているということだった。こちらは大使館付きの武官や調査官を除き、リストに記載されている殺し屋や軍属を離れた狙撃手や特殊部隊員が対象だった。


 その晩、板垣いたがき陽子ようこから素敵な夜のお礼が来た。まだ少し眠たそうな陽子がシーツにくるまれているセルフィー=自撮り付きだった。パパが帰ったのだろう。

 次回はフランスのアパルトマンの雰囲気でホテル通に人気の銀座にあるブティックホテルでのお泊りデートを提案した。

 もちろんです、と返信がすぐにあった。こちらには、例のカップのないランジェリー「マチルダ」の後姿が鏡に写っているセルフィーが付いていた。上はカップのないボディスーツだが、下はオヴァールといって女性器の所が開いているデザインだった。水着やレオタードに慣れている陽子でも、ここまでくると赤面してしまうのは理解できた。

 フランス人の発想らしく(?)、ボディスーツを脱がずに愛の行為が可能な作りをしているのだった。陽子の背中は上からストラップでできたXが3つ並び、お尻の割れ目の途中からレースがないのが鏡に写っていた。

 ランジェリーは正しく選ぶと女性の魅力を2倍にも3倍にも引き出すと武田は思っていたが、元々魅力的なスタイルの陽子だったら、どんな男も抵抗できない姿になることは容易に想像できた。

 そして、実際に写真だけで武田の下半身は熱くなり、男根は天に向かって力強く勃っていた。


 次回は多分、陽子とは最後になるだろうな。割り切った付き合いだと言いうことをお互いに初めから分かっていたので、お別れですときちんと言えば別れられるだろうと思った。

 それと同じくらい気になっているのが、車、オーディオとレコード、カメラたちだった。腕時計達は持っていけるだろう。突然、日本を離れることを実感して、頭の中に目の前の所有物の取り扱いを整理し始めた。

 武田は点と線をつなぐのが天才的で、そのお陰で運用において各種のニュースを瞬時に結び付けて、全体への影響を予測できた。勝てるファンドマネージャーとなれたのはこの点をフル活用していたからだ。

 しかし、今夜、最も気になったのは、佐藤議員と中之島商事の藤岡会長の死が同じ大阪で同じ日に起こったことだった。

 武田は地下鉄を混乱に陥れた原因とその真上、地上の交通渋滞を作り出したが、佐藤議員の心臓麻痺と藤岡会長の発作は本当に偶然だったのか?

 二人とも日本の人工衛星ビジネスの進展と活用に大きくかかわっていた。米国が独占してきた人工衛星ビジネスとその軍事利用にとって好ましくない人物二人が、交通の混乱が原因で亡くなったのは偶然の重なりに因るとされた。

 メディアが見逃していたのは、二人の死因が人工的に起こすことが可能ということだった。高齢と持病と専門の医療機関での治療が必要な状況が本当に偶然揃うことなど有り得ない。


 武田が導き出した結論はこうだった。自分以外に日本で活動している工作員、つまり、同じ指揮命令系統に組み込まれている者がいるということ。医学的知識を持っているのか、従事者であるということ。政府の中枢や企業の上層部、政治家に近づくことができる組織に入り込んでいること、あるいはそういう組織があるということ。

 武田は今回の大阪での任務を受け、現地で実行した。過去にも何度か任務を成功させてきたが、毎回政治家や財界人が亡くなっているわけではなかった。

 大抵は大使館や領事館、大使公邸などを停電させたり、修繕工事が必要な水回りの不具合を起こさせて、“業者”が立ち入る理由を作ることだった。

 しかし、武田が作り出した混乱で政治家などを暗殺するには、とても近い距離で手を下す者が必要だ。これは狙撃とは別の次元の“仕事”だ。

 武田はOSPに“japan-blue-yoshiko”とメッセージを送ってみた。日本人には関係なく、米国人がどう思うかで、中国の女性工作員はChun-Li(春麗?)と呼ばれ、日本人のそれはYoshiko(芳子?)だった。日本工作員のコードネーム、いや、単なる綽名、はどうも川島かわしま芳子よしこからきているようだった。

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