月と六文銭・第十八章(03)
竜攘虎搏:竜が払い(攘)、虎が殴る(搏)ということで、竜と虎が激しい戦いをすること。強大な力量を持ち、実力が伯仲する二人を示す文言として竜虎に喩えられ、力量が互角の者同士が激しい戦いを繰り広げることを竜攘虎搏と表現する。
週明けのオフィスはゴシップでもちきりだった。モデルと交際ていると噂の部長の相手が判明し、ゴシップ雀どもは朝から相手探しに躍起になっていた。
そこへ中国の敏腕スナイパー・張敏正が日本に侵入したとの情報がもたらされた。彼の狙いは来日する国家元首か。
~竜攘虎搏~
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副田め!と武田が怒ったのは、土曜の会話が月曜の朝には会社のゴシップ軍団に伝わっていて、ほぼ全社員が武田と元ミス・イスラエルの件を知るところとなり、どの元ミス・イスラエルかを朝からネット検索している連中もいたらしかった。
もちろん、これも例の"オフィスでの猿芝居"の一つで、わざとこういう会話を職場で繰り広げて、社内の敵を欺く作戦の一環だ。
「副長、ダメじゃないですか、ファミレスで話した内緒話をゴシップ軍団に披露しちゃ!」
「代表質問に答えてもらったので、俺には皆に報告する義務があるんです!」
「おいおい、お前はマスコミかよ!」
月曜の午後、ようやく'ミス・イスラエル騒動'が沈静化しつつあった頃、平泉社長の秘書から「社長から話がある」との連絡があった。
これは失礼なのか、そうでないのか、武田は悩んだ。仮にも執行役員投資運用部長である自分を呼び出すのであれば、秘書が電話してくるのではなく、社長がメールか電話で連絡するのが礼儀ではないかと思ったのだが、銀行出身の社長にしてみたら自分が直接連絡するのではなく、秘書が連絡するのが普通かもしれなかった。
「時間は何時が良いとおっしゃっていましたか?」
あくまでも私は社長と話すのだから、秘書であるあなたに頭を下げる必要はないとの態度で接した。だから嫌われるのだろうけど、礼節を重んじない人には同様の態度で接するのは当然だ。
「午後なら何時でも、と」
「そうしましたら、社長には14時30分に社長室に伺うとお伝えください」
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武田は失礼にならない程度、約2分30秒前に社長室の前に立った。社長室に入ったら、社長が自ら立ってきて、応接セットに座り、武田を招いた。そして、背後に人の気配がしたので、癖でポケットの中の車のカギを、襲われたらそれで喉を刺せるよう握り直した。
「武田さん、川端専務にも来てもらったんだ」
社長が右手を若干上げて、入り口を指した。武田が振り向くと川端専務がにっこりしながら入り口に立っていた。
礼儀を重んじることを示そうと武田は若干脇によって専務が応接セットに座れるよう道を開けた。
「おう、すまんな」
そういいながら川端は武田の前を通り、応接セットの椅子に座り、最後に武田が座った。
「武田さん、英国法人の件、了承してくれてありがとう。
誤解をしてほしくないので、敢えて申し上げますが、投資運用部長の任を解いて行ってもらうわけだが、英国法人のトップだけでなく、エミア(EMEA)の統括をお任せします」
エミアとはEurope, Middle East, Africaの頭文字を取った表現で、ヨーロッパ、中近東、アフリカを指し、世界を大きく分けた場合、南北アメリカ大陸を指す米州=the Americas、アジア・大洋州を指すAPAC以外の世界の1/3の地域となる。
武田は「断るわけがないよね」と思っている社長と専務の顔に「お断りします」というパンチを繰り出したかったのを我慢して、微笑みながら話の続きがどうなっているのか気になった。
本当に英国に行くなら、明華対策をどうするのか、のぞみとのことをどうするのか、きちんと整理しないといけない。
今やパパ活女子のリュウもいた。ま、この子の場合、定期的にお金を振り込んであげて、大人の関係がないなら、ほっとするだろう。いろいろ吸収して、会う度に上達が見られるが、あくまでも武田を満足させるために努力しているのであって、セックスの達人になりたいわけではないことは分かっていた。
明華対策が済めば、田口も安心するだろう。一つでも心の負担を減らした方がいいだろう。その場合、メカジキ作戦が実行されて、武田の替玉が死ぬことにはなるが…。
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自分のオフィスに戻った瞬間を待っていたかのように、電話が鳴り、送信元に『田口静香』と表示された。田口は普段と変わらず、いきなり要件から入った。
「中国の敏腕スナイパーが香港経由で日本に入国したらしいです。
あ、田口です、今、大丈夫かしら?」
「ツィーシーのことですか?」
「よく知っていますね!」
「日本に入国したかどうかは知りませんが、彼の父が伝説のスナイパーだったことは知っています。
ブラックベリーの一般アラートで今朝、情報が来ました」
武田と田口とで話していた中国人スナイパーは、中国の狙撃の神「狙神」と呼ばれる張桃芳の子、張敏正、通称「鉄矢(ツィーシー)」のことだった。
張桃芳は朝鮮戦争時に中国側から派遣され、国連軍(実質的には米軍)の将兵を数百人射殺した中国の英雄だった。
「日本入国の目的は今のところ不明です。
目的が狙撃で標的がいるのかいないのかも分かりません」
「そんな凄腕が観光とか秋葉原で買い物するために入国するとは思えませんが…。
北の長男みたいに六本木でホステス遊びがしたいのかな?」
「ホステス遊びはしないと思いますし、観光や買い物でもないでしょう」
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武田はちょっと考えてから田口に考えられる狙撃のターゲットを聞いてみた。
「今後2か月以内の海外要人の来日予定は?」
「ブラジルの大統領、ペルーの大統領、タイの首相が来ますが、いずれの国も比較的中国とは良好な関係にあると思います」
「まぁ、暗殺が目的なら、我々ではなくて日本の警察の仕事ですよね?」
「我々に関係ないターゲットなら日本の警察の仕事ですが、万一我々の関係者だったら、放っておけないですよね?」
「ナインアイズの定例会議は?」
『ナインアイズ(=9つの目)』は諜報の世界の共有データベースを構築する目的で英国秘密情報部SIS、通称MI6が提唱し、旧英連邦諸国を中心に米国と日本、韓国とタイを加えた9か国の情報組織が参加しているプロジェクトだった。
議長国は持ち回りとなっているため、参加メンバーは3か月に1回の開催時に議長国に集合する。データベースの構築自体は各国で契約しているシステム会社がシステムの一部分を担当し、英国のMI5、MI6及びGCHQのシステム部が統合を担当している。
今回は日本が議長国となっていて、霞が関のどこかの庁舎で会議を行う予定だ。もちろん会場は秘密で、日本で前回開催された時は文科省の中等教育部の中会議室を「英語プレゼンテーション研修」の名目で予約して使用した。
田口はわずかに首を傾げたまま、話し始めた。
「今期は日本が議長国ですね。
まさか出席するメンバーの誰かを狙っているとか?」
「或いは会議そのもの、つまり全参加者を狙うとか」
「諜報の世界で中国は微妙な立場にありますから、ナインアイズを狙うかしら?
ナインアイズの会場はギリギリまでメンバーにも知らされないし、設定するのは開催国の担当課長だし、目くらましにダミー会場を幾つも予約するからどれか事前には分からないし」
「だから狙撃は不可能に近いということか?」
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