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羽生書店(05)

 武田がC県の大動脈・S線にある駅に田口から呼び出されたのは9月のある木曜日だった。
 ここから米中央情報局工作員・田口静香たぐち・しずかの冒険『六闘三略りくとうさんりゃく』より、『羽生はにゅう書店』の巻が始まった。


 劉少藩=リウの言葉を信じるならば、学業を成就したいために武田と逢っているのであって、需要と供給の関係から、自分は時間と若さ、或いは健康な肉体、武田は時間と金銭、を交換する市場が成り立っている状況を作っていた。
 計算式はあるが、等式にはならないのは明白だった。一方的にパパ活女子に有利な「契約」だった。コンビニのアルバイトで時給1500円で2時間働いたら3000円になる。仮にパパと部屋で2時間過ごして6万円もらえるとしたら、20倍も効率の良いアルバイトをしたと言える。食事代やホテル代なども考えるとパパには2時間で6万円+4万円の出費となる。それに対して、逆にパパは仕事で稼げる金が1時間で10万円だとするとその2時間で20万円は稼げず、パパ活女子には10万円を出費するので、トータルはマイナス30万円となる。
 刘が武田とホテルで会って、毎回直接手当を貰ったのは初めの頃だけで、その時は「都度つど」と称して、関係が安定するまで、逢う度(逢った都度)に貰う約束だった。そのうち武田も刘も安心して逢えるようになり、刘は月単位で手当(「月極つきぎめ」という)を貰うようになり、生活が安定し始めた。
 ところが、別れた前彼が彼女の部屋の前で騒ぐことを繰り返したため、転居を余儀なくされ、武田が探した大学に近いマンションに移った。そこから、1か月に貰う「月極め」へと手当の形が変わった。家賃、光熱費、通信費、学費、生活の全般を負担してもらうことになった。自分が少しアルバイトをするのは、大好きなディズニーに行くとか、友達と食事に行くためだけとなった。余裕が全然違う。親からの仕送りにも手をつけず、帰国したら返すか新生活のスタート資金として取っておくつもりだった。
 刘は武田がしてくれていることをよく理解していた。自分の部屋で武田と逢うことにして、移動時間・費用などを減らした。食事を外で一緒に摂ってから部屋に帰ることにして、調理と片付けに使う時間も減らしていた。その結果、勉強する時間を最大限取れるようになり、成績を維持し、友人たちとの時間も確保できた。もちろん武田との時間も確保できて、ゆっくり彼と逢い、悩みを聞いてもらったり、アドバイスを貰ったり、そして、じっくりと体を開発されていった。
 しかし、刘は戸惑っていた。武田を恋人とは呼べないし、呼びたくなかった。ここまでしてもらったいるのだから、恋人ではなく、愛人か囲われ者だろう。それくらいの認識は刘にもあった。しかし、ご主人様とは呼べないし、武田もそれは喜ばないだろうと思った。

 その刘が武田に隠れて他の男性と逢っているとか、中国政府の為にハニトラをやっているとは信じたくなかった。それが事実なら、関係を打ち切るだけだ。武田は刘のすべてを握っているかもしれないが、刘は武田について何も知らないも同然だった。

「刘は」
「分かっていますよ、関係ないと言いたいのでしょう?」
「絶対、関係ない。
 僕との時間以外は真面目な学生だと思っているのだが…」
「アルバイトに追われていなくて、勉強する時間が十分以上ある健康な肉体を持て余している女性学生が、空いている時間に男子学生と過ごさないわけがないじゃないですか?
 ましてや最近は性技も上達し、男性を喜ばすことができるようになったので、今まで組み伏せられていたのが、逆に主導権を握ることができるのですよ?
 選ばれるのを待つ身から、選ぶ側になったのですよ?」

 田口の意図は分かる。懸念も十分に検討する必要がある。

<痛い所、突くよな、相変わらず>

「ほら、降りて、急いで階段を降りて行きましたよ。
 お手洗いに直行だと思います」
「あれは強力な下剤だと思っていいのか?」
「そんなところです。
 用を済ませ、出てきたところ、全身の筋肉がコントロールを失い、チームが確保することとなります。
 その後はしばらく尋問をさせてもらい、事案の概要を把握します。
 その過程で今回のハニトラのテクニックが把握できると思います」
「すべてが分かるまでおっさんは解放されないんでしょ?」
「判明しても、内容によっては機密保持違反に問われたりする可能性がありますね。
 そうなると米国のブラックサイト行きがあるかも」

 ブラックサイトとは秘密の収容所で、外界との接触は一切絶たれ、尋問を繰り返される。拷問されることもあるだろう。

「日本人なのに?
 人権は尊重されないんだな」
「核技術漏洩で百万人単位の死亡者が出る可能性があれば、人権も何も、公共の福祉が優先すると判断されると思います。
 私たちの仕事とはそういうものでしょ?」
「『For the Greater Good』か」
「そうです」

 二人がトイレの前を通りがかったら、具合の悪そうな男性が抱えられて、救急隊に担架に乗せられて運び去られるところだった。
 田口は一瞥して、独り言を発した。

「さようなら。
 私が生きていたら20年後くらいに会えるかもしれませんね」
「家族とかは?」
「いません。
 いないから変にモテたら調子に乗っちゃうのがモテないおじさんの共通した性向です」
「僕も家族いないけど」
「恋人がいて、アタシがいて、愛人というか、性欲を満たしてくれる若い相手もいて、寂しいこともなく、家族なんていらないんじゃないですか?」
「そうかなぁ?
 静香と一緒になると言ったら、一緒に家族を作ってくれるか?」
「え?
 アタシ?」

 これまでの人生で聞いたことのない提案に田口は珍しく思考停止に陥った。

<そんなこと、考えたこともなかったわ。初めて人の命を奪った瞬間から、自分には普通の人の幸せはもう望めないと諦めていた。誰かと一緒になる、ましてや家族を作るなんてことは有り得ないと思っていたのに、どうして哲也さんは心に刺さる発言をこんな時に放つの!>

「冗談ですよね?」
「引退する覚悟があるなら、或いは一生僕を守ってくれる役割だけ担えるなら」
「何を言っているのですか!
 組織がそれを許さないのはご存知でしょ?」
「互いに互いを監視する約束、つまり静香が僕を監視し、僕が静香が秘密を漏洩しないよう監視するなら、組織は静香の引退を認めてくれるのでは?」
「或いは一生組織の監視下で二人は生きていかないといけなくなるかもしれませんよ」
「処置されない限りは有りじゃないですか?」
「『ミスター・アンド・ミセス』のドラマを見過ぎていませんか?(笑)」
「そうかもね。
 僕の知っている諜報の世界は限られているからね。
 静香の知っている世界の10分の1、100分の1かもしれないからね」
「私は今まで哲也さんを守ってきましたので、あまり変わらないかもしれませんが(笑)」
「そうだよね…」

 二人は地下鉄の改札に到着し、IC乗車カードをかざして、入場した。

「アレ?
 今、思ったんだけど、地上の路線の方が早く着くんじゃないの?」
「ターゲットのいる場所が地下鉄に直結しているビルなので、こちらの方が便利だと思って」
「それなら、地下鉄の方がいいね。
 厚生労働省の建物ってこと?」
「さすが、覚えていらっしゃるのですね」
「あの事件、後日談もありそうで」
「それはまた別の寝物語でお聞かせしたいと思います」
「今日の午後とか?」
「あらっ、地上から人間が二人消えた日に、消した本人を抱く勇気がありますか?」
「何を言っているんだ、この後、静香は僕に抱かれないと落ち着いて眠れないだろ?」
「ふーん、そんなにアタシのこと好きなんですか?」
「当たり前だろ!」
「じゃあ、のぞみさんを捨てて、アタシと一緒になって!
 アタシをロンドンに連れて行ってください」
「え?」
「ほら、できないでしょ?」
「できないことはないけど…」
「けど、のぞみさんとも関係を続けたい、と思っていますよね?」

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八反満
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