月と六文銭・第十七章(06)
6.個別案件
The Individual Assignment
その夜のこと、"業務用"ノートPCにメールが届いたアラートが鳴った。
ピローン♪(メールが届く音)
「ん?個別売込案件か?」
仕事の依頼は"今週の新商品・新サービス紹介"というメールの形で届くのが週一回、日本の土曜、午前3時だ。
しかし、今のメールは22時に来ている。つまり"個別売込案件"だ。個別売込みの問題はこちら側に精査する時間がない点だ。
武田はこういった案件が好きではなかった。その理由は、1)正常な判断を下す時間がない、或いは、2)大国の身勝手な思惑に基づいている、または、3)組織防衛のため、の3つの内のいずれかとなっているからだった。
そして、時間的緊急性で判断すると2→3→1の順番となっていることが多かった。
さて、今回の商品は、中国人富豪をびっくりさせる当たり馬券を提供すること。
「まったく、なんのことだ?!
競馬をやらないから全く分からない…」
武田は博打は"からきし"だったので、競馬、競輪、オート、ボートは全く手を出さない。パチンコもやらないし、皆に笑われるのが、宝くじすら買わない。
なになに、船橋競馬の3番馬に大金を掛ける中国人富豪をぎゃふんと言わせるサプライズを提供すること。当たり馬券は16日のレース、50,000円分購入すること。
武田はノートPCの地図ソフトを立ち上げて、船橋の広域図を表示させ、どんどんズームインしていった。あとで、詳細が届くことになるが、このメールから分かることは、1)中国大使館のナンバースリー、たぶん駐在武官、つまり軍情報部所属の情報官を狙撃すること、2)船橋場外馬券場か船橋駅の近くで実行すること、3)報酬は50,000米ドル、4)今月16日に実行すること。
舞台(場所)及び舞台装置(狙撃銃)は組織が整える。ターゲットがそこに16日に来ることも確認済みなのだ。
武田は受けることにしたので、購入意思を伝えるメールを作成した。
++++++++++++++++++++++++++++++
To:OTTO
From:Arthur Emis
++++++++++++++++++++++++++++++
Hi Otto,
I accept your offer.
Please send details ASAP.
Art
++++++++++++++++++++++++++++++
武田が購入メールを送る際に使用する名前はアーサー・エーミスだった。これは彼のコードネーム"アルテミス"をもじった名前だ。
米国の月面着陸計画「アルテミス計画」は60-70年代のアポロ月面着陸計画に対応して名付けられた。
Artemis:アルテミスは、ギリシア神話に登場する狩猟・貞潔の女神で、双子の弟がアポロ計画の名の由来であるアポロンだった。アポロンがヘリオスと同一視され、太陽神とされたように、後にセレーネと同一視されたアルテミスは"月の女神"とされた。
武田がこれをコードネームに選んだのは月へのこだわりからだった。
武田が購入意思を伝えるメールを送って数分後、詳細を記載したメールが届いた。
JR船橋駅の南口にある場外馬券売り場のビルの上から、JRのホームと東武線のホームの下をくぐるトンネル部を通過する中国大使館付き駐在武官の自動車を狙撃して、暫く"無効化"すること。無効化とは怪我等で入院して動けなくすることだった。
死んでは困るが、元気に動き回られるのも困るため、無効化の狙撃が有効だが、これが一番難しい。狙撃の際の状況とその結果ターゲットがどうなるかのすべてを見通せないと、誤って殺してしまうこともある。実はその方が国際問題化する点では不都合なのだ。交通事故でケガをしたことにするのが最も効果がある。
狙撃自体は風も少ない真っ直ぐ且つ見晴らしの良い場所から実施することが可能だったが、武田に依頼してくるからにはそんな簡単なわけがなかった。
JR船橋駅は京成線、東武線の2私鉄への乗り換えが可能なターミナル駅で利用客数は多く、時間帯によってはホーム上にたくさんの人がいることが予想される。
武田は早速JR船橋駅まで行って周辺を歩いた。狙撃地点は京成線の駅ビル、標的はJRのホーム、総武線及び快速線の2つ、を越えた東武線の高架線の下、半分トンネルになっている通路だ。これならどこから撃ったのか特定にするのにしばらく時間がかかるだろう。
それは助かるが、なかなかのピンホールショットだな、というのが武田の感想だった。このトンネルなら車はスピードを落とすから"当てる"のは難しくない。どちらかというと、時間帯によってはホームにいる沢山の乗客の頭の上を弾丸が通ることとなるのが課題だ。