月と六文銭・第十八章(16)
竜攘虎搏:竜が払い(攘)、虎が殴る(搏)ということで、竜と虎が激しい戦いをすること。強大な力量を持ち、実力が伯仲する二人を示す文言として竜虎に喩えられ、力量が互角の者同士が激しい戦いを繰り広げることを竜攘虎搏と表現する。
武田は同盟国の諜報機関からの依頼を快諾したが、条件として、北大西洋条約機構(NATO)で使用されている劣化ウラン製の弾丸の提供を求めた。
同盟国・英国の諜報機関員はそれを手配し、準備すると約束した。
~竜攘虎搏~
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エミリー・ウォードシャイヤ経済分析官から取材のお礼のメールが来たのは翌日の早朝だった。本国からの回答で欧州経済見通しのレポートを送付する手続きが完了したとのことだった。
エミリーは、ドイツ経済のレポート762DUとポーランド経済のレポート762Wの2本が別途送られると連絡してきた。
Dはドイツを、Wはワルシャワ=ポーランドをそれぞれ表すアルファベットの設定だ。ドイツをGとすると紛らわしいし、ポーランドをPとした場合、パキスタン、フィリピンなどもPとなってしまう。もちろんこじ付けでしかないが…。
武田はその日の午後12時30分に東京ステーションホテルで内容の説明を受けたいと返信し、約束を取り付けた。
***
「昨日の今日で、二度もお会いすることになるとは珍しいですね」
「そうですね、エミリーは既に日本に来て丸2年経っているのに、これまで一度もお会いしなかった方が珍しいですね」
「しかも、今日はステーキ・ランチとは」
「私のアラワンスの範囲内ですので、楽しみましょう」
「ありがとうございます。
まずは、このタグを渡しますね。
茶のブリーフケースに3箱ずつ入っています。
意外と重かったですわ」
「そうでしょうね」
武田が英国の依頼を受ける代わりに欧州で使用されている劣化ウラン弾の提供を受けるのが条件だった。ウォードシャイヤは本国からの了承を取り付け、横須賀の米国基地から3ケースずつを受け取り、それを入れたブリーフケースを東京ステーションホテルのフロントに預けてきたのだ。
その預けたブリーフケースを受け取るには、この預かりタグが必要なのだ。
「この辺りでおすすめのディナーはどのお店かしら?」
「丸ビルの上のフレンチ、オー・ラ・ミーか新丸ビルの上のダン・ジョーンズ・エイト、オーストラリア料理です」
「ふーん」
「英国本国にはないオーストラリア料理は海外にいる間に経験されておくと何かと話のきっかけになりますよ」
「話のネタね」
「そんなところです」
「ところであの762はあんなに重くてきちんと飛ぶのですか?
物理は私の専門外で、重い物は先に下に落ちることくらいしか理解していないのだけど」
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「慣性の法則です。
動くものはいつまでも動き続けようとします。
その中で重たいものは動きを維持するための質量を持っているということです。
貫通力にもつながります」
「アナタはこの分野の専門家だから間違いはないとは思いますが、そんなものを東京の街中で撃ちまくっても大丈夫なの?」
「ギャングやヤクザではないので、やたらと撃ちまくることはさすがにないでしょう。
少なくともそのデータUSB争奪戦がファイヤファイト(銃撃戦)にならない限りは、最低限で目標を取り除きます」
「そう願います、恵比寿グランドホテルの客のためにも」
武田が何か言おうとしたら、ウォードシャイヤは分かっているわと言う顔をして、微笑んだ。
「インドからこっち側ではあなた以上の腕前の者はいないことは知っているわ。
個人的には日本人にこのような能力を持っている人がいるのが驚きだったし、英本国のために香港でもお仕事をしていただいたことも読んで知っていますわ」
「若く、駆け出しの頃は海外でのお仕事も受けていました」
「そこがすごいのよ、あなたはこの年まで、途中で失敗もせず、捕まらず、殺されず、あ、ごめんなさい、この年まで生き延びているし、今でも最高峰と言うのが信じられないというか。
SASならば40歳で事実上の引退ですから」
「SASの場合、狙撃だけじゃないですからね、しないといけないことは」
「それはそうだけど、目、視力だって、体の柔軟性や体力そのものだった衰えていくでしょう?」
「衰えていますよ」
「本当?
にわかには信じられないわ。
ま、他にとって代われる能力ある狙撃手がいないというのも事実でしょうけど」
「ははは、育ててこなかったのではなく、育てるべき芽がいなかったのですよ」
「そうですか?
ま、そういうことにしておきましょう」
「さて、お茶は?」
「ダージリンにしたいわ」
武田は手を軽く上げサーバーを呼び、ダージリンをポットでお願いし、オペラを二つ頼んだ。
「ここのオペラ、おすすめです」
「アナタが言うならおすすめなんでしょうね」
「まかせてください」
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デザートまでを順調にこなし、武田はホテルのロビーまでウォードシャイヤを見送った後、クロークでN762DUとN762W入りのアタッシュケースを受け取った。
<確かに重い。こんなに重いのか、6ケースで?>
武田はそのまま戻らず、ホテルのラウンジに入って角のテーブルに座り、アタッシュケースの中をあらためた。N762DU(劣化ウラン弾)とN762W(タングステン弾)はどちらも重たい金属で作られている弾丸だった。
3ケースずつにまとめられていた劣化ウラン弾とタングステン弾のほかに綺麗にラッピングされていた銃倉らしきものが含まれていた。銃倉と予想したのは独特なカーブを有する物に見えたからだ。
テープでメモが添付されていた。武田はそれを外し、開けて読んだ。
『Happy Birthday! Put in something special for you. Hope it meets your taste. OTTO』
<OTTO部からの誕生日プレゼントか。めちゃくちゃ実用性が高そうだな。しかし、趣味が合うかどうかってのはどういうことだろう?>
武田は銃倉だと思っていたプレゼントは寒暖計、湿度計、レーザー測定器、心拍記録計等の計測機が付いたリストバンドだった。腕時計よりは大きく、バンドの部分も幅が広かったから普通の腕時計には見えず、医療機器に近い感じがした。
<ごついな。確かに「趣味」は悪い。あれば便利な機能が幾つかあるが、何かあった場合、これを着けている方が怪しまれるんじゃないかな?今やほとんどの機能はスマートウォッチでカバーされているが…>
武田はアタッシュケースを閉めようとして、一瞬手を止めた。普通のレーザー測定器は部屋の中くらいしか通用しないが、OTTOが送ったもの、性能を侮ってはいけない。後でちゃんと説明書を読んで、地下の駐車場で試せそうと、それだけを外して、ポケットにしまった。
閉じられたアタッシュケースを持った武田は、ラウンジの会計を済ませ、大胆にも地下鉄丸ノ内線で霞が関まで行った。
<確かに重いと感じるなぁ>
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自分のオフィスに到着したら、アタッシュケースのダイヤルロックは田口静香<たぐちしずか>のスリーサイズに変更し、すぐにデスクの下の左足の前の空間に置いた。これはオフィスで田口を知っている人がほぼいないこと、ましてやスリーサイズを知っている人がまず皆無と思っての設定だった。
そして、もう一つのトラブル防止策は自宅に持ち帰った場合、のぞみの誕生日などにしてあったら、意外と簡単に開いてしまう可能性があったからだ。のぞみに言い分けができないだけならまだよい。のぞみが劣化ウラン弾だと気が付いた場合、非常に厄介だ。彼女が見たことないアタッシュケースならなおさら興味を持つはずだ。自分がそう教育してきたからだが。
『何事にも興味を持ち、突き詰め、質問をし、納得するまで調べる』
一流アナリストや上級リサーチャー共通の心構えみたいなものだ。リサーチャーはセンスも大事だが、職業としてやるなら、基本をきちんと教えてあげないといけない。問題は、どの会社にもきちんと教えられる人がとても少ないことだ。
武田もこの会社に移ってきて最初に感じたのはリサーチレベルの低さだった。上がダメなら下も当然ダメで、どこかでこのサイクルを破らないとリサーチのレベルが上がっていかない。その為の内部勉強会であったり、外部講習会への参加だったり、勉強する機会を毎年増やしてレベルアップを図ってきたのだ。
しかし、このアタッシュケースは別だ。見ざる、聞かざる、言わざるの三猿状態が大事だ。かといって持ち帰らず駅のコインロッカーや車のトランクに入れておくという訳にもいかない。のぞみに見つからずに部屋に持ち込んでクローゼットに入れらるか、少し疑問だ。
<部屋はダメだ。仕事部屋に立ち寄って、置いてこよう>
決断すれば、あとは行動するのみ。弾丸の改造、銃器の調整に使っているマンションに寄って鍵のかかる棚に入れてきた。
恋人ののぞみとは、以前は自分の部屋のそばで待ち合わせをして食事をしていたが、中国人暗殺集団に狙われているの確認してからは、彼女の食べたいものがある駅で待ち合わせ、食べて別れるか、食べた後ホテルの部屋で過ごしてから送っていくようにしていた。