月と六文銭・第十二章(2)
武田は恋人・三枝のぞみと過ごす時は、オフィスとものぞみの自宅とも違う方向の六本木のホテルを使うことが多かった。行き来の手間はあったが、人に見られる可能性を減らすことが大事だった。
~ソムニア1603~(1)
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赤や白が定番のGT3だが、武田の車両「ネロ号」は艶消しの黒に塗られ、暗い駐車場では闇に同化してしまう車両だった。ネロ号は停めたところに大人しく待っていた。こういう時はカエルというより猫と武田は表現したくなってしまうのだった。
武田は車をぐるりと一周して、タイヤの状態などを確認し、トランクの荷物も一度見た。靴の紐を結び直しながら、車体の下を携帯電話のカメラでサッと見た。余計なものは無さそうだった。
運転席に収まったこの感覚は座った者でないと分からない。安心感と緊張のバランスが絶妙なのだ。すべてはレースに勝つために設計されていると言われるポルシェ911。いくら日本と比べて左利きの人が多いとはいえ、キーが左側にあった方がエンジンが掛けやすいのではなく、24時間耐久レースで有名な「ル・マン」でのスタート時に、一秒でも早くエンジンを掛けて走り出せるようにしたものだった。
当初ル・マンはスタートレーンの片側に車両を並べ、反対側にドライバーが並び、スタートと同時にドライバーが車両に駆け寄り、乗り込んでから走り出すスタイルだった。ル・マン式スタートと呼ばれるスタイルだ。自動車やオートバイレースで一時期標準的なスタイルとなったが、出走時の混乱や接触、安全装置(シートベルト)の装着を怠るドライバーが出るなどの問題もあって、1971年以降はル・マンは現在標準となっているローリングスタート方式に移行した。
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駐車場を出て、環状八号線、通称環八に出た。案内板にはRing Road-8と表示されていて、間違ってはいないため、武田は見る度にクスッと笑った。
武田は前の車について行くだけの運転に徹した。無理な運転はせず、流れに乗って、いや、流れに身を任せる感じで、道の向かう方へと車の鼻先を調整するだけ。あとは丁寧にアクセルとブレーキとギアの選択を繰り返した。
あまりにものんびり流しているように見えたため、端から見たらもったいない乗り方をしているなぁ、と思われる運転だった。少なくとも自分だったらそう思っただろうと武田は苦笑した。
性能の十分の一も使わないなら、ポルシェ911である必要はないだろう。プリウスやフィットで十分だろう、と武田なら他のドライバーを見て独り言がでてくるような運転だった。
手動のシフトだった時代の911の時は、同じ速度でエンジン回転数をアクセルで上げ下げさせながら、ギアを2速、3速と入れ替えたりした。学生時代、ラリーを走っていた女性と付き合っていた時に「クラッチがおかしくなっても取り敢えず修理場所まで行けるし、エンジンとギアの関係が自然と身に付くよ」と教わったから、所有した車はどれもこれをした。
しかも、エンジンの回転落ちが速い911の場合、ブリッピングというか、エンジンを煽る必要が結構あったのも事実だが。
この車を手放さずに済むのは預かってもらった場合だが、万一同業者の分福茶釜が間違って狙われたら申し訳ない。
「やはり、売ろう」
武田は自分に言い聞かせるように声に出して言った。
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武田は左に車線変更して、適度なスペースのあるところで車を停め、ディーラーに電話を架けた。営業所長につないでもらって、極力元に戻してから買い手を探してもらうことにした。
良く言えばディーラーのアプルーブド車両にすることだが、武田の味付けやこだわりを消し去るということでもあった。
自分がオーナーだった痕跡を消すなら、中古屋に売って、2、3回オーナーが変われば、消えてしまうとは思ったが、それをするにはもったいない車だった。筋の良いオーナーの下で第二の車人生を送った方がいいだろう。
走り出そうとして、武田がバックミラーを覗き、振り向いて右の車線を確認した瞬間、ピーン♪と携帯電話がメッセージの着信を知らせた。のぞみからだった。
「出向になるみたい(T_T)
私どうしたらいいの?」
そうか、7月の異動の内々示が出たのか。
ピーン♪
「今夜、会いたい」
ピーン♪
「この前のホテルはどう?」
武田はウィンカーを戻して発車せず、返信を打とうとしたが手を止め、六本木のシティホテルに電話を架けた。六本木の駅から少し離れていて、ミッドタウンからも適度な距離があるため、若干隠れ家的な位置にあった。
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そのホテルは白が基調で、夜は間接照明をうまく配置していて、目に優しかった。
のぞみも気に入っていたが、唯一顔を赤らめて恥ずかしがったのが、部屋の仕切りが全部ガラスで、お手洗いが丸見えだったことに加え、便座が部屋の方を向いていたことだった。
武田にベッドの中で自分の女性の部分を見られるのと、排泄行為を見られるのは、全然違う次元の恥ずかしさだった。
武田もこの大胆な設計にはびっくりした。シャワーは一緒に入るので、のぞみもバスエリアは気にしなかったが、トイレだけはしっかりブラインドを下ろしてプライバシーを確保した。
迅速な対応もこのホテルの魅力だった。しかも、部屋がいっぱいの時は系列のホテルの空き状況を確認して、そちらの予約をしてくれるところもなかなか気が利いていると感じた。
「ありがとうございます。
それでは後ほどお世話になります。
連れが先に到着した場合は鍵を渡してください」
予約が完了し、武田はのぞみにメッセージを打った。
「六ミッドT、ソムニア1603」
そう入力して、のぞみに送信した。
送った瞬間「read(既読)」の表示が付いたということは、のぞみは画面を開けたまま武田の返事を待っていたのだろう。送っただけなら「sent(送信済み)」と表示されるが、開封して読まれると「read」となる。