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月と六文銭・第六章(3)

 武田はメルセデス製エンジンを搭載したアストン・マーティンがどんな感じなのか興味があって、レースクィーンの板垣いたがき陽子ようこと青山まで出かけていた。

~メルセデス+アストン・マーティン~


 武田は今日、V8ツインターボのDB11を試乗する予定だった。英国のスパイ映画007シリーズに登場したプロトタイプDB10が一般のラインアップから欠番とされ、次に登場したのがDB11だった。

 DBはアストン・マーティン・ラゴンダ社の当時のオーナーだったディヴィッド・ブラウンのイニシャルで“速いアストン”に付けるコードとなっていた。1947年に発売されたDB1から始まり、現行のDB11のほか、DBSがラインアップにあった。

 ドイツ車党の武田がDB11に興味を持ったのは、メルセデスの4リッター90度V8エンジンを搭載していたからだった。陽子にはすぐに分かる話だったが、のぞみだったら〝007の映画に出ているから欲しいのね”ということになっただろう。

 これは知識の差ではなく、感覚の差で、武田のどの側面を良く知っているかの違いだった。

「陽子さん、試乗の後、銀座に出ましょうか?」
「紅茶専門店のマリアージュ・ブルームに行ってもいいですか?」
「いいですね。あそこはケーキがおいしいし、紅茶の種類が多いから」
「よく知っていますね。バーバリーの子と行かれたのですか?」と陽子はつい言ってしまい、一瞬気まずい空気が流れた気がした。
「あ、ごめんなさい、何度か見かけていたから、つい。車にひざ掛けがあったからそうじゃないかと思ったの」
「そうです、彼女と行きました。伊勢丹のそばの新宿のお店でしたが」


 陽子が何と言おうか迷っているうちに武田より少し年が上の男性が近づいて話しかけた。店長のキジマ(名札はKijima)だった。
「ご無沙汰してます。やっと買う気になってくれましたか?」
「M117を積んだ感じがどうか興味がありましてね」
「多分そうだろうと思いました。本日は外がシルバー、内装が赤の車両を用意してあります。試乗コースはご存じですね」
「はい。一緒に行かれないのですか?」
「私には後ろの席は狭いですし、お連れの方に後ろに座っていただくのも、ここで待っていただくのも、野暮でしょ?黄色のドレスが映えると思いますよ」

 キジマの言葉に陽子は微笑んだだけだった。余計なことをいうタイミングではないと感じたみたいだった。もちろん、陽子の長い脚は残念ながら前のシートを一番前に動かしても後ろの席には収まらないと思われた。

 この店の試乗コースは青山通りを往復するだけの単純なものだったが、オーナー予備軍を酔わせる効果のある魔の道だった。

 どちらかというと信号が多く、スピードは出ないのだが、信号で停まる度、360度から視線が注がれるため、とにかくドライバーは気持ちが良いのだ。

 しかも、英国車だから右ハンドル、横を歩く人は助手席の美人を見ることができるわけで、今日なら周囲は陽子のきれいな脚が見られるわけだ。

 いや、多分外国車として乗りたい人の多くはわざわざ左ハンドルを注文するのだろうと思ったが、英国車には英国車の良さがあるので、武田は買うなら右ハンドルにするつもりだった。


 今のアストン・マーティンはメルセデスやポルシェに比べると機構的には半歩後れを取っている感は否めなかったが、オーナーになれば、そんなことはどうでもいい優越感が味わえて、おつりがたくさんくると思える車だった。

 走り出してすぐに歩道の男性の目がこの車に注がれているのか、自分の黄色のドレスに注がれているのかは分からないが、とにかく視線が突き刺さってくることがすぐに感じられ、陽子はたまらず武田に言った。
「みんな、ジロジロ見過ぎですよね?」
「そういう車ですし、陽子さんがきれいだから、なおさらじゃないかな」と武田はさらっと言った。

「次の交差点で降りてみたら?男女ともにため息をついて陽子さんを見ると思いますよ」
「なんかすごいスノビッシュな行為じゃないですか」
「見られるのに慣れているでしょう?あの先で停めますので、降りてポーズしてみたら?」
「え、いやですよ。今日は哲也さんだけのアタシですから」と言いながら陽子はワンピースのスカート部のボタンを下からいくつか外し、脚を組んでみた。

 結局、陽子は車を降りることなく、フロントウィンドーから見えているであろう長い脚を信号で停まる度組み直して、外の男性陣の視線がどこを見ているのかを逆に観察するマンウォッチングを楽しんだ。

 スピードの出ない青山通りはそんなことをしながら流した。武田自身は久しぶりのアストン・マーティンで、前回はV12エンジンだった。今回はV8でV12に比べやや軽く回るなと感じていた。


 赤坂見附の手前で右折、右折、右折、そして最後に左折して元の青山通りに戻り、ディーラーまで走らせた。帰りは信号に止められることもなく、ある程度エンジンを回すことが出来た。

 メルセデスと違いDB11は音へのこだわりがイタリア車に近いと感じた。メルセデスではこんな官能的な音は出せない。

「この車、気持ちいいね!」
「あぁ、音も振動も感覚に訴えますね。ちょうどこの辺りがいいと思います」と武田が踏み込み、タコメーターが3000回転を超えたあたりで陽子もうっとりした。

 男性の間では、バンドのベーシストがなぜモてるのかとか、バイクに乗っているヤツがなぜモてるのかとか、スポーツカーでドライブに行った後のセックスで女性が積極的なのはなぜか、ファミレスでも居酒屋でも結婚式の二次会でも必ず盛り上がった話題だった。

 都市伝説みたいな話だが、武田の中ではこんなことになっていた。ベースの音が女性の子宮に心地よい振動を与えるから、ギタリストよりもベーシストがモてる。大学のクラスでベースを弾いていた同級生が同じバンドのギターよりももてた。

 オートバイの振動は子宮に心地よく、車でいうとエンジン回転が3000を超えたところから4000までの範囲と思われた。スポーツカーならある得るが、セダンでそこまで回すことはまずない。

 大学のクラスメート畑野はたの圭太けいた大川おおかわ麗子れいこが本格的に付き合いだしたのは、畑野がオートバイを買って、大川と一緒にツーリングに行くようになってからだった。

 武田と坪井つぼい美里みさとが付き合うようになったのは、二人で武田の箱根詣でに行くようになってからしばらく経ってからだった。武田は4000回転以下で峠を走ることがなかったが、それでも決して乱暴な運転をしないと感じた美里の方が付き合いには積極的だった。


 このDB11では、4000回転はタコメーターでちょうど針が真上を向く。ポルシェのフラットシックスも針がちょうど真上を向いているが、GT3はレッドゾーンが9000回転以上のため、真上が5000回転になっていた。

 もちろん女性が気持ちよく感じる回転数を示しているわけではなく、エンジンが最も調子が良い回転数になっているのが、感覚的に分かりやすい角度になっているのだ。その為にいまだにポルシェはじめ多くのメーカーがアナログのタコメーターを使用していた。

 武田は3500から4000回転でDB11を走らせ、ディーラーに戻ってきた。

「いい車ですね」と満足気な陽子は、キジマに言った。
「いかがでした?そろそろ500Eと交代の時期かと。私のお客様で欲しいという方がいらっしゃいまして、ご納得いく金額をご提示できるかと」

 さすが敏腕セールスマン、ドミノ効果でいったい何台売買が成立させるのだろうと武田は思った。系列販売店には、ポルシェ、マゼラティ、ランボルギーニ、フェラーリ、ボルボ、BMW、フィアット、アルファ・ロメオ、そしてメルセデスベンツがあった。

 これらのお店を総動員したら、玉突きで4、5人のオーナーを巻き込み、軽く5、6台の車の売買が可能だった。いや、キジマなら10台くらい動かしかねないと思ったし、この作戦に加担する系列店の店長の顔が次々と浮かんだ。

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