羽生書店(01)
武田がC県の大動脈・S線にある駅に田口から呼び出されたのは9月のある木曜日だった。ここから米中央情報局工作員・田口静香の冒険『六闘三略』より、『羽生書店』の巻が始まった。
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場所は駅前にある書店で、店頭に雑誌や漫画など売れ筋の物、中に入ると文庫と新書など定番の物、そして、右奥には旅行雑誌、左奥には文房具があった。早めに着いた武田が見た限り、何の変哲もない普通の書店という感じだった。
店内を回り、そのまま駅前まで戻るとちょうど田口が改札を通って、小走りで近づいてきた。
「おはようございまーす!」
「おはようございます!」
「もう見ましたか、羽生書店?」
「はい、見ました。
この書店がどうかしたのですか?
何ら特徴がない、というか普通の書店でしたよ」
「何か気が付きませんでしたか?」
「なんだろう?」
「もう一度行ってみてください。
ここで5分ほどお待ちしますから」
「ヒントはないの?」
「いらないと思ったんですが。
哲也さんの得意分野ですよ」
「ん、全く分からん」
「行ってらっしゃーい!」
田口は小さく可愛く手を振って、武田に再び書店に突入するよう促した。
武田は何が自分の『得意分野』なのかも考えながら、書店のガラス扉が開くのを待った。
店内をコンビニの店内のように、まずは一周外に近い部分を回った。次にそれぞれの通路を歩いた。駅前の典型的な書店の配置で特定の分野に力を入れていて売れているとか、逆にこういう書籍がなくて、何か足りないという感じでもなかった。
電話がかかってくる頻度が高いのか、さっきからずっとカウンターの店員が電話にかかりっきりだった。レジはテキパキしていて、気持ち良くお客さんをさばいていた。商品の入替えをしている店員は何がどこにあるのかがよく分かっているのか、決まった箱から、すぐに出して陳列を更新していたし、もう一人の店員は別の陳列棚の整理整頓をテキパキ進めていた。
<店員さんは皆可愛い。それって当たり前なのかな。今はネットで書籍を買うから、何か引き付けるモノがないと客なんて来てくれないよな。駅前の書店で買うのは雑誌や漫画など、なるほど理にかなった陳列だな。ん、制服がちょっと変!お、あの店員がこっちに向かって歩いてきた。いやいや、その制服…>
「アン・ミラっぽい制服」
<いやいや、本当!その制服、ちょっとエッチ過ぎませんか…>
武田の若い頃、品川駅前にアン・ミラーズというアメリカンなカフェがあり、そこの店員に選ばれると可愛いと認められたということだった。理由は制服にあった。ここの制服は胸の下あたりからチェック柄のビスチェとスカートが始まり、当時は胸が大きくて、顔が可愛い子しか採用されないことから、そこに採用されたということは美人の証明だった。武田の大学時代の彼女は可愛かったが、胸は残念ながら大きい方ではなかったので、採用見送りとなった苦い経験があった。
<レジにいる店員、何あのエッチな胸?!そうか、田口が言った僕の『得意分野』は胸の大きさを見極められるということか?>
武田は再び、何も買わずに店を出た。2回目だった。
「あら、何も買わなかったのですか?」
「雑誌も漫画も興味なかったので」
「私の言いたいこと、分かりましたか?」
「店員がみんな巨乳だということか?」
「正解!
羽生書店、別名、巨乳書店。
私達の重要なドロップポイントです」
「ドロップポイントなんて今でもあるのか?」
「ヒュミントしない哲也さんには、ブラックベリーを通じて『商品カタログ』が届くと思いますが、私達現場工作員は情報のやり取りをネットを通じないで行うこともかなりあります」
ヒュミントとはhuman intelligenceの略で、人間を媒介とした諜報を指す。メールや電話の傍受などと違い、人間が集めた情報を人間が分析していく手法もさす。
商品カタログは定期的に武田達アセットに送られるアサインメントの通知のことで、個別の「業務依頼」であったり、現在進行中の案件の一覧であったりした。個別の場合は受けるか、受けないかを決め、実行する。一覧の場合は自分が実行できそうなアサインメントを選んでビッド(申込み)する。
ビッド式で報酬が上がったりするものもあれば、二段階承認システムとなっていて、応募しても発注者が技量が足りないなどと判断したら、再度『カタログ』に掲載されることもある。ビッドする者がいなければ社(CIA)内で処理することとなるが、現在の諜報機関は暗殺などの実行は外部の契約社員に発注するのが主流となっていた。
冷戦の頃から書店経由の資金のやり取り、情報の伝達は行われていたが、こうした店は古書=アンティークや奇書=レア物を扱って、資金を吸収したり拠出したりしていた。実際に店舗に現金を置かないで安全だったし、愛好家・蒐集家は幾らでもいたので、書籍を現金化するのは容易く、合法だった。
「そこで、私達は書店を使います。
誰でも出入りできますし、通路で店員と話しても、レジで店員と話しても、誰も気に留めないですよね?
また、お店が長時間開いていても、突然閉まっても誰も気にしない。
店長はいつも在庫を確認しているし、店員も忙しく動き回っている」
「それはスパイ映画のように店長が諜報部員で情報のフローを管理しているということなのか?
例えば、本に挟むしおりに指示を記載したり、分厚い本にはツールを隠したり、おつりを渡す時にメモを渡したり、なんてことをやっているの?」
「まあ、そんなところかしら(笑)」
田口は明るく、にこやかだった。陽の下で見る田口は、顔の左右が整った本物の美人だった。こんな朗らかな美女が冷酷に人の命を奪うことができるなんて、「事実は小説よりも奇なり」だった。
人の命を奪う生業に就いてから田口は、医者ではなくなった。医者のprofession=誓いである「人の命を救う」に反することをするようになったので、医者のprofessionを守れなくなったということだろう。
学生の頃に一生懸命勉強して、やっとなった医者という職を捨てたのだ。辛かっただろう。今は「危険人物を排除することで多くの一般市民の命を守っている」ということが仕事をするモチベーションとなっている。
先ほどまで離れて立って、どちらかというと対面で会話していたのが、スッと近づいてきて、腕を組んできた時、武田は腕に心地よい圧力を感じた。
<静香、どうしたんだ?なんか楽しそうだな。そうか、陽の下で会うのが珍しいから嬉しいのかも。いや、自分自身、静香をこんな明るいところで見るのは久しぶりだ>
田口もこんな機会はないと腕を組んで胸を押し付けたり、公衆の面前でキスを求めたり、普段と違って、「ザ・デート」を楽しんでいるようだった。都心から離れたこともあり、周囲の目も違うのだろう。
二人で『羽生書店』に入り、何かを確認するつもりだった。
「じゃあ、あたしは旅行の本を見てきますね。
次は上高地に行きたいわ、あなた」
「そうか、俺は趣味のコーナーで時計の雑誌を見ているから、どれがいいか決まったら教えて」
「うん、5、6分頂戴」
武田は頷き、男性誌のコーナーに向かった。巨乳の背が中くらいの店員が時計、車、銃などの雑誌を並べ直していた。斜め前に屈んだ状態では重そうな胸がブラウスを突き破って露出するのではないかと心配してしまうほどブラウスはパンパンだった。
武田と反対側に立っていた中年男性が車の雑誌を見ながらチラチラ店員さんを見ていたが、明らかに重たそうな胸を見て、鼻の下を伸ばしていた。
店員は一枚上手でその胸の重量感を強調するかのように、伸びをした後、右を向いた。