なんだったんだろう。

彼のことはもう14年前から知っていた。初めて見たときの印象は、線の細い神経質そうな表情、外に出たことのなさそうな白さ、けれど整った顔立ちに浮かぶかすかな自負心、滲み出る感情。

それらが相まって、もう初めて見た時から既に彼は唯一無二の存在だった。そう見えた。

追い詰められたときの演技が格別だった気がする。人生についての変更を余儀なくされそうな場面、自分の大事なものの行方を握られている時、そして、命のこの先を問われている時。

彼の演技はいつも輝いていた。

ある程度若い時より、ここ数年の表現が素敵だったと感じられるのは、彼が興味を持って取り組むことが本当にたくさんあって、吸収するものがどんどん増えて、それらを全て私たち観衆に返そうと本気で考えていてくれたからなのだろう。

いつまでも、その姿を見ることができると思っていた。本当に信じていた。だけど当たり前なんてない。全てが奇跡だった。

きっと、大半の私たちは気づかなかったけれど、彼は本当に【観るもの】のことを本気で考えていた。ただ、ほんとうに向き合ってくれていたのじゃないか?

この時代、私たちはすぐに(自分の気持ち)を表明できる。脊髄反射で無意識に、感じたことをツイートできる。なんの深読みもしないで。何も裏付けなんてない。ただの慣習のようなもの。当たり前で、慣れ親しみすぎて、なんの疑問にも思わないくらい、それはただの反射。

きっと彼は、そういうことがない人だったんじゃないだろうか。

何をするにも、理由が必要で、何を選ぶにも、捨てるにも、意味がいって。1つ1つの事柄に落とし所をみつけて。

それは、本当に大切なことだし、それができる人は尊い。だけど、多忙で細やかな生活の中で、それらひとつひとつに向き合うのは、1つずつ小石を心に溜めていくように、きっと大変なことなんじゃないか。だって、全てに向き合うなんて。

けれど、それが彼だったのだろう。どんな些末なことにも向き合って、何も適当にはすませなくて、すませたくなくて、それが彼だったのだろう。

本当に、彼が愛しい。

帰ってきて欲しい。

あの日、彼の訃報を知った時、本当にフェイクニュースだと思った。何かの間違い。それでいい。嘘でいい。信じられなかった。

何万人に愛されていてもきっと意味なんてなくて、ただ自分を満たしてくれる人に愛されていたいと思うのは当たり前だけど、

だけど、こんなにもたくさんの人が不在を悲しんで、苦しんでいることを見ているのかな?

知らなくていい。

いま全てから解放されて、ただ笑っていて欲しい。あの、誰もが思い返せる、キラキラした笑顔でいて欲しい。幸せでいて欲しい。

ただ、なんの苦痛もなく、幸せに笑っていて欲しい。

あなたに会えるなら、何十年後、天国に行くことも悪くない。しぬことが怖い私だけど、それもきっと人生の通過点だと思える。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?