あの日からの10年ー震災を機にマレーシア移住した我が家の軌跡
共同通信(英語版)の取材を受けて、震災を機にマレーシアへ避難移住したことをお話しました。
あの日のことは1日だって忘れた日は無いけれど、わたし自身は今までどこにも書けなかった。
20,000名が亡くなり、2,500名が未だに行方不明。生き延びた人の中にも、生活の全てを失った人が無数にいる中で、家族が生きているわたしには語る資格は無いように思えてしまって。
そして、日本を後にした私は子どもたちに「世界で生き抜く力」をつけるのに必死で、どうしても後ろを振り返りたく無かった。今はまだ感傷に浸る時じゃ無い、と自分を奮い立たせてきた部分もあります。
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けれども、子どもたちの多言語教育で一定の成果を得て、娘を台湾へ送り出した今なら、少しだけ書くのが許される様な気がして。
また取材を受けながら「もしかすると、わたしと同じように想いに蓋をしてきた方も多いのでは?」と思い至ったのです。
どんなに年月を経ても、語る資格は無いかもしれない。けれど、あの日を振り返って記してみようと思います。あくまでも私個人の考えであり、自分の選択を正当化するものではありません。その点をご理解いただき、読み進めていただければ幸いです。
1. ぐにゃぐにゃに曲がった高層ビル
2011年3月11日(金)14:46、仕事先の丸の内オフィスで激しい揺れを感じる。支えなしには立てないその揺れは、長いこと収まらなかった。携帯電話は全く通じず、公衆電話に1時間並んでようやく夫と連絡が取れた。
フリーランスカメラマンの夫はちょうど自宅に居て、家の中の被害はTVが倒れた程度だという事、9歳の娘は学校で、2歳の息子は保育園で、それぞれ親の迎えを待っている状態と判明。
学校と保育園の迎えを夫に託し、列をなす後の人の為に手短に電話を切る。交通機関はほぼ全停止との情報。オフィスのモニターでは原発の様子が映し出され、これは大変なことになる、と察知。
2. 徒歩帰宅のち家族と再会
自宅の品川まで徒歩での帰宅を決意。ミドルヒールの靴で歩き疲れ、途中で発見した都バスに数区画乗車し、結果遠回りでさらに歩く。
丸の内の高層ビル群は、目で見て明らかにわかるほど斜めにぐにゃぐにゃと線を描いて揺れている。タクシーはあり得ない長蛇の列、幹線道路は、鮨詰めのタクシーやバス、自宅から迎えにきた乗用車で大渋滞。ヘルメットや防災頭巾をかぶりながら歩いて帰宅する人々も。
帰路の途中、雑居ビルの1階でお茶やスナックを振る舞う人がいた。ありがたく頂戴する。トイレが近くなるのを恐れてその後は遠慮したが、何度か同じ光景を見かけた。
計3〜4時間歩き、エレベーターも停止したマンションの階段を12階まで登り、22:00に帰宅。途中で携帯の充電は切れ、子どもたちの安否が不明のままだったので、家族に無事会えた時は例えようのない安堵が湧き上がった。
3. 見えない敵
しかしこの時から、我が家は “見えない敵“ との戦いが始まった。
震災の瞬間から、子どもたちの健康を守るための情報収集を開始。水道水は一切口にせず、汚染された食べ物は徹底して避けてきた。
学校と保育園に掛け合い、牛乳は飲まず水筒持参。給食は献立表の産地で選別し、必要に応じて弁当持参。
それでも、アレルギー持ちの我が子たちは体調を崩し始め、病がループになって続いた。約1ヶ月の間に、溶連菌→手足口病→とびひ→二度目の溶連菌。免疫力が低下して体が戦えないのだ。季節外れの喘息発作も出た。
放射線が原因だと化学的に証明したくて、病院をいくつも回った。けれど、どの医者も「心配しすぎ」と取り合ってくれない。
政府が正確なデータを出しているとは思えず、本能と勘で動くしかなかった。その母親センサーが「これはおかしい」と反応していた。保養が有効という情報を得て、夏休みに安全な場所へ移動することを決意。航空券が一番安価だったクアラルンプールに行き先を定め、サービスアパートメントを予約。
4. 保養で体調が激変
経由地のシンガポールに着いた瞬間から、変化を感じる。出発前には溶連菌の病み上がりでフラフラしていた息子も、元気を取り戻していた。クアラルンプールで数日過ごす間に、目に見えて子どもたちの体調が回復し、政府データへの疑いが確信に変わった。
同行した夫は、KL(クアラルンプール)で数日過ごした後に帰国。滞在は1ヶ月の予定だったので、子煩悩で母乳以外はなんでもこなす夫に頼り切りだった私には、初めての長期ワンオペ体験。不安だれど、やるしかない。
3歳になりたての息子、小3の娘を、東京では控えていた外遊びに連れ出す。南国の暑さより、思う存分外で空気が吸える自由が勝った。日本では控えていたキノコや牛乳、アイスクリームも制限せず食べた。
これ、日本に戻ったらどうなる?自分の性格上、生活や食べ物の制限は、きっと長続きしない。緊張感を保ち続けるのは無理ではないか...。
5. 移住先として調査を始める
KL保養へ出る前、夫に「移住した方が良いのでは?」と提案。けれどその時点では、まだ国内で行き先を探していた。
私の中では、海外移住も頭をよぎっていた。そして、KLで体調がここまで回復した以上、やはり日本には「政府がひた隠しにしている物質が、間違いなく降り注いでいる」としか思えなかった。
マレーシアの自然放射線量が高いのは、事前の調査で知っていた。自然放射線も人体への影響はゼロではない。けれど、やはり人工物とは別物では?じゃなきゃ、KLで体調回復した理由が分からない。
せっかくKLに来たのだから、学校もついでに見ていこう、とKLの日本人エージェントに複数校を案内してもらう。なるほど、インターナショナルスクールってこういう感じなのね。旅行先で英語を使うのは、娘に時々トライさせてたし、高校生くらいから留学させたいと漠然と考てたから、いいかも。なんて思い始める。
6. 保養を終え、50kgの米と共に帰国
そんなこんなで、1ヶ月のKL滞在は期せずして「母子移住トライアル」になった。不安だったワンオペ育児も、意外とイケるねと自信がつく。バックパッカー旅で長年鍛えた勘と行動力は、母親になってからも生かされていると知る。
日本では食べ物がとにかく不安だったので、主食の米をKLで買って帰ることにした。エアアジアの制限ギリギリまで、50kg分の米をスーツケースに詰め込んだ。(お米のために、人生初めてのスーツケース購入となった!)
空港までのタクシー運転手には「重い!中に何が入ってるの?」と怪訝な顔をされ、チェックインカウンターでは「トータル重量はOKだけど、1個あたりの制限を超えているからカバンを分けるように」と言われ、空港内を走ってカバンを複数購入。(その中の1つは、息子の通学用バックパックとしていまだに活躍中)
50kgの米をマレーシアから持ち帰る女...もう、執念としか言いようがない。この時の私は、何がなんでも子どもたちの健康を守る、と命がけだったのだ。なぜなら、子どもたちは機能不全家族で育った私のインターチャイルドを癒し、私の心を救ってくれたから。なんとしても守らねばならなかった。
7. 移住リミットを決める
日本へ帰国すると、子どもたちの体調が再び悪化。発熱、鼻血、喘息、アトピー。
情勢を調べるにつけて海外移住への必要性が感じられた。国内の南方も候補だったけれど、汚染食品が運ばれて給食に使われていると知り、国内では逃げきれないと思った。
家族全員での海外移住を提案した。二人で働けばなんとかなる、私がなんとかする、と夫を説得。けれど夫は「全員で移住して、家族を路頭に迷わすことはできない」と日本残留をほのめかす。
渋る私に「後から追いかけるから」「政府が変わるのを待っていては間に合わない、子どもたちの体調が心配だ」と。
その時は、夫が決意してくれない事に憤りを覚えた。けれど後になって、これは家族を守る夫の精一杯の愛情だと気づいた。移住後に、夫に反対されて離婚して海外移住した人の話も聞いたから。
すぐにでも移住したかったが、諸々の準備に時間がかかった。けれどリミットを「震災から1年」の2012年3月に定め、準備を始めた。お金も貯めた。
8. 世界中をリサーチ
KLの学校をいくつか見たけれど、当時ピンとくる学校がなかった。見学した学校が、別エリアにブランチを持っている事を知る。そして、「ペナン」という、かつてクイズ番組の懸賞で名前を馳せた島が、どうも物価も安く暮らしやすそう、とアンテナが動く。
ただ、他国の可能性も捨てきれなかった。ご多聞にもれず、AUS・NZ・カナダなどの英語ネイティブ国も含め、世界中を調査。けれど、夫が日本に残る以上、距離や時差、フライトの金額などを考慮し、最終的にマレーシア・ペナンに落ち着いた。
そして目標のリミット1年以内である、2012年3月にペナンへ母子移住。それ以降は、他の記事でも書いている通りです。
9. ポジティブな目標を持ちたかった
移住する時に決めていたのは「ネガティブな理由を引きずらない」という事。
ペナン移住は子どもたちの健康被害を懸念しての事だけれど、後ろ向きな理由では長続きしないと思ったし、どうせ行くなら「子どもたちに世界のどこでも生き抜く力をつける」と大きく目標を定め、多言語教育に取り組んできました。
言語というツールを活かして「どこでどんな風に生きるか」を模索すべく、近隣国への旅を通して経験値を上げ、思考力・好奇心・自主性UPを心がけた9年間でした。
この実経験を次世代へ伝えるため、留学・移住希望者へのサポート業務を行なっています。
さいごに
震災から10年を経て、我が家は「日本・マレーシア・台湾」と家族が3拠点に離れて暮らしています。
「母子移住はいびつな家族のカタチ」
と、面と向かって言われることもあり、ある意味その通りだなとも思います。夫を残してきた罪悪感は消えないし、子どもの健康を守るために親族とも引き離してしまった事は、心から申し訳なく思っています。
「健康被害」の面からは、ペナン移住が正解だったか不正解だったかわかりません。放射線による健康被害は人によっては全く出ておらず、日本に住みつづけても問題なかったかもしれません。けれど原発事故直後の体調不良は回復し、子どもたちはペナンで健やかに育つ事ができました。
そして「子どもたちの可能性を広げる」という意味では、移住して正解だったと言えます。語学を習得し、自ら考える力をつけた彼らは、世界のどこでも生きていけると確信しているからです。
大切な親族や友人たちが住んでいる日本は、私にとっても子どもたちにとっても、大切な祖国。ただ、私はどうしても、日本政府に子どもたちの将来を委ねることができなかった、それだけなのです。
正解は人それぞれで、それぞれが正しいと思う道を進む。まさに「津波てんでんこ」(津波の時は、各自で逃げる)、日本に住む方々を咎めたり、不愉快にさせる記事ではない事を主張させてください。
震災を機にこんな選択をした家族もいる。そして、それは我が家だけではなく、世界中にディアスポラした日本人も少なくはないことをお伝えして、この記事を終えたいと思います。
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