見出し画像

30年越しの弱音(1.17に思いを馳せて)

その日が1.17だったと
その日の
夕方に気づいた。

もう30年経っていた。

神戸から離れて
もう20年経った。

それでも私の心は
神戸にある。

ーー

あの日

大きな揺れで目を覚まし
大きな本棚が嘘みたいに揺れ
大きな声で母を呼んだ。

父はいなかった。

単身赴任中で
前日に東京に戻ったばかり。

なので
母と兄と自分
三人しかいない。

電気がつかない
水が出ない。

当時はPCも
スマホもなかった。

何かすごく
恐ろしいことが起きている。

10歳の自分でも感じた
異様さ。

家の窓から見えた
遠くの空が
オレンジ色に染まっている。

朝焼けじゃない
異様なオレンジ。

後から理由は知ったが
あの瞬間はわからない。

情報がない。

母はラジオをつけ
ずっと流した。

ラジオから流れる情報で
死者の数ばかりが耳に残る。

どんどん増える
死者の数。

余震もある。

この死者の数に
いつ
自分たちは含まれてしまうのか。

思わず口にした言葉に
母は「大丈夫」と
自信なさげに応えた。

父がいない中で
この窮地から
子供を守らなければいけない。

不安でたまらなかっただろう。


そんななか
なぜか
兄は呑気だった。


生徒に被害がないか
中学校の先生が
見回りをしていた。

その先生を捕まえて
「今日体育あるん?」
と聞いた。

聞かれた先生は
「それどころじゃないだろう!!!!」


そらそうだ。

家や学校が
たくさん壊れている中で
なぜ
体育の有無が気になる?


呑気にも程がある。。

そんな兄が
今や教頭をしているんだから
30年という年月は、本当に長い。

話は戻るが。

父は
東京に戻ったばかりだったが
ニュースを見て
すぐに
神戸に戻ろうとするも
神戸までたどり着く
交通手段がない。

それでも
諦めなかった父は
少しでも
神戸に近づければと
東京から西に向かった。

電車とバスを使い
近づけるだけ
近づいて

最後の最後は
歩いてでも
進もうとしていた道中で

道端で7万で売っていた
折りたたみ自転車を買い

何時間もかけて
折りたたみ自転車を
必死にこいだ。

地震の甚大な被害を
横目で見ながら
我が家まで
帰ってきてくれた。

こんな地震が起きているのに
我が家にはお父さんがいない。

そう思っていたのに、
父が帰ってきた。

大変だった
と言っていた
自転車高くてぼったくりや
と怒っていた。


それでも
そんなに大変なことでもないように
話していたことを
なんとなくだけど、覚えてる。


思い起こせば
父はいつもそうだった。

サラリーマンで
営業マンで
今の自分だったら
そんなに頑張れないな、と
そう思うぐらいに。

家族のために
必死に頑張ってくれていた。

ただ、いつも
そんなに大変なことでもないように
話していたけれど。


父は苦労人だなと思う。

健康面に恵まれず、

多くのケガと
病気をして


障害者になった。

失明し
光を奪われ
腰椎骨折による後遺症で
行動の自由が奪われ
脳機能障害で
記憶力が奪われた。


その中でも
失明したのは
本人は
相当
ショックだったようで
先生から告げられてから
毎日のように
泣き続けた。


弱音を吐かず
泣き顔など見たことない。

そんな父が、毎日泣いた。


記憶力は奪われたが
不思議なもので
過去のことは覚えている。


増えない
新しい記憶の代わりに。

長年一緒にいた
家族ですら
今まで聞いたこともない
過去の記憶を語りだす。

小学生時代は
途中で引越しして
小学校まで遠かったから
ヒッチハイクして通った。

そんなの聞いたことない。

家庭が貧乏で
大学には、兄しか
行かせてもらえず。

自分は、学費を貯めながら
専門学校に行き、就職。

比較的大手だったので
周りは大卒ばかりだったが
必死に頑張った。

結局
健康面のせいで
キャリアとしては
そこまで上り詰めることは
叶わなかったかもしれないが。

それでも
色々な健康リスクを
いくつも抱えながら
なんとか65歳まで勤めあげた。

すごいと思う
偉すぎると思う
家族のために身を粉にして
本当によく頑張った。

それにも関わらず、
引退後、5年も経たずに
障害者になった。

堰を切ったように
色んなことが起こり
あっという間に
障害者になった。

家族はもちろんだが
本人も、気持ちがついていかない。

今までなんとか、
無理やりにでも保っていたものが
崩れてしまったようで、
父は些細なことで
すぐに泣くようになった。

去年の夏、
子も連れず一人で帰省した時に、
一人では歩けない父を連れ、
公園に行った。

動けない足をなんとか動かして
5分で着く公園に30分かけていった
ベンチに座って、
「この公園にもかつては仮設住宅があったね」
と、かつて自分が遊んでいた時とは
比べ物にならない綺麗な遊具たちをみて
地震の時に思いを馳せた。

その時、
弱っているお父さんに
少しでも喜んで欲しくて
「お父さん、地震の時、
交通手段とか止まっていたのに
自転車で頑張って、帰って来てくれたよね」
「あの時は本当にお父さん頑張ったし、
帰って来てくれて私も嬉しかった」と言ったら

父が泣き出した。

「そうやな、大変やったけど、
必死になって、なんとか家に帰って来たよな、
そうやな、お父さん頑張ったよな」
って言いながら、泣き続けた。

地震の時、
7万なんて値段が嘘みたいな
安っぽい小さな折りたたみ自転車で
家に帰って来たあの時は
何でもないような顔をしてたけど、

そうだよね
大変だったよね。

今まで色んなことを
耐えてきた父。

その父が
今、弱々しく
泣いてる姿を見ると
切なくて、悔しくて
私も涙が出た。


30年越しの
父の弱い本音を聞いて

30年という年月の間に
どれだけ人生が変わったのか

時の重さに
父は、今
押し潰されそうになっている。

今度は
私たちの番。

父があの時
東京から駆けつけてくれたように

今度は私が
東京から駆けつけよう。


そう思った去年の夏の日のことを
ニュースの【阪神淡路大震災から30年】
という見出しを見て
改めて思い出した。

いいなと思ったら応援しよう!

まーさん@notシゴデキ、but人事マネ🤣悩みや失敗も笑いに変えて成長中ワーママ
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはより良い記事をみなさんに届けるための活動費に使わせていただきます!