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萬衛門のうんちくノート

人間はいつから家畜を飼い始めたか。

 家畜とは、人間が生活に利用するために、飼いならし、改良した野生動物のことである。人間が家畜を飼い始めたとき、それは文明へふみだす大きな一歩となった。家畜は人にために力仕事をし、その肉は食用となったため、人間は狩りだけにたよらずにすむようになった。そして人は決まった場所に住居をつくり、財産をたくわえ、新しい型の社会がつくられた。 これがいつはじまったかは、はっきりとはわかっていない。紀元前のことである。しかし最初の家畜は犬だと考えられている。ついで牛、ヒツジ、ヤギ、ブタなどが飼われた。荷物を負うラクダやヤクもふくめて、これらはみな、まず中央アジアで飼われ、それがヨーロッパに伝えられたのだろう。 最初のころ家畜は、まず食用にされた。ただ犬は例外で、人の狩りの手伝いをしたといわれている。牛やヒツジ、ヤギ、ブタは肉か乳、あるいは両方を人に供給した。やがて鳥も飼われるようになった。家禽のうちではニワトリがもっとも早く、ついでアヒル、ガチョウがつづいた。アヒルやガチョウは古代エジプトにたくさんいたことがわかっている。また、ハトは肉を食べるだけでなく、聖書の時代ごろからは、伝書バトとして使者に使われていた。 荷物をはこぶための家畜が飼われるようになったのは、牛やヒツジよりもあとだった。この種の家畜では、ロバとラクダが最初らしい。馬が飼われたのはもっとあとだった。 ゾウもずいぶんむかしから飼いならされて、力仕事に使われていた。またネコも古代エジプトでたくさん飼われていた。これはおそらくペットとして飼われていたようだ。


猫はなぜネコという名前で呼ばれるようになったのか。

 猫の名前の由来については、いくつかの説がある。が、ネコのもともとの呼び名が「ネコマ」であることは、確かなようだ。一般的な説は、「ネコマ」の「ネコ」は「寝子」(よく寝るものという意味)で、「マ」は「好む」の「ム」であるというものだ。つまり、ネコマとは「寝ることを好むもの」という意味であるという説である。 また、ネコマは「寝高麗(ネコマ)」で、高麗(古代韓国)から渡来した動物で、よく寝るから「ネコマ」と言う名になったという説もある。 その他、ネコの「ネ」は「ネズミ」の「ネ」で、ネコはネズミを待ち伏せするから「鼠子待(ネコマチ)」と言い、それが「ネコマ」になったという説もある。 そして、「ネコマ」の「マ」が次第に発音されなくなって、「ネコ」となったということである。 古くはネコのことを、強い獣である熊の名を借りて「クマ」と呼んでいたという説もある。「クマ」が「コマ」となり、よく寝るので「ネコマ」となり、最後に「ネコ」となったという解釈もある。 ネコは、ヨーロッパでは魔物として取り扱われ、特に黒ネコは忌み嫌われていた。日本では、猫に関する諺として「猫に小判」「猫ばばをきめこむ」「猫をかぶる」などがあるが、やはり猫にあまりよいイメージはないようである。


犬はなぜイヌという名前で呼ばれるようになったのか。

 犬の名前の由来についてもいろいろな説があって、どれが正しいのかよく分かっていない。 犬の漢音の「ケン」は、犬の鳴き声「ケンケン」から来ていると言われている。和名の「イヌ」も、同じように犬の鳴き声「ワンワン」に由来し、「ワン」が「ワヌ」になり「イヌ」になったとする説がある。 また、イヌは「居ぬる」の意味で、犬というのは主人になついてはなれないもので、他でえさを与えてももとの主人の所へ「居ぬる」ものだという説もある。 それ以外では、イヌという言葉は「行きぬる」から来たもので、
「もののけが立ち去る」という意味があるのではないかという説がある。イヌは、あやしい人が近づくと吠えたてて追い払うのにも役立つので、魔除けとして扱われていたようである。たとえば、幼児の額に「犬」の字を書いたり、幼児のそばに犬箱、犬張子などを置いたりして魔除けとする風習があるからだ。 犬は昔から人間とは密接な関係にあったが、犬という言葉はあまりよい意味には用いられていない。英語では「犬(dog)」は「神
(god)」を逆さにつづった言葉であるためか、犬は「悪者」とか「やくざ者」という意味に用いられることもある。日本でも、「犬奴(いぬめ)」という言葉は人をいやしめていう時に用いられている。


盲導犬はどのように訓練されるのか。

 盲導犬は、目の不自由な人の目の役割をし、主人が働いたり、暮らしたり、出歩いたりするのを手助けするため、いろいろな訓練を受ける。 犬にこのような役目ができるように訓練するには、時間も長くかかり、こまかい注意も必要で、また、どんな犬でもなれるわけではないので、一匹の盲導犬が生まれるまでにはたいへんな苦労がある。 盲導犬は、ドイツ・シェパードやラブラドール・レトリバーがなることが多く、訓練には約三か月かかる。まず、こい、すわれ、立てなどの命令に従う訓練をする。これは基礎訓練として毎日くりかえされる。つぎに、盲人を案内するためのU字形の皮ひもをつける。犬は訓練する教官の左側、半歩ほど前を歩き、主人が障害物にぶつからないように案内することを学ぶ。そして、往来に注意して、車が近よってきたら止まって前を通らせる。たとえ主人が命令しても走っている車の前には決して歩き出さないようにする。じっさいに、目かくしした教官とともに往来のはげしいところを歩き、最後のチェックを終えた盲導犬が、盲人の主人にわたされる。それから両者はいっしょに四週間の訓練を受ける。毎日主人は犬に命令し、犬はその命令を実行する。うまくいったら、主人はそのたびに犬をほめてやる。つぎに、主人が皮ひもをもち、いっしょにあたりを歩く。こうして両方が相手の歩き方や、信号の送り方になれていく。そしていよいよ主人と犬は、外に出て往来を歩いてみる。はじめは教官があとからついていき、ようすを見守る。 こうして人と犬との意気がぴったりと合い、一体となって動けるようになると、主人は犬をつれて帰り、新しい生活がはじまる。 


一番古い世界地図は、 どんなものですか。

 地図は、大昔の人びとが狩りをするために、丘の上から見た風景を砂の上にかいたりしたことから、使われはじめたようである。最初の都市ができた約5500年前ごろの遺跡からは、昔の町や畑の地図が見つかっている。そして人々が遠くへ出かけたりして、生活の場がだんだんと広がるにつれ、地図も発達してきた。地図は線や記号でかかれてわかりやすいので、文字が広く使われる前に、いろいろな地方で使われていた。 現在残っているもので最も古い世界地図は、バビロニアの地図である。この地図は、古い記録によると紀元前600年ごろ作られたとされている。 チグリス川とユーフラテス川の周辺は、土地が肥えて農業や牧畜が発達し、世界最古の文明の一つであるメソポタミア文明が生まれた。バニロニアは、約3800年前ごろこの地方を統一した王国だ。 バビロニアの世界地図は粘土板に刻まれたもので、バビロン(今のイラクの首都バグダットの南)を中心にして栄えた古代国家をあらわしている。この地図には、バビロンを中心にして、チグリス川・ユーフラテス川やペルシャ湾、いくつかの都市国家などがえがかれ、その外側に海や山がえがかれている。 バビロニア人は、バビロンが世界の中心で、平らな大地が四方に広がっていると考えていた。そして大地の果てには、深い海をへだててアララットという高い山々がそびえて、空の丸い天井を支えていると考えていたのである。


「うるう秒」とは、どんなものですか。

 「うるう年」は、太陽暦と実際の地球の公転周期との誤差を調整するために、ほぼ四年に一回、一年を三六六日にする制度である。 これと似た「うるう秒」は、一九七二年に作られた、まだ比較的新しい制度である。それまでは、地球の自転の動きは正確で、それをもとにして決めた時間や時刻には誤差は生じないと考えられてきたが、最近になって原子時計が使われはじめ、わずかな誤差が生じるようになった。 原子時計は、原子や分子が放出したり吸収したりする電磁波が一定の周波数を持つということを利用した時計である。「うるう秒」は、原子時計ではかった時間と地球の自転をもとにして決めた時刻との間に生じたわずかなずれをなくすために、一秒単位で秒を調整する制度として作られた。 うるう秒には、二三時五九分五九秒の次に一秒追加して、「五九分六〇秒」を入れる場合と、逆に五九分五九秒を取り除いてしまう場合とがある。うるう秒をどう実施するかは、国際時報局が決めることになっている。実施の時期は、一月一日または七月一日の世界時0時の直前が第一優先となっている。第二優先は、四月一日か十月一日で、必要ならどの月の一日でもよいとなっている。うるう秒の制度ができた一九七二年以降、ほぼ毎年一回ずつ調整が行われている。


血液型は、どのように分類されるのですか。

 昔は、人の血液はみな同じであると信じて疑わなかった。けがや病気で大量の血液が体から失われた時には、特に何も調べずに輸血を行っていた。ところがこのようにして輸血をしていると、患者のうちの半分近くが容態がかえって悪化し、死んでしまう場合も多くあった。そこで、血液についての研究が始まり、血液にはいろいろな型があることが発見されたのである。
 人間の血液は、赤血球の型により、A型、B型、O型、AB型の4つの型に分けられる。(この方式を、ABO式という)。
 ある血液型の血液に、それと合わない血液型の血液を混ぜると、入れたほうの血液の血球がくっついて固まりになる「凝結」という現象が起こる。細い血管の中で凝結が起こると、血液の流れがとまってしまうので、輸血の際には、できるだけ同じ血液型の血液を輸血することになった。同じ血液型以外では、O型から他の全部の型への輸血と、A型およびB型からAB型への輸血が可能である。
 血液型にはこのABO式の他、RH式もある。RH式では、RH(+)とRH(-)型の2種類に分ける。
 血液型は遺伝によって受けつぎ、一生変化しない。日本人の場合、ABO式では、A型が一番多く約4割、O型が次に多く約3割、その次がB型で2割、一番少ないのがAB型の約1割である。RH式では、日本人の99 5パーセントまでがRH(+)型である。


大きな音がするおならは臭くないというのは、本当ですか。

おならは、食べ物と一緒に飲み込んだ空気や、食べ物を消化する時にできたガスが、肛門から出たものである。 おならのガスの成分には、いろいろなものがある。空気や、二酸化炭素、メタンなどは、臭くはない。臭いにおいがする成分は、スカトール、インドール、メルカプタンなどのような窒素やイオウを含んだ物質である。 おならの成分は、どんな食べ物を食べたかによって違ってくる。炭水化物を中心とする食べ物を食べた場合には、メタンや二酸化炭素を主成分とするおならがたくさん出る。一方、タンパク質を主にした食べ物を食べた場合には、窒素やイオウを含んだ臭いおならが出るのである。 大きな音がするおならというのは、出るガスの量が多い場合である。ある程度まとまったガスが突出する時に、大きな音が出やすい。たくさんガスが出るのは、タンパク質よりも炭水化物の食べ物のほうである。特に、サツマイモのように食物繊維の多いデンプン質の食べ物を食べると、たくさんのガスが出て大きな音がするおならが出る。 ところが、炭水化物を食べた場合のおならは、前述のようにメタンや二酸化炭素を主とするガスなので、臭くない。したがって、「大きな音がするおならは臭くない」というのは、本当である。一方、肉や魚などのタンパク質を食べた時のおならは、ガスが少ないので音はしにくいが、臭いにおいがするということになる。


馬はなぜウマという名前で呼ばれるようになったのか。

 ウマの語源についても、いろいろな説がある。が、ウマの古語が「マ」であることは、まず間違いないようだ。ウマの「ウ」は発語であって意味はないものと思われる。これは、ウメの古語が「メ」
(「ミ(実)」のこと)で、「ウ」は発語で意味はないとするのと同じ考え方だ。 「マ(馬)」は古くからあった大和言葉である。上古の時代から日本では小形のウマが知られていたが、古墳時代になると大陸から大形のウマが渡来した。そこで、これを「大馬(オホマ)」と呼び、それが「ウマ」になったのだという説もある。 またウマは、人の使うものという意味で「ウツマ」とよんだものが「ウマ」になったのだという説もある。人の使うものはみな「ウツ」とよんだらしい。 馬に関する言葉で「馬耳東風」というのがある。人の意見や教えを聞き流して何とも思わぬというたとえであるが、あたかも馬の耳を東風が吹きすぎるようなものであるという意味である。
「馬の耳に念仏」も同じような言葉だ。 英語では、「ウマを水の所まで連れて行けても、水を飲ませることはできない」という諺がある。これは、「自分でする気のない人は、周囲からどうすることもできない」という意味である。


馬はどんな動物の子孫か。

 今日地球に住んでいる動物の多くは、自分よりも大きな先祖をもっていた。しかし、馬は逆に今の姿よりも小さい動物から進化したらしい。 馬の最も古い祖先は、ネコくらいの大きさで、およそ五千万年前に住んでいた。それはエオヒップスとよばれ、前足に四本、後ろ足に三本の指があった。 その後エオヒップスの子孫はだんだん大きくなり、足の指はまんなかの一本だけを地につけるようになった。ほかの指はしだいに小さくなり、歩くための一本指が発達して、馬は速く走れるようになった。今の馬のひづめは、この指のつめが大きくなったものである。歴史時代がはじまる前に、馬はアジア、北アフリカ、ヨーロッパ、北アメリカにたくさんいた。しかしアメリカにいた馬は、今から何千年も昔にすっかりほろびてしまい、今アメリカにいるのは、後になってヨーロッパ人がもちこんだものの子孫である。 現在の馬はほとんど家畜化された馬だが、モンゴルと、中国領トルキスタンで、野性の馬が生き残っているのがみつかった。これは一八七〇年代にプルジェワルスキーが発見したので、プルジェワルスキー馬とよばれる。そしてこの馬が、今日の馬の直接の先祖だろうと考えられている。 馬が家畜化されたのは、約五千年前といわれている。それ以来馬は人間の生活に欠かせないものになった。農業などの労働や荷物を乗せて運んだり、人の乗り物として長く使われてきたが、車や機械が発明され、いまではおもに、スポーツや競馬、食肉用として、飼育されている。


油やアルコールは冷やすとどうなりますか。

 水は冷やしていくと0℃で氷という固体になり、熱くすると一〇〇℃で沸騰し、水蒸気という気体になる。これを「氷点」と「沸点」という。 水以外の液体ではどうだろうか。身のまわりにある液体ではジュース、コーヒー、牛乳などいろいろあるが、しかしその主成分はほとんど水である。一〇〇%果汁でも科学的に分析すると、やはり水が大半を占めている。水に別のものが溶け込んだ液体を溶液というが、水にものを溶かすと氷点は下がり、沸点は上がる。前者を氷点降下といい、後者を沸点上昇という。このため溶液は普通の水と比べて、液体である温度領域が広くなるのである。 油やアルコールではどうなるのか。これらは物質的に水とはまったく違ったものである。 アルコールについては、メタノールが融点(個体が液体になる温度)がマイナス九八℃、沸点六五℃、エタノールはそれぞれマイナス一一四℃、七八℃である。エタノールは酒類に含まれる代表的なアルコールで、昔はその融点の低いことから温度計の膨張液に用いられた。 油はその種類が多種多様であるが、はっきり分離したものでは、融点と沸点はアセトンでマイナス九五℃、五七℃、トルエンはマイナス九五℃、一一一℃、プロパンはマイナス一八八℃、マイナス四二℃である。プロパンは油の一種であるが圧力をかけなければ気体である。油もアルコールも気体となって燃えるということはあるが、これらが純粋に固形のまま(固形アルコールは他物質との混合)ということはあまりない。


列車の模型を映画に登場させた時、それがなぜ模型とわかってしまうのですか。

 現代の映画やテレビの撮影技術は大変発達しているが、模型を使っての撮影はそれが模型だとよくわかってしまう場合がある。 街などの模型をつくる場合、すべてを同じ割合で縮めれば、理屈のうえでは本物そっくりになり、この方法で成功している映画もあるが、列車や自動車のように動くものが入るとむずかしくなる。 なぜなら、列車の一車両がある場所を通過するための時間は決まっているので、これと同じ感じを出すためには、ものの速さも縮尺と同じように縮めなければならない。実際に電池で動く模型は、相対的に速すぎることが多い。 また、たとえば十分の一に縮めた模型は、面積が百分の一、体積は千分に一になる。同じ材質で、十分の一の車両や自動車などを作ったとき、その重さは本物の千分の一になっているわけで、動く列車の速さをゆっくりさせて、本物らしくしようとしても、どうしても重量感がでないことになる。 それから、重力にしたがって落下する場合、どんなものでも落下速度の速くなる割合(これを加速度という)を変えることはできない。このため模型では簡単に落下してしまうため、高速度撮影にして、火薬が爆発するときなどは、木片などがゆっくり飛び上がり、ゆっくり落ちるように見せたりする。 また、液体を使って現実味を出す場合には、非常に粘性の強いものを使って、海の場面などで波がゆっくりうねる感じをだしたりもする。


地球の大きさは、いつごろ誰が、はじめてはかったのですか。

 紀元前二00年頃に、ギリシア人のエラトステネス(紀元前二七五年頃〜紀元前一九四年頃)が、はじめて地球の大きさをはかったのである。 エラトステネスは、エジプトのアレキサンドリアで図書館長をしていた。エラトステネスが地球の大きさをはかろうと考えたのは、シエネ(現在のアスワン:北緯二十三・五度)の井戸の話を聞いたことをがきっかけだった。 シエネの町にある深い井戸の水面には、毎年夏至の日の正午だけ、太陽の姿がうつるという。アレキサンドリアでは同じ時刻には太陽が傾いているのに、シエネでは太陽が頭の真上にあるのである。エラトステネスは、二つの場所が地球の丸い表面にあるためにこのような違いがおこるのだと考えた。 エラトステネスは、太陽の傾きの大きさから、アレキサンドリアとシエネの間の距離が、地球一周の五十分の一の長さであると考えた。二つの場所の距離は、ラクダの隊商のかかった時間から考えると八九十キロメートルになる。これを五十倍して、地球一周は約四万四五00キロメートルというのが、彼の結論だった。 現在知られている地球の一周の長さは、約四万キロメートルである。これと比べてみても、エラトステネスの観測がいかに正確なものであったかに驚かされる。


アトランティス大陸はどこにあったのですか。

 アトランティス大陸とは、紀元前四世紀ごろのギリシャの哲学者プラトンが書いた本の中に出てくる伝説の大陸の事である。
 今から一万二千年以上も前、現在のアメリカ大陸とアフリカ大陸の間、大西洋上に巨大な大陸があった。
 この大陸にはいろいろな香料や果物があり、金や銀が出て、たくさんの人や動物が住む、「地上の楽園」といわれていた。
 また、海の神ポセイドンの神殿を中心にして広がる町には、王の住む都があった。この王はポセイドンの子で、名前をアトラスといった。そのため「アトラスの島」という意味でアトランティスとよばれているのである。
しかし、ある日、突然の大地震と大洪水が起こり、この大陸は一夜にして海に沈んでしまった。これが「失われた大陸」アトレンティスの伝説である。
 この大陸は本当にあったのか、プラトンはその本の中で、「この話はエジプトの神官ソロンから聞いた話をもとにしている」とことわっているが、プラトンのつくり話だと考える人もいる。
 しかし、本当にあったと考える人はいろいろな場所をあげている。ヘリゴランドのバシレイア島、大西洋の旧大陸、エーゲ海のテラ(サントーニ)島、クレタ島などである。その他いろいろな説があり、この伝説については学者たちの間でも論争がたえない。
 最近では、このアトランティス大陸が、存在したことを証明できるという学説もでてきているが、本当のところはまだ謎のままである。


ダーウィンは、「進化論」をどのようにして考えたのですか。

 チャールズ・ダーウィンは一八〇九年イギリスに生まれた。一八三一年二十二才の時に、イギリスの軍艦「ビーグル号」に乗り込んで世界一周の旅に出た。博物学者だったダーウィンは、世界各地の虫・鉱物・動物・植物・地質などを観察し、記録に残した。そしてその中で、ガラパゴス諸島での動物の観察が、ダーウィンが「進化論」を考え出すきっかけになったのである。 ガラパゴス諸島は、太平洋の赤道直下に浮かぶ二十近い島々で、ここには珍しい動物がたくさんいて、ダーウィンを驚かせた。ガラパゴス諸島の動物は、陸ガメも鳥もイグアナもみな、南米大陸のものとは違っていて、さらに、同じガラパゴス諸島の中でも島ごとに少しずつ違った姿・形をしていたのである。 たとえば、百年以上も生きて、重さが三百キログラムもある「ゾウガメ」は、ガラパゴス諸島では島ごとに甲らの形が違っている。海にもぐって海草を食べる「ウミイグアナ」は、島ごとに色が違う。
「ガラパゴスペンギン」や「ガラパゴスアシカ」は、寒いところに住むペンギンやアシカの、この島独特な種類のものである。 ダーウィンはこれらの動物たちを見て「なぜ姿が変わったのだろうか」と考え続けた。そして得た結論が、ガラパゴス諸島の動物の祖先がここに流れ着き、環境に合ったものだけが生きのびた結果、体形がかわっていったのではないかということであった。 これが有名なダーウィンの「進化論」で、この考え方は、現代科学の重要な基本になっている。 


体重が五十キログラムの人が、三百グラムのごはんを食べると、体重は五0・三キログラムになるのだろうか。 

三百グラムのごはんを「食べる」のではなくて、ごはんを「持って」体重を測るのであれば、必ず体重はごはんの重さだけふえて、五0・三キログラムになる。しかし、「食べる」という場合にはそうではない。 人間は生きている間、常にエネルギーを消費している。じっとして運動しないでいても、体温を保つために栄養分を消費し、体重を減らしているのである。ごはんを食べている間も、例外ではない。 ごはんを食べた後は、ごはんの分だけ体重がふえ、ごはんを食べるのにかかった時間のあいだに消費されたエネルギーの分だけ体重が減っていることになる。 たとえば、三百グラムのごはんをたべるのに十分かかったとすると、その間に体重五十キロの人が消費するエネルギーは、約一二・二キロカロリーで、それを炭水化物の消費量に換算すると約三グラムになる。 したがって、ごはんを食べた後の体重は、五十キロに三百グラムをたして、三グラムをひいた五0・二九七キログラムになるはずである。


狐はなぜキツネという名前で呼ばれるようになったのか。

 狐は、しょっちゅう瓜畑などをあらわすからか、漢字ではけものへんに瓜とかいて「狐(キツネ)」と読む。その一方で、キツネは稲荷の神の使いとして尊ばれていたこともあって、オオカミやタヌキなどに比べると一段と格の高いものとして取り扱われていた向きもある。
 キツネの呼び名の由来については、鳴き声にもとづく名であるという説が一般的である。キツネの本名は「キツ」または「クツ」で、これはキツネの鳴き声をあらわしたもののようである。キツネの鳴き声の古い記録をみると、「キツキツ」と鳴くとか「クツクツ」と鳴くとかいうのが多いからだ。(キツネの鳴き声には、他に「コウコウ」や「クワイクワイ」などというものもあり、江戸時代の記録では「コンコン」に統一されている。)
 キツネの「ネ」は、意味がなく単にそえたものであると言われている。しかし、「ネ」は尊称で、キツネは稲荷神の使いだから尊称の「ネ」の字を加えたという説もある。
 これら以外にも、キツネの名前の由来についてはいろいろな説がある。キツネは毛皮の色が黄色く、好んで人家近くに来て寝ているので、「黄つ猫(キツネ)」ではないかという説もある。また、キツネの「キ」は「臭」で、「ツ」は助詞、「ネ」は「イヌ」が転じたもので、キツネとは「臭いイヌ」だと言う説もある。


哺乳類とか何か。

 人やサル、イヌやネコ、ゾウやコウモリ、クジラやウマなど、これらはすべてけものの仲間である。動物の分類上、けもののことを哺乳類という。 哺乳類は約二億年前からいたことがわかっている。恐竜が栄えていたころは、体も小さく夜行性のものがほとんどだった。恐竜が滅んだ後、めざましく種類がふえ、地球の環境にあわせて姿を変えていったのである。 哺乳類の特徴は、まず子どもが雌の乳線から出る乳によって養われるということだ。ほとんどの哺乳類では、子どもは鳥のように卵で生まれてそれからかえるのではなく、親とよく似た形で生まれ、母親のお乳を飲んで大きくなる。これを胎生といい、哺乳類だけのふえ方である。 哺乳類のもう一つの特徴は、体の全面または一部に毛がはえていることだ。また温血動物で、四部屋をもつ心臓と、一つの横隔膜をもっている。 哺乳類をもっとこまかい種類、つまり目に分けると、そのうち一番下等なのは単孔目で、カモノハシのように、けものでありながら卵を生む。次は有袋目で、カンガルーのように袋をもったけものである。そしてアリクイのような歯の貧弱な貧歯目、海に住むクジラ目、ウマやウシのようにひづめをもつ有蹄目がくる。 食肉目は、ライオンやイヌなど肉を食べるけものである。げっ歯目はウサギやネズミのように、ものをかじるけもののことをいい、食虫目は、モグラのように虫を食べるけもののことである。 一番高等なのが霊長目で、サルや人間がこれに属する。


新しいエネルギーにはどんなものがありますか。

 現代文明は石油の上に成り立っているが、このまま使い続けていれば、いつかはなくなってしまう。その時のために、新しいエネルギー源をみつけておかなければならない。 まず、考えられるのは「原子力」である。原子力発電は、核分裂という原子のエネルギーを利用して発電するもので、少ない燃料で膨大なエネルギーを生み出すことができる。しかし、燃料を燃やした後にできる灰は非常に有害でそれをどう処理するかという大きな問題がある。 燃やした後の灰の問題のない、もうひとつの原子エネルギーとして注目されているのが「核融合」である。太陽は膨大な圧力と超高熱を持ち、途方もないエネルギーを放出しつづけている。これは核融合という反応によるもので、これを人間の手で作り出そうというのが核融合炉である。つまり小型の太陽を作って操作しようというものだが、これは実現までにはかなりの時間が必要だと考えられている。 核融合よりも早く実現しそうなのが「燃料電池」である。水の中に電流を流すと電気分解によって、水素と酸素が発生する。燃料電池は、この反応を逆転させて、水素と酸素を結合させて、電気を取り出そうというものである。この方式では、科学反応で直接電気を取り出すので、エネルギーの損失が少なくてすむ。また、二百度ぐらいの熱を発生するので、その熱をいろいろなところに利用でき、有害物質や排気ガスがなく、騒音、振動も起きない。 現在、通産省の工業技術院ではこの「燃料電池」の開発が進められている。また、電力会社やガス会社でも研究に力を入れている。


巨大なオベリスクをどうやって建てたのでしょうか。

 古代エジプトの巨大な建造物にはピラミッド、スフィンクス、そしてオベリスクがある。 オベリスクは縦に長い塔で、今はパリのコンコルド広場に運ばれて、ここに建っている。しかし古代エジプトにあった頃、クレーンなども無い時代にはどうやって建てたのか、というよりもどうやってこの長い石材の塔を縦にしたのだろうか。 オリベスクは一つの石でできており、下から積み重ねていったものではない。また別の高いところから綱を引こうと考えても、その別の高いところがないのである。では「吊す」「引っぱる」こと無しに、何も無い砂漠に巨大な塔を建てるにはどうすればいいのか。 その方法とは、まず石材を横にしたまま、彫刻をしていき、寝かせた状態で塔をつくる。そしてオベリスクの建設用地に小高い山をつくる。山の高さは、オベリスクの高さと同じ程度にする。ただし、中央部は軟らかな砂で築き、山の斜面はオベリスクをコロを用いて登らせられるほど、勾配をゆるやかにするのである。こうして横に完成した状態のオベリスクを山の頂上まで運ぶ。そして、静かにオベリスクの下部だけが下がるように、中央部の砂を取り除いていく。砂の除去をうまくやると、オベリスクは平地に建った形になるのである。底を十分に固定した後、斜面となった土を取り除く。 この方法なら、人手と時間があれば、大きなクレーンなどの機械がなくてもオベリスクを建てることができるのである。


潮の満ち引きは月の引力によって起こるというのは本当でしょうか。

 月の万有引力は地球におよんでいて、月の方向から引っぱられているものは、地球上で月とともにわずかながら動いている。月は一ヵ月に一周しか公転していないが、地球のほうが自転しているので、海水が月にひっぱられたままの状態で、その海水の中を地球が一日に一回、回っているというように考えられる。 しかし、月が海水を引っぱるのなら、なぜ地球表面の海水は月のある側にだけ片寄らないのだろうか。それは次のように考えられる。 月は地球の周囲を公転しているが、地球もわずかに月のために公転しているのである。双方の重心は地球と月を結ぶ線上にあり、地球の方が、ずっと重いため、重心は地球の内部になる。この重心のまわりの公転のために、地球上の物体には遠心力が働き、月とは反対の方向に引っぱられる。地球表面の月に近い側は万有引力が勝って、月の方へ、反対側は遠心力が勝って月と反対の方へ引かれる。そして中間の海水は、どちらかに多少とも動くことになる。 地球は自転しているので、一日のうち満ちた部分は二回、潮の引いた部分を二回通りすぎる。地球上の人から見ると、これが潮流になる。しかし一般に地形は複雑なので、瀬戸内海などでは、満潮は月の南中よりも数時間も遅れる。 なお、太陽も月よりもさらに遠くにありながら、潮の満ち引きに関係している。月と太陽との効果が重なった場合を大潮、相殺した場合を小潮と呼ぶ。 


アパルトヘイトとは何ですか。

 「アパルトヘイト」とは、南アフリカで四十年ものあいだ、五百万人の白人が二千五百万人の黒人を差別してきた「人種隔離政策」のことである。 十七世紀ごろオランダはアフリカ原住民から土地を奪い植民地にしたが、十九世紀になると今度はイギリスがその植民地を占領した。 イギリス自治領の一九一〇年、南アフリカ連邦が成立、一九六一年、連邦から脱退して共和国となった。 一九一一年に、鉱山で働く白人労働者のストライキをきっかけに、政府は「人種差別法」を制定、その後一九一三年「原住民土地法」を制定し、原住民は南アフリカ全土の九%に限定された区域にしか住めないことになった。アパルトヘイトには人種間通婚禁止法、人口登録法、背徳法、集団地域法などがあり、南アフリカを祖国とする原住民は土地だけでなく、基本的人権も奪われていた。 一九七〇年に入ると、このアパルトヘイト政策に対し、国際的非難が集中した。政府はあわてて黒人居住地域を独立させたが、実際には差別は無くならず、また国際社会もこの見せかけの独立には承認を与えなかった。 一九九一年二月一日、デクラーク大統領は「アパルトヘイトを廃止していく」と発表、全人種に参政権を与える新憲法を実現していくと表明した。その後、政府高官であるベッセル外務次官は「アパルトヘイトは我が国がおかした大変な間違いだった。長い間の無関心を許してほしい」と、制度自体の誤りを公式の場で初めて謝罪した。 


シェイクスピアはどのような劇をかいたのですか。

 イギリスの偉大な劇作家であり詩人でもあるウィリアム・シェイクスピアは、一五六四年にイギリスの小さな町ストラトフォード・オン・エイボンで生まれた。裕福な商人の家に育ち、十八才で結婚して三人の子供の父親となったが、二十才をすぎてから、一人でロンドンに出て演劇の世界に入った。 シェイクスピアは最初、俳優として舞台にも立ったようであるが、一五九〇年ごろから演劇の脚本(戯曲)を書きはじめた。そして、三十才のころには一流の劇作家として認められるようになった。シェイクスピアは、エリザベス女王の「国王陛下一座」などの劇団に所属して、合作を含めると三十八編の戯曲と三編の詩集を書いた。 シェイクスピアの作品には、歴史劇・喜劇・悲劇の三種類がある。歴史劇は、歴史上の事件を題材にしたもので、「リチャード二世」「ジュリアス・シーザー」「ヘンリー四世」などがある。 喜劇は、世の中への風刺をこめながらおもしろくかかれた劇で、「お気に召すまま」「真夏の夜の夢」「ベニスの商人」などがある。 悲劇は人の不幸な運命を描いた劇で、四大悲劇と言われる「マクベス」「ハムレット」「オセロー」「リア王」のほか、「ロミオとジュリエット」が有名である。 シェイクスピアの作品はどれも、人間性がみごとに表現されているし、言葉使いもたくみである。そのため、多くの人々に愛され、現在でも世界中で上演されている。また、彼の作品は演劇界だけでなく、その後のイギリスの文学にも大きな影響を与えた。


ホクロやアザは自然にきえるのでしょうか。

 ホクロは皮膚の奥、真皮の中のメラニン色素をつくり出す一部の細胞が、なにかの理由で活発になり、メラニン色素をたくさんつくり出してしまうことによってできる。メラニン色素とは皮膚の中にもともとあって、肌の色を決めるもので、これが少なければ、肌は白くなり、多ければ黒くなる。日に焼けると肌が黒くなるのは、日光の中の紫外線の刺激でメラニン色素がふえるからで、日焼けで黒くなった肌は時がたつと、だんだん色は薄まっていく。しかし、ホクロはソバカスのように薄くなることもあるが、消えるとは限らない。 ホクロは生まれたばかりの時はほとんどなく、五歳くらいまでの間にできてくる。また、ホクロのできやすい体質は遺伝するといわれている。 アザについては色や原因はさまざまであるが、ぶつけてできる青アザ以外は、生まれつきか、幼いころにできるのが普通である。 たとえば、蒙古斑。モンゴロイド人種は生まれたとき、たいていこの青いアザがおしりにあるが、これは十歳くらいまでに消えてなくなる。 黒アザはホクロの大きいものと考えられ、場合によっては手術でとってしまうこともある。 赤アザは、毛細血管が異常に増えるためにおこるもので、赤ちゃんに多い。表面がデコボコしてもり上がったイチゴ状血管種は、小学生くらいで自然に消えるが、もり上がってないワイン色のアザはなかなか消えない。しかし、最近ではレーザー光線で切らずに治療する方法などもおこなわれている。


熊はなぜクマという名前でよばれるようになったのか。

 熊の名前の由来についても、いくつかの説がある。有力なのは、クマは「隈獣(クマシシ)」という名前が短くなったものという説である。 「全国隈なくさがしまわった」などという言葉の通り、隈とは曲がりこんだ道、川、山裾などの隠れて見えない所のことである。クマは人目につかない穴の中にこもり隠れているので、「隈獣(クマシシ)」と呼ばれ、それが住みかだけをあらわすことばだけが残って、
「クマ」と呼ばれるようになったようだ。 また、クマの名は朝鮮語に由来するという別の説もある。朝鮮語ではクマのことを「コム」と言うが、これが転じてクマになったという説である。しかし、クマが中国大陸あるいは朝鮮半島固有の獣類で日本にすんでいなかったらともかく、クマは日本列島に大昔から住んでいた動物であるから、その呼び名が朝鮮語に由来するという説は、どうであろうか。 クマは、オオカミをも倒す恐ろしい猛獣であるが、とても人なつっこい一面を持った動物であるとも言われている。山村では、里にあらわれたコグマとすもうをとる話も、そのような所から作られたのだろう。 また、クマは飼い慣らすと人に慣れるので、中世のヨーロッパではクマに芸を仕込んで見せ物にしていたようだ。


カンガルーはなぜオーストラリアにしかいないのか。

 約二〇〇年前まで、ヨーロッパ人はカンガルーという生き物の存在をしらなかった。キャプテン・クックが一七七〇年にオーストラリアでカンガルーを見たのがはじめてであった。 カンガルーのように袋を持ったけものを有袋類という。オーストラリアとその近くの島にはたくさんの種類の有袋類がすんでいるが、それ以外にはわずかに南北アメリカにオポッサムの仲間がいるぐらいである。 しかし化石によると、大昔、有袋類は世界中にいたらしい。今から一億年以上も昔、けものの大半は、有袋類で、一部が胎盤を持つけものだった。 やがて地球上の気候が変化し、恐竜類が死に絶えた後、けものはどんどん増え、進化していった。しかし、胎盤を持つけものは有袋類よりも成功した。彼らは脳が発達していたし、子どもが袋でなく母の体の中で育つのも、種族の安全のためには都合がよかったのだ。 有袋類は胎盤を持つけものにおされ、世界のたいていの場所で滅び、姿を消してしまった。しかしオーストラリアだけは違った。 オーストラリアは大昔、東南アジアと地つづきになっていたと言われている。まだ胎盤を持った高等なけものがいなかったころ、有袋類はアジアからオーストラリアにわたり、そこに広がった。やがて大陸の変動でオーストラリアはアジアから切りはなされ、あとから生まれた胎盤を持ったけものは、もうオーストラリアにわたってこなかった。競争相手のいない有袋類は栄え、いろいろな形に進化していった。そしてオーストラリアは有袋類が支配する土地、彼らにとっての楽園となった。


滑車とはどんなもので、どういう働きをしますか。

 滑車とは、それに綱を巻いて、綱とともに回転する円板形(実際に用いられるものは楕円形のものが多い)の道具のことである。 滑車の役目のひとつは、ピンと張った綱の方向を変えることである。下に重いものをぶら下げたとき、これを水平の方向に引っぱりたいときは、方向を直角に変える。上下に限らず、ななめの方向に引くときも、北のものを東に引こうとするときも、できるだけ摩擦のすくない滑車を使う。ただし、滑車自体は動いてはなにもならないので、軸は強く固定しておく必要がある。このような滑車を「定滑車」と呼ぶ。 それに対して、周囲の綱とともに動くものを「動滑車」という。これは動滑車に重りを吊しておいて綱を引き、動滑車を上げると、同時に重りを上げることになる。このときの綱を引っぱる力は、重りの重さの半分でいいことになる。原理としてはテコと同じである。 おもりを一│上げるためには、綱を二│引っぱることになり、力で得をするかわりに距離で損をするので、両者の仕事(これをエネルギーという)は変わらない。つまり動滑車は長く引っぱってもいいから、小さい力ですまそうという道具であり、動滑車の数が増えれば、それだけ引く力は小さくてすむことになる。


物質が原子からできているというのは、だれが考えたのですか。

 「原子」という言葉を最初につかったのは、古代ギリシアのデモクリトスである。デモクリトスは、「万物は原子からできている」という考えを持っていた。しかし、デモクリトスの理論は直観からうまれた観念的なものにすぎなかった。 物質が原子と呼ばれる粒子からできているという考え(原子論)をはじめて発表したのは、イギリスのドルトン(一七六六年〜一八四四年)である。 ドルトンは、はじめ気象の研究に熱中したが、のちに気体の性質の研究に転じた。ドルトンは、当時ニュートンなどが唱えていた「気体は小さな粒子からできている」という説を認めていた。そして、さらに気体以外の物質も小さな粒子からできているのではないかと考えて、研究を進めていった。 一八〇三年、三七才の時にドルトンは、ラボエジェの発見した「質量保存の法則」やプルーストの発見した「定比例の法則」を合わせて考えていくうちに、原子論に到達した。 ドルトンによると、原子は化学的方法によってはそれ以上分割できないもので、化学変化で新しくできたり、なくなったり、ほかの種類の原子にかわったりしないという性質をもつ。 ドルトンの原子論は、革命的なものであったにもかかわらず、当時の化学者たちにそれほど抵抗なく受け入れられ、その後の化学の研究のもとになった。


なぜ海の色は変化するのですか。

 海の色には、よく変化する場所と、年間を通してほとんど変化しない場所があるので、一概には言えないが、色の変化の主な理由は次のように考えられている。 海水はだいたい青く見えるが、太陽光が海水で反射するのは、水に層があり、その境目で屈折する場合が最も多いようである。では層は何によってできるのだろうか。それは海水の温度の違いによってできる。普通、冷たい水は重くて下側、暖かいほうは上側にくる。この寒暖による違いは、混合しにくく、いつまでも層をつくりつづける。しかも二重になるだけではなく、三重にも四重にもなることがある。こうなると散乱光は青いといっても、深いところで反射したか、浅いところではね返ったかによって、再び空中に出てくる光の色はかなり違ってくる。深いところでおこったものは、浅いところのものよりも黒っぽく見える。それは青い光が海水中をはしっているうちに、吸収されてしまうからである。 このため、観測機に色温度計(色からその温度を測定する機械)を積んで海面を測定すれば、黒潮の流れ方を判断することができる。魚群の多寡でも海の色は変化するが、実際には海水の温度差で色が変わり、そこに魚が集まるという結果になることが多い。 湖でも一日のうちに水の色が変わることがある。北海道の摩周湖は七色に変化するといわれている。水は動いていないようでも、特に寒い地方では、摂氏四℃の水がいちばん重いということもあって、内部の層は静かに変化して、色も驚くほど変わるものなのである。


インカのまぼろしの都ってどこにあるのですか。

 南米のペルーを中心とした南北四千┅の地域にあったインカ帝国は、十三世紀なかばから、十五世紀〜十六世紀にかけて、すばらしい文明を築き上げた。首都クスコは帝国全土に伸びる道路も整備され、また石づくりの王宮や神殿などの建築物が建ちならぶ大都市であったが、一五三三年、侵入してきたスペイン人に破壊され、その面影はほとんど失われてしまった。 スペイン人に征服されたあとも、インカの皇帝は山奥に都市をつくって、かくれすみ、最後まで抵抗し続けたという。その都市をビルカバンバといい、まぼろしの都として、いまもどこにあるのかは不明である。 一九一一年、ひとりのアメリカ人が、クスコ市の北西部、標高二二〇〇│のアンデスの険しい山中に、巨大な都市の遺跡を発見した。 マチュピチュとよばれるこの場所には石でつくられた宮殿や神殿、塔、広場、家などが建ち、用水路が設備され、まわりにはインカの特徴のひとつでもある、整然としただんだん畑が広がっていた。しかも古びているとはいえ、ほぼ完全な姿で草木に埋もれていたのである。 ここがまぼろしの都ビルカバンバではないかと思われたが、それはまだわかっていない。最近では、もっと奥地に発見された都市の遺跡が、本当のビルカバンバではないかと考えられている。 しかし、インカ時代の面影を最も多く残しているのがこのマチュピチュで、なぜこのような山奥に大きな都市が築かれたのか、またここに住んでいた人々は、なぜいなくなってしまったのかは謎のままである。


ノーベルはなぜノーベル賞をつくったのですか。

 アルフレッド・ノーベルは一八三三年、スウェーデンの首都ストックホルムで生まれた。生涯に三三五の特許を取得したが、その最大のものはダイナマイトの発明である。ノーベルはダイナマイトの発明によって、莫大な財産を築いたが、ダイナマイトは工事のはか戦争にも使われたので、心を痛めていたと言われている。ノーベルはその死後、遺言のなかで、平和を願う気持ちをこめて遺産を基金とした「人類のために最大の貢献をした人々に対する賞」の設立を指示した。この遺言がもとになってノーベル賞が生まれたのである。 ノーベル賞には「物理学」「化学」「医学・生理学」「文学」「平和」「経済学」の六つの分野がある。ただし「経済学賞」は一九六九年から加わった。 ノーベル賞の受賞式は、毎年ノーベルの命日にあたる十二月十日、ストックホルムのコンサートホールで行われる。平和賞だけはノルウェーのオスロ大学講堂が会場となる。 第一回の表彰が行われたのは、一九〇一年、初代の受賞者は「物理学賞」にエックス線の発見者レントゲン、「平和賞」に国際赤十字の創始者デュナンであった。 ノーベル賞は、世界中の他の賞とはくらべようもない権威と威信をもち、主義主張をこえて、万人が価値を認めるまれな賞である。 「平和賞」は複雑な国際政治の中において世界平和に貢献した賞として、またノーベル賞をいっそう普遍的なものにした賞として、特別な性格をもっていると言える。 


なぜ寒いとき、鳥肌が立つのですか。

 暖かい場所から急に寒いところに出たとき、鳥肌が立つことがある。これは体温を外に逃がさないための体温調節のひとつだと考えられている。 皮膚の真皮層の中には、立毛筋という毛を立たせる筋肉がある。この筋肉は寒さなどの刺激を受けると、反射的にぐっと縮むので、ふつうのときはななめにはえている毛が立ち上がり、それにつれて毛穴も持ち上げられるのである。 筋肉には、自分で動かすことのできる随意筋と、自分では動かせない不随意筋がある。この立毛筋は不随意筋なので、自分で鳥肌を立てようとしてもうまくはいかない。 犬や猫など、毛がふさふさとはえている動物の場合、毛が立つことによって、皮膚の外側の空気の層が大きくなり、体温が逃げるのを防ぐことができる。つまり鳥肌によって保温効果を上げることができる。しかし人間の場合、毛は退化してしまっているので鳥肌が立ってもそれほど保温効果は期待できない。これは人間の祖先には、たくさん毛がはえていたと考えられているので、毛が退化しても寒さに対する体の反応はあまり変わっていないということだろう。 しかし、寒いとき以外にも、突然恐ろしいものを見てびっくりしたり、感動する気持ちが急にわいてきたときにも、鳥肌が立つことがある。 おもしろいことに、寒さという刺激にたいする体の反応と、驚きや感動という刺激に対する体の反応は同じなのである。


狸はなぜタヌキという名前で呼ばれるようになったのか。

 狸という漢字は、けものへんに里と書く。狸はしばしば村里に姿をあらわすので、里のけものということになったのであろう。タヌキという和語のほうは、「手貫(タヌキ)」から来たらしい。 「手貫」とは、剣術などに用いる籠手(コテ)のことで、弓を射る時に使う弓懸(ユカゲ)や、鷹匠などが用いる皮手袋や鍛冶屋が使うふいごも皆、手貫という。手貫とは手袋のたぐいのことだが、手に貫いてはめるから手貫きで、手の字は、しばしば「テ」ではなく「タ」と発音されるので、タヌキと呼ぶ。 その手貫(タヌキ)を作る皮にタヌキの皮が最もよいので、いつか品物の名前が動物名に転じて、タヌキと呼ぶようになったのである。 タヌキという動物は、東アジア特産のもので、日本、朝鮮、中国以外には全く棲息していない。「ムジナ」というのは、タヌキの異名である。 「狸寝入り」という言葉は、タヌキが死んだふりをして人間の目をごまかし、死んでいると思って油断していると縄を抜けて逃げてしまうことをさす。しかし、タヌキは人をだますのではない。実際にタヌキは人間に捕まると、驚いて体が硬直し、一時的に気絶してしまうようだ。のんびり寝ているわけではないのである。 「狸寝入り」という言葉は英語では、「フォックス・スリープ」と言う。欧米にはタヌキはいないので、キツネがタヌキと入れ替わっている。

コンドルは、なぜ頭に毛がないのですか。

 コンドルは南北アメリカに住み、大きな動物の死体を食べる猛禽で、同じように動物の屍を食料にしている鳥にハゲワシ類がいる。どちらも頭の部分に羽毛がなく、皮膚がむき出しになっているのが大きな特徴である。 コンドルは翼を広げたときの体長が3mにもなり、現在飛ぶことのできる鳥の中では最大で、そのマントのような翼は上昇気流にのって、長時間高い空を舞うのに適している。コンドルはこうして上空を飛びながら獲物をさがし、見つけると、地上に降りてきて腐肉をあさる。コンドルはがんじょうなくちばしで皮をやぶり、腹の中に頭をつっこんで内臓を引きずり出して食べる。このとき、頭や首に羽毛があると、よごれがつきやすく、不潔になってしまう。羽毛がないほうが乾燥しやすく、皮膚に日光が直接あたるため殺菌効果もあって都合がよいといわれている。 コンドルやハゲワシにはいろいろな種類があるが、その種類によってはげ方に違いがある。ヒメコンドルやクロコンドルには羽毛があるし、エジプトハゲワシがはげているのは顔から前頭、頭頂までである。このエジプトハゲワシはダチョウの卵を食べる。卵の中に頭をつっこむだけなので、それほど頭の皮膚がむき出しでなくてもよいというわけである。つまり、食べ物の中へどれだけ頭をつっこむか、その度合によってはげ方が違ってくるのだと思われる。


ものをひきずるよりも、コロを使うほうが楽なのは なぜですか。

 万里の長城やピラミッド、大阪城の石垣など、これらはすべてクレーンもトラックもダイナマイトもなかった時代に建てられた。このとき、基礎に使う石などは遠くから運ばれたと思われるが、十トンも百トンもある石を大勢でかつぐことはもちろん、地上を引きずることも困難である。人間が動力を用いるようになったのは、イギリスの産業革命の頃からで、当時は人力、畜力に頼っていた。滑らすことの困難に頭を悩ませていた人間が考えついたのがコロである。 力学的にいうと、低い位置にある物体を高い場所に上げるのは、位置エネルギーを大きくするといって、何がしかの仕事が必要になる。ところが、水平方向に動かしても、その物体の位置エネルギーは少しも増えない。ということは、うまくやれば非常に小さい力で移動できるのである。物を地面の上などで引きずるときには、摩擦というものがあり、無理に引きずれば、その努力は摩擦熱というものに変わって、そこが熱くなるだけである。 そこでコロが考え出された。これはコロと物体、コロと地面の接点がふれているだけであり、摩擦は大いに減少する。そのうちにコロは輪になり、その軸は移動物体に取り付けられ、大八車やリヤカー、トロッコになった。軸と車輪とのあいだに多少の摩擦があるが、潤滑油をさすことにより、水平移動にはほとんど力を必要としないものができた。コロは摩擦をなくすための大発見だったのである。


なぜ写真のフィルムに被写体の像が写るのですか。

 カメラが発明された頃は、レンズを何個か使い、被写体の像は薬品を塗ったガラス板に写していた。第二次大戦以前のカメラは、ドイツから輸入したものが多く、いいものは家一軒建てるのに、千円の時代に五百円という高価なものであった。ところが、レンズ制作技術の発達などとともに、現在では使い捨てカメラが大量に出回っている。それは凸レンズさえ穴に装置すれば、人物でも風景でも容易にフィルム上に像を結ぶという簡単な原理にのっとったものである。もっとも簡単なのは、小さな穴だけのもので、古い物置などに入って戸を閉めると、小さな穴からの光で、外の景色が壁にさかさまに映るのがわかる。カメラの像も原理的にはこれと同じで、穴だけのものをピンホール・カメラという。 カメラは凸レンズを使うことで、穴にやってきた光をうまく曲げることができ、後方のフィルムの位置に像を結ぶことができる。ただし、凸レンズをどのように装備していても、遠い景色をはっきり像に写すと、どうしても近い人物などはぼやけてしまい、近くをきれいに写そうとすると遠景がぼやけてしまう。 人間の目も同じで、水晶体というレンズがあり、遠くを見るときはこれをぴんと張って薄くし、近くを見るときは、筋肉の働きでこれを厚くする。しかしレンズの厚さを変えることは不可能である。カメラではレンズの位置をわずかに前や後ろに動かして、目標物の像をはっきりさせる。レンズとはっきりさせた像との距離をフォーカス(焦点)と呼ぶが、近頃のカメラはオート・フォーカスといって、自動的に焦点距離が決まるものが多い。


オゾンホールってなんですか。

 オゾンは地上から十二┅〜五十┅上空に層をなして存在しており、この層が太陽から地球に降りそそぐ、有害な紫外線のほとんどを吸収してくれている。いわば、オゾン層は、地球の宇宙服のようなもので、この層に開いた穴を「オゾンホール」という。 最初にこの穴を発見したのは一九八二年、南極昭和基地の日本人隊員で、その後、八六年に、アメリカの気象衛星が確認し、事態は深刻に受けとめられた。最近では南極以外でも世界的にオゾン層が減少していることがわかり、その原因はフロンという物質であることがわかった。フロンは塩素とフッ素が化合した炭化水素でヘアスプレーや殺虫剤などの噴射剤、消化剤、冷蔵庫やエアコンの冷媒などに使われている。フロンは便利な現代生活をささえてきた物質である。しかし問題なのは、自然の環境の中では非常にこわれにくい物質であるため、使われたフロンはやがて空高くのぼっていき、成層圏まで達する。そこでオゾンと反応して塩素を放出、連鎖反応でオゾンを破壊してしまうのである。 オゾン層が減り、有害な紫外線の量が増えると、皮膚ガンや白内障になる人が増え、農業にも影響がでて収穫量がダウンするほか、海では稚魚やプランクトンの減少にもつながる。オゾンホールの被害はフロンを排出した国だけにとどまらず、世界のすべての国におよんでしまう。そのため、各国で話し合いがもたれ、一九八七年にオゾン層保護条約として「モントリオール議定書」が採択された。九〇年の同会議で二〇〇〇年までに十五種のフロンが全廃されることが決まった。


イヌイットの人はどんなくらしをしているのですか。

 イヌイットとは、グリーンランド・カナダ・アラスカ・シベリア東端など北極地方の木も草の生えないツンドラ(凍土地帯)や氷上に住む蒙古人種系の種族である。 イヌイットの伝統的な生活は、冬は狩猟をしながら、海岸沿いに旅をする。生活に必要なものなどを、すべてをソリに乗せ、犬を飼い慣らしてそのソリを引かせて運び、主食であるアザラシを求め、海の氷の上にキャンプをはって生活していた。夏は陸に移動し、海岸の近くでテント生活をする。カヤックという皮舟に乗り、網や槍で漁をして、その魚はくん製や干物にしたり、肉もほし肉にして永久凍土の中に貯蔵して冬に備えた。 一八世紀になると、ヨーロッパなどから捕鯨船がやってくるようになり、他の野生動物が殺されたり、酒や病気が持ち込まれ、イヌイット達の生活は不安定になり、昔ながらの生活様式はこわされてしまった。一九二〇年代になると、一時的な景気の上向きはあったものの、イヌイット達の生活が安定するようになったのは一九五〇年〜一九六〇年になってからのことである。一九六八年アラスカ沖で大量の石油と天然ガスが発見され、開発が進むようになったが、環境汚染などが心配されている。 現代のイヌイットの生活は、犬ゾリから雪上車に変わり、定住できる木造の家に住み、セントラルヒーティングやバスルーム、リビングにはテレビがあり、私達の生活と変わらない生活をしている。しかしイヌイットの子ども達は学校で、彼等の伝統的な暮らしである狩猟などを学び、民族の誇りと歴史を忘れない努力をしている。


水戸黄門や銭形平次は本当にいたのですか。

 水戸黄門や銭形平次は、テレビ時代劇の主人公として有名である。テレビ番組は、たくさんの人に受け入れられ、楽しんでもらうためのもので、ほとんどは小説などの原作(ドラマ化する前のもとの作品)がある。だから、登場人物が歴史上、実在した人物のこともあれば、架空の人物である場合もある。 水戸黄門は徳川御三家のひとつ、水戸藩主の徳川光圀(一六二八〜一七〇〇)をモデルにした「水戸黄門漫遊記」の主人公で、劇中では、お供の助さん格さんと諸国を巡り歩いて悪人どもをやっつけているが、実際の光圀公は「大日本史」の編さんをするなど、文化事業に力を入れ、領内からはほとんど出たことはなかったといわれている。 銭形平次は投銭という特技を使って犯人を捕える岡っ引き。野村胡堂作「銭形平次捕物帖」シリーズの主人公で、これは架空の人物である。平次は三十一歳。神田の長屋に住み、家賃をためてしまうことが多い。酒はたしなむ程度だが、タバコはヘビースモーカーである。子分のガラッ八はオッチョコチョイの単細胞だが、二人で数々の難事件を解決していくというお話である。平次は人柄が大変良いため、人々から愛され、捕えた犯人も改心することが多い。


口をすぼめてフッと息を吹くと冷たく、口を広げて ハアッと吐くと温かく感じるのはなぜですか。

 口から出る息は、温かくも冷たくもなる。まず、息それ自体の温度について考えると、息は外気の空気を吸い込んで肺に入る。肺に入った気体は、すぐに周囲(肺)の温度と同じになる。そのため人間の吐く息は、常に摂氏三六℃前後である。風邪で熱のあるときは、吐く息も熱くなる。 冬の寒い日に、冷えた手先に息を吹きかけて温めたりすることがあるが、このとき口を大きく広げて吐くと、口の中などの温度をたくさん奪って温度の上がった息が吐かれる。そのため温かく感じられるのである。 一方で、熱いコーヒーやお茶を冷ますとき、強く息を吹きかけることがある。息そのものは三六℃ほどなので、この場合は冷ますというよりも熱い液体面のすぐ上にある熱い空気の層を吹き飛ばすのが、大きな役目といえる。コーヒーやお茶が熱いと、それに接触している空気も同じように熱くなる。ただし熱い空気はどんどん上昇して、そこに小規模ながら対流が起こる。そこに息を吹きかけて対流を促すわけである。 また腕や足にアルコールを塗ったとき、これに息を吹きかけると、そこだけ涼しくなる。これは液体が蒸発するときに、周囲から蒸発熱を奪うためで、息の温度は関係が無い。


鼠はなぜネズミという名前で呼ばれるようになったのか。

 鼠の名前の由来についても、いくつかの説がある。その第一は、ネズミは「根棲(ネズミ)」であるという説である。ネズミの「根」は「暗いところ」という意味で、植物の「根」も地中の暗い所にある部分で同じ意味である。「棲」は「住むこと」であるから、「根棲」とは「暗いところに住んでいるもの」という意味になる。 また別の説では、ネズミは穴に住んでいるので、もと「穴住み(アナズミ)」といったものが、転じて「ネズミ」になったのだという。 それから、ネズミは餅や台所の食物などを盗むので、もの「ヌスミ」といったものが転じて「ネズミ」になったのだという説もある。 ネズミは人家に出没し、人の目によくふれるので嫌われものになっていて、悪名高い動物の一つである。しかし、ネズミの中でも白毛で目の赤い白ネズミは福の神の使者と伝えられ、白ネズミの住む家は必ず富むと言われている。この白鼠信仰は、中国から日本に伝えられたものらしい。ネズミの住むような家は富裕であるから、害獣がかえって富のシンボルとされたのである。 ネズミは、繁殖力が旺盛である。だから、際限もなく数がふえていくことを「鼠算」と言う。たとえば、ネズミが一月に雌雄一二匹の子を産むと、二月には両親をあわせて一四匹のネズミがまた一二匹ずつ子を産むことになり、全部の数は九八匹になる。この計算でいくと十二月のネズミの数は、二七六億八二五七万四四〇二匹になるのだから、すごいものだ。


再生とはどういうことですか。

 再生とは、生物が失った体の部分や器官のかわりをつくることである。例えばトカゲはしっぽをつかまえると、それを切りはなして逃げるが、まもなく新しいしっぽがはえてくる。 再生は生物の種類によってずいぶん違う。ミミズやヒトデは、切れのこった体の部分がほんのわずかでも、体全体を再生し元どおりにすることができる。その反対に私たちの体でおこっているようなつつましい再生がある。私たちの皮膚の一番上の層は古くなると、垢となってはげ落ち、新しい細胞に変わる。毛や爪も年中ほかの細胞におきかえられている。これも再生の一種である。 生物が高等で複雑であればあるほど、再生はおこりにくい。トカゲやイモリ、昆虫などは足を一本そっくり再生できるが、人間やけものはすべて、一つの器官をそっくり再生することはできない。私たちでできる再生は、折れた骨がくっついたり、皮膚や筋肉のきずがなおったり、ある種の神経がつながったりする場合くらいである。 再生のおこり方は二つある。一つは、きず口から新しい組織が新生することで、もう一つは、新しい組織はできないが、のこっている部分が変形し再組織されて、失われた部分にとってかわる場合である。 組織が新生する(たとえばトカゲのしっぽがまたはえる)場合には、まずきず口に、再生の「芽」になる細胞ができてくる。これはふつう円錐形で、卵から胚になるときと同じ型の細胞である。この芽細胞はさかんに分裂してふえ、なくなった器官をつくるための特殊な組織を発達させる。こうして細胞がふえ、成長するにつれて、新しい器官ができるのである。


新素材とはどういうものですか。

 アメリカのNASAがスペースシャトルの打ち上げに成功したことによって、人類の宇宙旅行への未来が切りひらかれた。このスベースシャトルの成功をもたらしたのが、シャトルの外壁に使われた新素材である。このような新素材は、今、次から次へと生み出されている。 金属でありながら、金属とは思えない性質を持った新素材も誕生している。これは形状記憶合金とよばれるもので、その大きな特徴は、一定の温度になると記憶していた元の形にもどるということだ。もしこの金属で自動車を作ったとすると、事故でつぶれてしまっても、お湯をかけるだけで元どおり、ということも夢ではなくなるのである。 また、金属よりもかたくて強い素材として注目されているファインセラミックスがある。このファインセラミックスは高熱にもたえられる性質で、スペースシャトルの外壁から身近なところでは、はさみや包丁、人口骨、人口歯、人口関節などを作るためにも使われている。
 そして、一九八六年には、IBMのチューリッヒ研究所で超伝導の性質を持つセラミックスが発見された。超伝導とは電気抵抗がゼロになる現象のことである。この超伝導の技術をつかったものにリニアモーターカーがある。リニアモーターカーは、騒音や振動がなく、超高速で走ることができ、二十一世紀の地上の交通機関の中心になるだろうと考えられている。 


なぜ磁石は鉄を引き付けるのですか。

 電気は一つの物体に正電気だけ、あるいは負電気だけというように、正と負がわかれているが、磁石は一端にN極があれば、他極に必ずS極がある。棒磁石や方向を調べる磁針は、まっすぐだがふつう、おもちゃや実験用の磁石は馬蹄形をしている。これは両端の磁石としての性質を効果的に利用し、鉄を引き付ける力を倍増するためである。 鉄を引き付ける磁石も鉄でつくる。ではなぜ鉄が磁石になるかというと、固体はふつう原子がきれいに並んでいる。しかし、鉄は原子ひとつひとつがN極とS極を持っているのである。原子の並び方はいつもそろっている。ということは、どんな鉄でも磁石になっているはずであるが、そうではない。1ミリよりもっと狭い範囲では、鉄は常に磁石になっている。ところがその部分部分の磁石がまったく別の方向を向いているために、磁石としての効果があらわれないのである。 おもちゃの磁石や、学校の実験室にあるものは、鉄内の小領域の磁石としての方向を全部そろえてある。したがって、棒磁石の一方はN極、他方にはS極としての性質が現われるのである。これをふつうの鉄に近づけると、その鉄の内部の各領域もNーSの方向がそろってしまい、磁石のN極の側にはS極が現われる。その結果、引き付け合うことになるのである。


なぜ蜃気楼ができるのですか。

 日本で蜃気楼が発生する場所としては、富山湾をのぞむ魚津市の海岸がよく知られている。その他ごくまれに、北海道の網走海岸と、三重県の志摩地方に現われたという記録がある。 また、世界的には熱い砂漠にありもしないオアシスが現われたとか、太洋の真ん中で、空に逆さ向きの船が見えたという話があるが、これらはみんな蜃気楼である。光は空気の薄い場所を選んで走る。普通にはそのような影響は見られないが、空気の層が地上付近(あるいは海面付近)と数十│上空、さらに数百│上空で著しく違う時は、元来まっすぐ走るはずの光は、曲がってしまうのである。 魚津市の海岸を例にとると、富山湾は春には日本アルプスの雪解けの冷たい水を運んでくる黒部川や早月川が海に注いでいる。その結果、海水は異常に冷たくなり、海岸付近の低い層の空気も冷やされる。しかし上空は海面ほど冷えていないので、例えば遠くにある伏木港の海岸工場群などから出た光は、やや上に曲がって弓の弧状になって魚津の海岸に到達する。この時風景の下側から出た光が、富山湾にいる観察者の目には上側から入り、反対に上側から出た光が下側から目に入るようになるのである。 海岸の見物人たちは、光が曲がってくるなどということは考えないので、目に入る光の直線的な延長上にそのものがあるように錯覚する。そのために、実際にはない場所に物があるように見えるのが蜃気楼である。海水が非常に冷たくて、上空の気温がかなり暖かい春先の富山湾は、この条件を備えているのである。


モースはどのようにして、大森貝塚を発見したのですか。

 大森貝塚を発見したエドワード・シルベスター・モース(一八三八〜一九二五)は、アメリカの動物学者である。彼は、小さい頃から貝が大好きで、貝の研究や貝塚の発掘に熱中した。 モースが二十一才の時、ダーウィンが「進化論」を発表したが、モースはそこに登場する「シャミセンガイ」にとても興味を持った。シャミセンガイは、浅い泥の中に穴をほって住む細長い貝で、日本には多くいると言われていた。そこで、そのシャミセンガイの研究をするために、日本に来たのである。 一八七七(明治一〇)年に来日したモースは、横浜から東京(新橋)へ向かう汽車に乗っている時に、切り通しのがけに貝塚を見つけた。そこで貝塚を発掘すると、土器や石器が見つかったのである。モースはこの土器を「縄文式土器」と名付けた。モースによる大森貝塚の発掘は、日本では最初の考古学の発掘となった。 モースは、日本をこよなく愛していた。彼は、東大で動物学を教え、ダーウィンの進化論を日本に紹介した。そのかたわら、日本の風俗に興味を持って日本中を旅行し、日本の民具を集めた。  モースは、アメリカに帰国後、東海岸のセイラムのピーボディ博物館長となった。彼の集めた日本民具約三万点は、ここに収められている。また、一八八二年に再来日した際には、四六〇〇点の日本の陶器を収集したが、それらはボストン美術館に収められている。


「三平方の定理」を考えたピタゴラスはどんな人ですか。

 ピタゴラス(紀元前五七〇頃〜紀元前四九六頃)は、今から二千五百年ほど前のギリシャの数学家・宗教家である。ピタゴラスは、エーゲ海にあるギリシャの植民地サモスで生まれた。彼は、「ギリシャ哲学の父」とよばれるタレス(紀元前六二四頃〜紀元前五四六頃)の弟子となって学んだ。その後、エジプトに遊学し、エジプトから帰った後は、イタリアのクロトンで学校を開いて成功した。 「三平方の定理」とは、「直角三角形の直角をはさむ二辺の上の正方形の面積の和は、斜辺の上の正方形の面積に等しい」というもので、実用幾何学の基礎になる重要な定理である。その事実は世界中で古くから知られていたようであるが、ピタゴラスが最初にこの定理を証明したと考えられている。「三平方の定理」は、最初の証明者のピタゴラスの名をとって「ピタゴラスの定理」とも呼ばれている。けれども、彼の定理の証明がどんなものであったは、わかっていない。 ピタゴラスの業績としては、この「三平方の定理」の証明のほか、数の性質の研究が有名である。後の整数論は、ピタゴラスに起源を持つと言われている。 ピタゴラスは晩年、数の神秘に魅せられ、六〇才の時「ピタゴラス教団」を開いて教祖となった。彼は、「世の中すべては数がもとになっている」と考え、数の秘密を知ることで魂が清められるとした。しかし、反対者のために学校をこわされ、ピタゴラスは小アジアに逃れてそこで死んだと言われている。


オリンピックは昔からあるのですか。

 オリンピックは紀元前七七六年、神に捧げる祭典競技として、古代ギリシャで始まった。オリンピックの原形である「オリンピア祭」は今のオリンピックと同じで、四年の一回行われていた。オリンピア祭はペロポネソス半島にあるオリンピアという都市で開くことが決まっていた。 オリンピア祭は、ギリシャ各都市の市民権を持つ、ギリシャ人の男子のみが参加でき、女子の参加は認められていないばかりか、祭典を見ることも禁じられていた。競技種目は陸上競技が主だったが、後に格闘技、戦車、競馬競争なども加わった。また、競技だけでなく、政治家が自分の抱負を述べたり、詩人が詩をよんだり、学者が弁論を誇るなど、芸術的な場でもあった。 古代ギリシャは紀元前四世紀に隣国のマケドニアに支配権を奪われ、紀元前二世紀の半ばにはローマに亡ぼされてしまった。それでもオリンピア祭は、ローマが紀元前三九五年に東西二つに分かれる直前まで続けられていたが、ローマ帝国がキリスト教を国教として、他の神々を祈ることを禁止したためなくなってしまった。 古代ギリシャ文化はローマ文化に引き継がれた。ルネサンス時代、一般市民が徴兵され、丈夫な身体をもった青年が必要になった時、人間の生活に体育が必要であることが叫ばれ始めた。そして古代ギリシャの繁栄は体育の奨励によって作り上げられたこともわかり、オリンピア祭が復活した。 クーベルタンの提唱により、復活オリンピックの第一回大会は、一八九六年、ギリシャのアテネで開かれた。その後、四年ごとに世界中の都市で開催されている。


動物はお互いに理解しあえるのですか。

 動物は、人間のようにお互いに話をするということはできないが、音や身振りによって相手にある信号を伝えることはできる。 人間の間でも、意味を伝えるのにことばだけを使うわけではない。怒りや喜び、悲しみを表情や見振りで伝えることもある。 動物は、たとえば馬がいなないたり、足で地面をかいたりすると、ほかの馬はその意味をさとる。また、鳥が枝の上にとびのってあたりを見回すだけなら、ほかの鳥たちは何もしないが、その鳥がある方向に飛ぶと、ほかの鳥たちは飛び去らなければならないとさとって、いっせいに飛び立つのである。 動物は音や動作ばかりでなく、においも信号に使う。群れをつくって生活する動物は、たいていにおいをたよりに集まったり、相手を見分けたりするのである。 類人猿は動物の中でも一番りこうだと言われている。しかし彼らが持つ「ことば」は、ほかの動物にくらべて特にすぐれているわけではない。類人猿はいろいろな音や表情で感情を表現するが、人のことばの単語に相当するものは持っていない。 ただし人間は、生まれつき話せるわけではなく、話し方を学ばなければならないが、類人猿や他の動物たちは、生まれながら本能によって自分たちの「ことば」を知っているのである。動物たちは、たとえ生まれてすぐ仲間から離され、一度も同じ動物を見なくても、ちゃんとその動物らしい叫びや身振りをやってのけるだろう。


磁石は天然に存在したものですか。人工的につくったものですか。

 同じ「磁」という漢字を使うものに「磁気」と「磁器」がある。これを混同してしまう場合があるが、この二つはまったく違うものである。磁器は、陶器や陶磁器と呼ばれ、特別な粘土状の土で器をつくり、窯で焼いたものである。これに対して鉄をくっつける性質の磁気のほうは、マグネティズムといい、陶磁器のセラミックスとはまったく違う。 磁石は現代の電気産業、特に通信機器には欠かせないものであるが、これはもともと自然界にあったものだろうか。中国の古い書物に指南車といわれるものが記録されている。中国で三世紀頃つくられたとされる指南車は、輪つきの車で、その上に乗った木像の仙人の指がいつも南を指していたといわれている。 現在の方位磁石が南北を指すことはよく知られている。一七〇〇年前に方向探知機があったかどうかは不明だが、地球表面の南北の磁界の強さは昔も変わらないことから、不可能ではないと言える。おそらく原料は天然の磁鉄鉱で、指南車はこれを削ったり他の鉄鉱と組み合わせたりして、つくられたと考えられる。 つまり磁石とは、最初は天然の物質からいろいろ加工していたが、鉄類を強力に引きつけるという特殊な用途に気がつき、後に人工的に発達したと言える。 日本では、本多光太郎博士によるKS鋼(一九一七年)や三島徳七博士のMK鋼(一九三一年)などが世界的に有名である。


超伝導物質とはどういうものですか。

 超伝導とはひとことでいうと電気抵抗がゼロになる現象のことである。 この現象そのものは、一九一一年にオランダのオンネスという人が発見している。彼は絶対0度という、これ以上低い温度が存在しない低温、摂氏マイナス二七三度近くなると、物質の電気抵抗がゼロになるという現象を見つけた。しかし、このような低温は液体ヘリウムでしか作ることができないので、実用化はむずかしいと思われていた。
 しかし、一九八六年、IBMのチューリッヒ研究所のベドノルツ博士とミューラー博士によって、超伝導の性質を持つセラミックスが発見された。これは今世紀最大の発見といわれ、ふたりの博士はノーベル賞を受賞している。そして、両博士がセラミックスを使って、絶対温度よりも高温で超伝導現象を起こすと、この記録をぬりかえるための競争が始まった。ただし、高温といっても、まだマイナス一〇〇度以下の低温である。しかし、やがては室温くらいの温度で超伝導が起こる物質が発見されることが期待されている。 超伝導の技術を使ったものにリニアモーターカーがある。その原理は、磁石の同じ極が反発しあう性質を利用して、超伝導による強力な磁石を使って、車体を空中にうかすというものである。そうすると、車輪の摩擦がないので、超高速での走行が可能になる。 その他にも超伝導を使った電磁推進船という新しいタイプの船も注目されている。これは海水中に電流を流し、強力な磁石で磁場を加えると海水が後ろにいきおいよくおされ、その力で船が前進するというものである。


震度はどのように決められるのですか。

 地震の大きさについて、説明する場合、たとえば、明るい電灯と、それによって照らされる机の面を考えてみる。電灯が明るいほど机の面は明るくなり、机が遠くなるほど暗くなる。この場合、電灯のほうを光度と呼び、燭光という単位で表わすが、面の明るさは照度といって、ルックという単位を使う。地震の場合、地下数十kmでの瞬間的な地殻の変動のエネルギーの大きさをマグニチュード(Mと書く)といい、光の場合の燭光に当たる。ある土地での地震の揺れは震度といい、これはルックに相当する。
 したがって地震の規模はまずマグニチュードでいい、7以上が大地震、7〜5が中地震、5〜3が小、3〜1を微小地震と呼んでいる。
 気象庁は一九四九年に地震階級をつくったが、加速度の大きさのガルは、人間のカンで決めることが多いようである。そして一九七八年にここでの説明以外に、参考事項という項目を付け加えた。それによると、震度は6、つまり烈震までとしていた。しかし、阪神大震災によって烈震以上のすごいものもありえることがわかり、以前に決めた激震も再び加わったのである。
 現在、震度は0(無感)、1(微震)、2(軽震)、3(弱震)、4(中震)、5(強震)、6(烈震)、7(激震)の8階級がある。ただし、地震計のあるビルでも、工事や電車の響きなどのため、精密な値を出すことはむずかしいようである。


ストーンヘンジは何に使われていたのですか。

 ヨーロッパには、スカンジナビアから地中海の島々にかけて、巨大な石づくりの遺跡が数多く残っている。 ここでいうのは、神殿や城などではなく、大きな石を列にして並べたり、円を描くようにまるく並べたりしたものである。ほとんどは紀元前三〇〇〇年から、紀元前二〇〇〇年くらいまでにつくられたもので、新石器時代から、青銅器時代のヨーロッパ先住民族、ケルト人がつくったものと考えられている。 その中で、最も有名なのがイギリスのイングランド南部、ソールズベリーにあるストーンヘンジである。上空から見ると虫眼鏡のような形をしており、柄の部分が導入路で、まるいレンズの縁が堀になっている。その内側に五六個の穴があり、そこからは、人骨の灰や石器が見つかっている。そして、中央部には、大きな石がまるく二列に並び、その内側には馬てい型にやはり二列の列が並んでいる。そのほかに、祭壇石など単独の石がいくつかある。 このストーンヘンジが何のためにつくられ、何に使われたのか、諸説がある。たとえば一九六五年、アメリカの学者がこれは天体観測所であるという説を発表した。夏至の朝、日の出の光が中央の祭壇石から、堀の外側のヒールストーンを結んだ線上に見える構造になっている、というのである。また、月の運行にも関係があるとしている。しかし、意図してそう並べたのかはわかっていない。農耕民族には欠かせない太陽信仰によるものかもしれない、ともいわれているが、本当のところはまだわかっていない。


マルコ・ポーロはどのようにして「東方見聞録」をまとめたのですか。

 マルコ・ポーロ(一二五四〜一三二四)は、イタリアのベニチア商人の家に生まれ、一七才の時、(一二七一年)に父とおじに連れられてアジアに出かけた。 当時(一三世紀の半ば)は、モンゴルがアジアからヨーロッパにまたがる大帝国を建設して、東西の交流が盛んになっていた。イタリアのジェノバとベネチアはその中心で、ヨーッロッパとアジアの間には、商人たちが通る道「シルクロード」が通じていた。 マルコ・ポーロらの一行は、はじめ船で中国へ行こうと考えたが、船がみすぼらしいので、シルクロードの「オアシスの道」と呼ばれる砂漠と高原の道を進んだ。そして、一二七四年に上都に着き、モンゴル帝国のフビライ・ハン(一二一五〜一二九四)にローマ法皇の手紙を渡した。マルコ・ポーロはフビライ・ハンに気に入られ、役人となって一七年間ハンに仕え、その間に中国各地や東南アジアを旅行した。そして、二四年後にようやくベネチアに帰った。マルコ・ポーロはすでに四一才になっていた。 マルコは帰国後、ジェノバとの戦争で捕虜となって牢屋に入れられた時に、物語作者のルスチケロと出会い、アジアでのめずらしい体験を彼に語った。それをルスチケロが本にまとめたものが、「東方見聞録」である。 「東方見聞録」では、日本のことを「黄金の国ジパング」と紹介されている。この本は、後のコロンブス(一四五一〜一五〇六)らがアジアをめざすきっかけとなった。


天動説を考えたプトレマイオスは、どのような人ですか。

 クラウディオス・プトレマイオス(二世紀前半)は、今から一八〇〇年以上前に活躍したギリシャの天文学者・数学者・地理学者である。彼は、エジプトのアレクサンドリアで天体の観測をして宇宙のしくみを考え、「アルマゲスト」という本にまとめた。 プトレマイオスの考えた宇宙は、宇宙の中心に地球があり、その回りを月・太陽・水星・金星・木星・土星(そのころ知られていたのはこれだけである)が回っている、というものであった。星座など星の世界はその外側にあり、さらにその外側には、神がいる最高天があるとされた。プトレマイオスのこの考えは「天動説」と呼ばれ、一六世紀にコペルニクス(一四七三〜一五四三)が地動説を唱えるまで、広く信じられていた。 また、プトレマイオスは、それまでに考えられた星座を整理して、四八個にまとめあげた。彼の考えた星座は、その後約一五〇〇年も使われた。 その他プトレマイオスは、当時としては驚くほど正確な世界地図をも作った。地球が球であることは、紀元前四世紀頃から知られていたのであるが、プトレマイウスの世界地図は、丸い地球の表面を平面にかきあらわした初めてのものである。当時は、ローマ帝国が栄え広い範囲を領土としていたので、プトレマイオスはその情報をもとに地図を作ったが、地球の大きさを実際よりもかなり小さく考えていたようである。彼の地図では、ヨーロッパ南部・アフリカ北部・アジア西部はかなり正確であるが、アフリカの南部はアジアとつながっていた。一五世紀末のコロンブス(一四五一〜一五〇六)は、この地図を信じて西回りでアジアへ向かおうとしたのである。


新聞はいつできたのですか。

 江戸時代、すでに「読売かわら版」というというものがあったが、ニュースを伝えることを中心とした日本の新聞で最も古いものは、一八六二年に発行された「官板バタビア新聞」である。これは江戸幕府がオランダの新聞を翻訳したもので、雑誌のようにとじられていて、発行日は決まっていなかった。その後、一八六五年に「海外新聞」と改称され月一回発行されるようになった。一八七〇年には横浜で「横浜毎日新聞」が発行された。これが日本最初の日刊新聞で、紙は洋紙、活字は鉛で今の新聞にかなり近いものであった。 明治政府ができ新しい政治が行われるようになると、政治の中心である東京でも日刊新聞が発行されるようになった。一八七二年には「東京日日新聞」、続いて「日新真事誌」「郵便報知新聞」が発刊された。 一九世紀の終わりから二〇世紀のはじめにかけて日清戦争・日露戦争という大きな戦争があり、国民は国内のニュースだけでなく、海外の動きにも関心を持つようになり、毎日の生活に新聞はなくてはならないものになった。こうして新聞が事業として成り立つようになると、誰もがおもしろく読める社会面の記事がふえ、ニュース中心の新聞が主流になった。
 このような特色を持つ新聞として、一八九二年に「万朝報」が、次の年に「二六新報」が発刊された。また、明治の終わりから大正のはじめにかけて大阪から出た「朝日新聞」と「毎日新聞」が大きな発展をとげて東京に進出し、東京で出された「読売新聞」と競争するようになった。


動物は数をかぞえることができるのですか。

 サーカスなどで算数ができる動物が出てくるショーがある。アザラシがたし算の答えの数を笛をふく回数で答えたり、馬が足で床をたたいて答えを出したり、犬が数字の書いた札をくわえてきたりするのである。しかしこのような場合、動物たちが本当に数をかぞえたり、計算をしているわけではない。動物使いが頭をふるとか、くちびるや目を動かすなど、こっそり信号を出していて、動物はその合図によって笛をふいたり足ぶみをしたりするだけなのである。 分量の多い少ないを区別できる動物はたくさんいる。たとえば、食べ物を三つつんだ山と、四つつんだ山を並べると、多くの動物は四つの山のほうへ行くのである。けれども分量の違いがわかることと、数をかぞえることは同じではない。 しかし、ある種の鳥やけものは数をかぞえることができると考えている科学者もいる。ハトを使った実験では、ハトに豆を一つぶずつやった。六つまではちゃんと食べられるが、七つ目の豆はいつも皿にぴったりとくっつけてあって食べられない。これを何度も繰り返すと、ハトたちは六つの数をかぞえられるようになり、七つ目の豆をあたえられても見向きもしなくなったのである。 もう一つの実験では、チンパンジーにムギワラを決まった数だけつかんでわたすように教えた。一本、二本、三本、四本、五本までは正しくできた。しかしチンパンジーがかぞえられるのはここまでで、五をこえると、わからなくなるようである。


電波とはどんなものですか。

 電気を帯びた物質の付近は電界といい、そこでは他の電気を帯びた小球などに、わずかながらも電気的作用をおよぼす。これではわかりにくいので磁性のほうで説明すると、まず、電磁石を用意する。これは鉄の棒に導線をコイル状に巻いたもので、このコイルに電流を通しているあいだだけ、鉄の棒は磁石になる。これを電磁石というが、送信号はスイッチを入れたり切ったりして、思うままに磁石にしたり、磁石をやめたりできる。そうして受信側は離れた位置に方位磁石を置く。発信側が電磁石をつくると磁界が瞬間的に広がり、方位磁石に感知して、針がピクピクと動くのである。その動きをたとえばモールス信号式に「ト・ツー」なら「イ」、「ツートトト」なら「ハ」というように決めておけば、磁界の変化を利用して意志を伝えることができるのである。 実際の電波はもっと精密であるが、本質は同じである。空中の導線上を一定の電流が流れているだけなら、静電気や磁界こそあれ、なんの変化も起こらないが、電流が激しく変化すると、電界と磁界とがそれに応じて変化し、変化したという知らせは光の速さで空中を走る。空に向けると人口衛星まで届くのである。届いたほうはその微弱な信号を自分の持っている電気によって、拡大することができる。これを増幅作用と呼ぶ。 電波とは要は磁界と電界の変化であるが、発信機能が容易なことと、遠くまで届くこと、また受けたほうが自らの器械で拡大できることなどから、テレビや無線電話、その他幅広く利用されているのである。


熱はどのように動力に利用されるのですか。

 太古の昔、重いものを動かすためには人間の力か、あるいは牛馬の力に頼るしかなかった。例外として、人は古くから風の力を利用することを知っていた。しかし風の力はかなり気ままなため、帆をはった船をはやく動かすことはできても、陸上ではあまりうまく利用することはできなかった。 しかし、イギリスのジェームス・ワット(一七三六〜一八一九年)が熱湯の入ったやかんのふたが、シュッシュッと持ち上がるのを見て、熱が仕事に変わることに気がつき、熱いということと、ものを動かすということが、そっくり変換できるということを発見した。 ピストンのついたシリンダー状の容器の中に蒸気を入れて、これを熱すると熱い蒸気はシリンダーを押す、蒸気を抜き再び熱す …これを繰り返す。最初は炭鉱内にたまった水を外に出すために、この蒸気機関が用いられた。やがてスティーブンソンがピストン軸の水平動を車輪の回転軸とし、蒸気機関車がつくられた。こうして、強い力でものを引っぱるために、人力や畜力に頼らなくても熱がやってくれることになると、工場が次々に建設され、これが産業革命になった。 熱ければピストンを押すということから、シリンダー中に直接気体にした燃料を入れて、これを爆発させてピストンを押すという方式を内燃機関という。石油のうち蒸発しやすいものをガソリンといい、小型乗用車や航空機はこれを用いる。ガソリンを除いた後の軽油などを用いた、重い機械がディーゼル機関である。火力発電所などでは、もっとコストの安い重油を利用している。


なぜ地球などの惑星は自転、公転をしているのですか。

 地球のまわりを回るものを衛星、太陽のまわりを回るものを惑星という。太陽のまわりには水・金・地・火・木・土星および天王星、冥王星、海王星の九個の惑星がある。その他星とはいえないほど小さな塵状の物体も回っている。 天体がどのようにしてできたかは諸説あるが、とにかく太陽付近にできた星は、太陽の万有引力のために、太陽方向に向かう力を受ける。惑星が最初から止まっていればそのまま太陽めがけて走るが、惑星はでき上がったときの複雑な原因で、横方向にも動いている。太陽に引っぱられつつ、横向きにも走るということになるので、結局は円運動になる。 もし空間に空気抵抗のようなものがあれば、勢いがおとろえて、中心の太陽付近に落ちてしまうが、真空中の運動には空気摩擦がないため、永久に太陽の引力に引っぱられながら、太陽の周囲を回ることになる。これが公転である。 公転のほかに、自転がある。たとえば野球のボールを投げた場合、必ずそのボール自体が回転する。つまり自転が生じるのである。 惑星の動き出したいちばん始めは謎であり、止まっていたボールを投げた場合とは違う。しかし力は不均一で自転はどの惑星にも生じている。そのため私たちは常に東へ東へとマッハ1以上の速さで地球とともに走っているのである。しかし、地表も空気も海水も同様に走るときは、私たちが速さを感じることはない。これは等速で走る列車の中で、動きを意識しないのと同じである。ただし、動き始めや急停止などの時には、このかぎりではなく、あくまで等速物体の中にいる人には、動きはわからないのである。


ナスカの地上絵は誰が描いたのですか。

 ナスカというのは、南米ペルーのアンデス山中にある谷の名前であり、この谷の砂漠に、地面を掘って描かれた巨大な線画がある。これが「ナスカの線」または、「ナスカの地上絵」と呼ばれるものである。今から一五〇〇年以上前に描かれ、その巨大さは、たとえば、目にモリがささっているクジラの絵があり、その長さは七〇│もある。また、翼をひろげたワシの絵は二〇〇│もある。そのほかクモの絵や、抽象的な幾何学的図形もある。 アンデスの古代文明といえば、まず、インカ帝国が思い出される。しかしインカ人たちは、この場所に道をつくる時、これらの絵をまったく無視して、その線をつらぬいて道を通している。もし、自分たちの描いた絵なら、そんなことはしないのではないだろうか。つまり、インカ人たちがこの地を征服する以前から、絵は描かれてあったと考えられる。 しかし、わからないのは、高い空中からでなければ見渡せないのに、どうやって描いたのか、インカ帝国以前にそのような高度な文明を持った国がこの地に存在したのか、そして、飛行機のない時代、誰も見ることができない巨大な絵を誰がなんのために描いたのか、ということである。 宇宙人が目標にするために描いたのだとか、空想的な説はいろいろあるが、ほんとうのところは、まだ謎のままである。


コロンブスはどのようにしてアメリカ大陸を発見したのですか。

 クリストファー・コロンブス(一四五一〜一五〇六)はイタリアのジェノバの毛織職人の家に生まれた。コロンブスは船乗りとなり、二九才のころポルトガルで結婚した。 当時(一五世紀)のヨーロッパの人々にとって、アジアの香料や絹、陶器、宝石は宝物であったが、アジアとの交易はアラブ商人に独占されていた。そこで、東洋の富を求めて、多くの船がアフリカを回ってアジアへ行こうとしていたのである。 コロンブスも、マルコ・ポーロ(一二五四〜一三二四)の「東方見聞録」を読み、黄金の国ジパング(日本)への夢をふくらませた。そして、イタリアの地理学者トスカネリ(一三九七〜一四八二)から「西方に航行すればインドに着くことができる」と手紙をもらい、西回りでアジアに行く計画をたてた。コロンブスのこの計画は、四一才の時にようやくスペインのイザベラ女王(一四五一〜一五〇四)に採用され、一四九二年八月三日にサンタマリア号など三隻の船をひきいて、スペインのバロス港を出発した。 コロンブスのサンタマリア号は、カナリア諸島を経て、十月一二日にようやく陸地についた。コロンブスは、この島をサンサルバドル島(今のバハマ諸島の一つ)と名付け、キューバやハイチなどを探検した後、スペインに帰った。その後もコロンブスは合計四回の航海をし、ドミニカ島・プエルトリコ島・ジャマイカ・キューバなどを回った。彼は、自分が発見した地域を「インディアス」と呼び、死ぬまでアジアの一部(インド、ジパング、中国など)であると思っていた。


コペルニクスはどのようにして「地動説」を考えたのですか。

 ニコラウス・コペルニクス(一四七三〜一五四三)は、ポーランドの天文学者である。ポーランドのトルニという町で、商人の子として生まれた。十才の時に父をなくし、兄や姉とともに、キリスト教の司祭をしていたおじに育てられた。 コペルニクスは若い頃、当時学問の中心だったイタリアへ行って、いくつかの大学で学問を積み、天体の観測を続けた。 それまでは、宇宙の中心は地球で、太陽やほかの天体は地球の回りを回っているという「天動説」が信じられていた。この天動説は、古代エジプトの大学者プトレマイオス(二世紀前半)によって考えられたものである。 コペルニクスは、この天動説が間違っていることに気づき、地球が太陽の回りを回っているとする「地動説」を体系的にまとめたのである。地動説は、古代ギリシャのアリスタルコス(紀元前二、三世紀)が唱えていたものであるが、証拠不足で説得力がなかったようである。コペルニクスは、地動説天文学をつくりあげることに一生をささげて、「天体の公転について」という本を一五四三年に出版した。この時、すでに彼は死の直前であった。 コペルニクスの地動説は、当時のキリスト教の考えと対立することもあり、すぐには受け入れられなかった。しかし、ケプラー(一五七一〜一六三〇)やガリレオ・ガリレイに受け継がれ、発展していった。


動物の体温はどれくらいですか。

 私たちの体の温度は周りの温度につれて変わることはない。体温が周りの温度によって変わらない動物を恒温動物という。すべての鳥やけものは恒温動物である。しかし、体温が周りの温度にともなって変化する動物もあり、これを変温動物という。ヘビ、トカゲ、カメ、カエル、魚類、昆虫などはすべて変温動物で、その体温は夏は高く冬は低い。 人間の正常な体温は三六度から三七度くらいとされる。しかしこれは人によっても多少違いがあり、また同じ人でも時によって変化する。たとえば、たいていの人の体温は午前四時ごろが一番低い。そして皮膚の温度は体の内部の温度よりも低い。また、運動することによって、体温は上がるし、アルコールを摂取することによっても上がる。 動物の体温は一番低いゾウの三五・五度から小鳥の四三度まで、かなりの幅がある。体温によって動物を分けると次のようになる。 三五・五度〜三八度 …人、サル、ロバ、馬、ネズミ、ゾウ。 三八度〜四〇度 … … …牛、ヒツジ、犬、ネコ、ウサギ、ブタ。 四〇度〜四一・五度 …シチメンチョウ、アヒル、ガチョウ、           フクロウ、ペリカン、ハゲタカ。 四一・五度〜四三度 …ニワトリ、ハト、ふつうの小鳥。 恒温動物は人間と同じで、一定の体温を保つためには、余分な熱を体の外へ捨てなければならない。この働きはおもに汗が受け持つ。汗をかかない動物はほかの方法を使っている。たとえば犬は暑いとき、舌を出してハアハアとあえいでいるが、そうすることによって、余分な熱を口から捨てているのである。


植物の類縁関係は、どのようにして調べるのですか。

 生物は、それぞれの生物が共通に持ついろいろな特徴によって、仲間分けされている。そして、生物の仲間どうしがどの程度近いものであるかを示す関係を、「類縁関係」と言う。類縁関係は、それぞれの生物の体のつくり・生殖のしかた・発生のようすなどから特徴を調べ、どれだけ共通点を持っているかで判断する。共通点が多い仲間どうしほど類縁関係が近く、共通点が少ない仲間どうしほど類縁関係が遠いと言える。
 「植物」は、葉緑体を持ち、光合成を行って自分で有機物を生産することができる生物のグループで、「ソウ類」「コケ類」「シダ植物」「種子植物」の四つに大きく分けられる。植物の類縁関係は、水中で生活するか陸上で生活するか、根・茎・葉の区別があるか、胞子でふえるか種子でふえるか、等の特徴によって調べられる。また、光合成色素のクロロフィル(葉緑素)の種類を調べると、さらに細かく植物の類縁関係を調べることができる。クロロフィルにはa・b・c・dの四つの種類があり、植物の仲間によってどのクロロフィルを持っているかが違っている。
 種子植物やシダ植物は、クロロフィルaとbを持っている。ソウ類のうち、「緑ソウ類」と「シャジクモ類」と呼ばれる仲間は、これらと同じである。このことから、ランソウ類が最も原始的な植物で、他の植物はこれを共通の祖先として分かれて進化していったと考えられるのである。


分子の大きさは、どれくらいですか。

 分子は、物質がその性質を保つための最少の単位で、いくつかの原子が結びついたものである。固体の物質が熱されて液体や気体になったり、気体の物質が冷やされて液体から固体になったりする状態変化は、分子の集合状態の変化によるものである。 分子の中には、とても簡単な構造のものもあれば、何千という原子が複雑な形に並んでいるものもある。たとえば、水の分子は、水素原子2つと酸素原子1つが結合した簡単なものだし、それに対して天然ゴムの分子は、約7万5千の炭素原子と約12万の水素原子を含んでいるものだと考えられている。それゆえ、分子の大きさも大小まちまちである。 水の分子のような簡単な分子は、長さが1億分の数センチくらいしかない小さなものだ。しかし、天然ゴムの分子の長さは、水の分子の数千倍もある。 空気の分子は、とても小さいものだ。1立方センチメートルの空気の中には、空気の分子は、3千万兆(3の後に0を19個つけた数)個もある。おまけにこの1立方センチメートルの空気の中には、分子がぎっしりつまっているのではなく、分子の間のすきまのほうが分子全体よりもずっと大きいのである。空気の分子の大きさは、考えられないくらい小さなものなのだ。


ポケベルや携帯電話の電波はどこからくるのですか。

 ふつうの電話は、送信者と受信者のあいだに線がつながっており、音声を電気信号に変えて電話線を通し、再び音声にするのである。現在は海底電線というものが敷かれており、国内はもとより、太平洋や大西洋の向こう側とも簡単に有線電話で話すことができる。
 しかし、昔は外国への通信はもちろん、国内でも遠距離は回線が少なかったため、電話局に申し込んでから二時間も三時間も待たされることもあった。民間の人が有線ではなく無線を利用する場合は、電報という方法しかなく、コストも高くついた。
 第二次大戦が無線通信の発達をうながすと、その後の受信・送信用のトランジスターも大いに研究されて、一九八〇年代くらいから、カーテレフォンに始まり、ポケベル、携帯電話の民間への普及が始まった。日本でも一九九三年頃からポケベルが、同九四年頃から携帯電話が爆発的に売れ始めたのである。価格が安くなったのが大きな原因であるが、今では高校生のあいだでも広く使われている。 通常の携帯電話とポケベルは、NTT系の会社が市街地のあちこちに建てたアンテナから電波を発信・受信をする。ただしPHS(パーソナル・ハンディフォン・システム)は維持費も安いが、別につくったアンテナを使うため無線のきく範囲が狭い。また一つのアンテナの受け持つ回線に限度があるので、人出の多い遊園地や渋滞した道路などでは、回線が満員になって使えない場合もある。


人工衛星はなぜ地上に落ちてこないのですか。

 たとえば、崖の上から水平の方向に石を投げてみる。石は最初はまっすぐ飛んで行くが、やがてどんどん崖下に落ち、ついには下方の地面に落下する。この実験では空気との間に摩擦があるので正確ではないが、空気抵抗を除いて考えてみると、水平方向には同じ速さで走るのであるが、下向きの速さがぐんぐん速くなって、ついには崖下の地面に到達してしまうのである。しかし、正しく見ると、水平方向には依然として同じ速度で走り、下方への速さが増すために、いわゆる放物線形に落ちるのである。崖の上での水平速度が同じなら、重いものでも軽いものでも、同じ線を描いて落ちる。 ここで人工衛星について考えてみると、人工衛星も実はどんどん落ちているのである。ところが水平方向の速度が大きいこと、そして地球が丸いことから、衛星は落ちても落ちても、そこには地面がないのである。落ちるという言葉が適切でないならば、地球の中心方向に、いわゆる万有引力でぐんぐん引かれているのであるが、地球の丸みのために前のめりになって、いつも地面のない場所を走っているともいえる。 人工衛星はこの地球に対して、すぐ上空の空気のないあたりを横に走るとき、秒速七・九┅の速度なら、常に前のめり、つまり永久に回ることができる。この速さになると、衛星は地球に近づこうにも近づけないのである。人工衛星は三段ロケットなどを使って、この速さにして地球の周りをまわる。この衛星の速度は地球の自転よりも速く、一日のうちに地球を何周もするのである。


ベルリンの壁はなぜこわされたのですか。

 第二次世界大戦の後、戦争に負けたドイツは、連合軍と旧ソ連によって強制的に分けられ、東ドイツはドイツ民主共和国、西ドイツはドイツ連邦共和国となった。そして一九六一年、「スパイ活動防止のため東西の交通を規制する」として、長さ一六〇┅におよぶコンクリートの壁がベルリン市内に建てられたのである。この「ベルリンの壁」は、東の社会主義と西の民主主義を分ける高く厚い壁として長く両国民を苦しめることになった。 東ドイツの人々の多くは、壁がつくられてから外国へ旅行することも自由ではなく、経済の悪化や食糧不足に悩まされていた。しかし、西ドイツからのテレビやラジオの電波をキャッチできたので、西ドイツの生活を知ることができた。そこには豊かな生活、人々の自由な生活ぶりがあった。こうして疑問と不安を持ち、自由と豊かな暮しを求めた多くの人々が危険をおかして国境を越え始めた。 そして、ついに一九八九年十一月九日、東ドイツの国境が開かれ、東と西を自由に行き来できるようになったのである。あくる日の十一月一〇日には、東西の若者たちの手によって、ベルリンの壁のとり壊しが始まった。このときのドイツの人々の熱狂はものすごく、壁によじのぼって大声で歌う若者たち、何十年ぶりに再会し、抱きあって泣く家族たち、ぞくぞくと入ってくる東側の人々を歓迎する西側の人々。この日だけでも、東から入った人は三〇万人を越えた。 こうしてドイツは統一されたのである。統一後の問題はたくさんあるが、それはヨーロッパだけではなく、全世界で協力して解決していかなければならない問題である。


マゼランはどのようにして世界一周をしたのですか。

 大航海時代と呼ばれる一五世紀には、アジアの富を求めて多くの航海者たちが未知の海へ挑戦していった。一五世紀末には、ポルトガルのバスコ・ダ・ガマ(一四六九〜一五二四)が、アフリカの南を通りインドへ行く航路を初めて発見した。ポルトガルは東回りのアジア航路を開いて、アジアとの香料貿易を支配した。 一方、スペインは西回りでアジアに行く航路をさがし求めた。コロンブス(一四五一〜一五〇六)が一四九二年に西行きの航海でアメリカを発見した後、マゼラン(一四八〇?〜一五二一)が一五一九年九月に西回りでのアジアへの航海に出発した。 マゼラン一行は、南アメリカを南下し、約一ヵ月かかって海峡を通過して初めて太平洋へ出た。今でも船で通り抜けることがむずかしいこの海峡は、後に「マゼラン海峡」と名付けられた。 太平洋にでた一行は、グアム島を経てようやくフィリピンに着いた。マゼランは、一五二一年フィリピンで原住民どうしの戦いに巻き込まれて殺されてしまったのであるが、残った船員たちだけでその後も航海を続け、一五二二年九月、ついにスペインに帰ってきた。船員の反乱や食糧不足、マゼランの死去などさまざまな苦労を経て、五隻だった船はビクトリア号だけとなり、約二七〇人の船員も無事に帰ったのはわずか一八名であった。 このようにして、マゼランの一行は、出発から三年がかりで初めて世界一周の航海を成し遂げた。そして、地球が丸いこと、アジアとアメリカは別の大陸であることが、確かめられたのである。


ガリレオはなぜ「近代科学の父」と言われるのですか。

 ガリレオ・ガリレイ(一五六四〜一六四二)は、物理学や天文学の分野で活躍したイタリアの科学者である。ガリレオは、さまざまな実験や観測をもとに、自然をありのままに見ようとしてたくさんの発明や発見をしたので、「近代科学の父」と言われている。 落下法則の研究をしていたガリレオは、斜面の実験装置でボールをころがす実験を繰り返した。また、ピサの大聖堂の天井からつり下げられていたランプが揺れるのを見て、振り子の等時性(振り子の揺れる幅が短くなっても、一回の揺れにかかる時間は同じであること)を発見し、正確な振り子時計を考えた。 このようないろいろな実験をもとに、ガリレオは、「ものの落ちる速さは同じである」と考えたのである。当時は、古代ギリシャのアリストテレス(紀元前三一〇〜紀元前二三〇頃)が唱えていた「重いものほど速く落ちる」という説が一般に信じられていた。ガリレオは、ピサの斜塔から小さな砲丸とその十倍の砲丸とを同時に落とす実験をし、二つの砲丸が同時に落ちることを人々の前で証明した。 またガリレオは、天文学の分野においても、オランダで発明された望遠鏡を天文観測に応用し、月の表面のでこぼこや太陽の黒点、木星の衛星などの多くの新しい発見をした。そして、その観測の結果、地動説が正しいことを証明し、「天文対話」という本にまとめた。ところが、当時のキリスト教の考えでは天動説が正しいとされていたため、ガリレオは宗教裁判にかけられ、やむなく地動説を捨てなければならなくなった。「それでも地球は動いている」という言葉は、この時のガリレオの心境を表わしたものである。


時計の針はなぜ右回りなのですか。

 狩猟生活をしていた人間が、農業をいとなむようになると、人間は種をまく時期を判断するため、季節の動きを正確に知ることが必要になってきた。 今から約六〇〇〇年前のエジプト人は、地球が太陽の周りを三六五日でひと回りすることを発見し、その長さを一年とした。さらに地球が一回転する単位を一日とした。また、一日を二四時間ときめたのもエジプト人であった。エジプトやメソポタミアなど、文明のはじまった土地は四季の変化が少なく、雨もほとんど降らなかった。そのため、まず日時計が、次に水時計が発明された。そして一四世紀になって、ようやく機械時計が発明されたが、その当時でも正確な時間をはかる道具としては日時計が主流であった。 太陽がつくる影の動きは北半球では右回りになり、南半球では左回りになる。そのため、たとえばオーストラリアなどで日時計をつくると、影は左回りになるのである。 しかし、時計が発明された頃、文明のほとんどは北半球にあったため、日時計の時刻の配列は右回りになっていた。現在の機械時計の文字盤と針は、この日時計の右回りのかたちをそのまま受けついだものなのである。


自転車がとまると倒れるのはなぜですか。

 ものが転倒しないための条件とは、次のようになる。ものが床なり水平な地面なりに置かれているとき、脚あるいは面積のある底のようなものが、それらと床の接触面の鉛直上方に、その物体の重心があるということである。つまり、物体の重心の真下が、脚などを結んだ面の中にあればいいのである。 机は脚が四本あり、重心は脚を結んだ四角形の上にある。三脚なども重心はその三角形の上にあり、面積をつくることのできる点は三ヵ所である。二本足のものは、人間のように、足にかなりの面積がある場合は別であるが、ふつうは立っていることはできない。コンパスやはさみの刃を下にしたものなどは、すぐに倒れてしまう。 自転車も同じで、前輪と後輪との接触面を結んだ面積が非常に狭いので、この真上に自転車と人間との重心を乗せたまま、立っていることは、まず無理である。 それでは、走る自転車はなぜ倒れないかというと、これは走っているからではなく、車輪が回っているからなのである。円板や円柱形が軸のまわりを回転している場合には、回転の軸を変えないという力学法則がある。コマが倒れないのも同様で、回っているかぎり、芯の方向は鉛直を向いたままなのである。下敷きなどを立てたまま滑らせれば、そのまま倒れてしまうが、円板であればどんなに薄いものでも、回っているかぎり倒れることはないのである。


なぜマジックミラーは裏側からだけ見えるのですか。

 刑事もののドラマなどでは、よく容疑者の取り調べの部屋を、マジックミラーを使って、外から証人にのぞかせるという場面がある。これは、裏からは相手が見えるが、表のほうから見ると鏡になっていて相手が見えないというものである。 光についての一般的性質をいうと、A点から出てB点に到達できるものは、逆に発光体をB点のほうに置けば、この光はA点でも見ることができる。光の通り道は、まったく反対向きで、要するにこちらからあちらが見えれば、あちらからもこちらが見えることになる。たとえば、廊下などの大きな鏡の中の友人と目があった場合、友人も自分を認めているのである。 つまり光というものは可逆性があり、どちらからも同じという性質を持っている。 では警察などの一方的な面通し窓はどうなっているのだろうか。光には強弱があり、マジックミラーでは、容疑者側の部屋を明るく、これをのぞく側をとても暗くしているのである。明るい部屋の光は、マジックミラーを通して暗い側にも入るが、かなりの部分がミラーで反射する。暗い側の光が、わずかにこのミラーを通っても、強い反射光のためにかき消されてしまうのである。 夏にある、部屋と表通りのあいだのすだれや、海の家などにあるよしずは、この原理が利用されている。内から外は見えるが、外から内は見えないようになっているのである。


なぜ日の出や日没のとき、太陽がゆがんで見えるのですか。

 太陽がゆがんで、横にふくれて見える原因には、心理的な面と物理的な面がある。 太陽が低い位置にあって、海や人家の後ろなどから出てきた場合、太陽は非常に大きく見える。ところが真上にある太陽はそんなに大きくは見えない。これは、水平線や遠くの家、山などは距離が遠くなるほど小さく見える。ところが太陽の大きさはいつも変わらないため、太陽が大きく見えるのである。また、特に横方向に小さな村や海などが広がっていると、それに比べて太陽が横方向に大きいと思ってしまうのである。これが心理的なものである。 物理的な面でというと、水平線上の太陽の光は、海上の空気の層のためにやや曲げられたり、ゆらいだりする。 暖かい空気は薄く、冷たい空気は濃いのであるが、光は空気が薄くて暖かな場所を選んで走る。海面の空気は冷やされており、上に行くにしたがって暖かいことが多いのである。そのため日の出や日没には、光は多少上に曲がり、その曲がり方も下の光ほど激しくなる。そうすると、上下は狭く見えるので、太陽は横にふくれた感じに見えるのである。 実際にはもっと複雑な現象がからまり合って、水平方向に温度の違う空気の層ができるのであるが、光はある層を特別に選ぶために、横ににじんだようになることもある。いずれにしても、海面の空気の温度が複雑に変化しているために、光はゆらいで見えるのである。


ムー大陸はどんなところだったのですか。

 太平洋のまん中に、ムーとよばれる大陸があったという説がある。 ハワイ、トンガ、フィジーなどの島々をふくむ広大な大陸で、南アメリカと北アメリカを合わせたくらいの大きさだったといわれている。 この大陸は、ラ・ムーという皇帝が治める帝国で、人口は六四〇〇万人、高度な文明を持ち、亜熱帯に属しているため一年中温暖な気候の、豊かな国であったとされている。ところがこのムー大陸は今から一万年以上前、大地震によって、一夜にして海底に沈んでしまうのである。 実はこのムー大陸が本当にあったかどうかはわかっていない。誰も見たことがなく、空想の中の大陸というべきかもしれない。しかしムー大陸をめぐる説は多くある。 たとえば、地理的に重なるイースター島にあるモアイ像はムーの船団のための目印であるという説がある。 また、メキシコのユカタン半島に残るピラミッドはムーの文化の影響を受けている、つまり、ユカタン半島にあった、古代マヤ帝国はムーの移住者がつくったという説もある。 遠くはなれたエジプトにも、ムーの影響を見る説がある。ピラミッドの横にある不思議な石像スフィンクスは、ムー大陸を追われた女王が建てたというものである。


アルキメデスはどのようにして浮力の原理を考えたのですか。

 アルキメデス(紀元前二八七頃〜紀元前二一二)は、てこの原理の研究をしていたギリシャの数学者・科学者である。紀元前三世紀の終わり頃、カルタゴとローマの戦い(ボエニ戦争)でローマ軍がシラクサ(シチリア島)に攻め込んだ時に、アルキメデスはシラクサの王ヒエロン二世(紀元前三〇六〜紀元前二一五)に頼まれて、いろいろな新兵器を考えだし、ローマ軍を悩ませた。ヒエロン王は、勝利を祝って金細工師に王冠を作らせたのであるが、王冠にまぜものが加えられているとのうわさを聞き、アルキメデスにその真偽を確かめさせたのである。
 アルキメデスは、職人に与えたのと同じ量の純金の塊と王冠とを天秤ではかってみたが、重さは同じであった。見た目の輝きも変わらないし、アルキメデスは困って何日も考えこんでいた。そしてある日、気分転換に風呂に出かけ湯ぶねにつかっていた時に、突然よい考えがうかんだのである。
 アルキメデスは、お風呂で水があふれて自分の身体が軽くなるのに気づいた。水中では、おしのけた水の分だけ物体は軽くなる。ということは、王冠と、王冠と同じ重さの金を水に入れて、同じだけ軽くなるかを調べれば、王冠が金でできているかどうかがわかるということだ。
 アルキメデスが、こうして浮力の原理を発見した時、「エウレカ!(わかったぞ)」と大声で叫びながら、はだかで町に飛び出していったという話は有名である。


レオナルド・ダ・ビンチはなぜ天才と言われるのですか。

 レオナルド・ダ・ビンチ(一四五二〜一五一九)は、一五世紀のイタリアで活躍した万能の天才である。 彼は、フィレンツェの近くにあるビンチ村で生まれ、十四、五才で画家の道を歩み始めた。当時の絵画は、奥行きを出すための遠近法と、自然な肉体を描くための解剖学を基にしたものであったが、レオナルドはそれをさらに工夫し、「モナ・リザ」や「最後の晩餐」などのすぐれた作品を生み出した。 それだけでなく、レオナルドは、芸術家として観察を深めるうちに、自然の中の物事の仕組み自体を徹底的につきつめていくようになり、その科学的な知識をもとにして、いろいろな機械や発明のアイディアをノートに残した。その記録は残っているだけでも五千ページにもなり、時代を先んじた先見性が感じられる大きな価値のあるものである。 科学の分野では、実験と数学の重要性をはっきりと指摘し、力学や天文学での科学的な研究をした。また、三〇体以上もの解剖を行い、人体の正確なスケッチを残した。 また技術の分野では、橋や運河・教会などの設計、新しい都市の計画といった建設のほか、飛行に興味を持ち、鳥の飛び方の研究をもとに飛行機やヘリコプタ・パラシュートなどを考えだした。 レオナルドのノートは、一部を除いて秘密に保たれ、その後各地に散らばってしまったために、その内容はほとんど知られていなかった。けれども、一九世紀になってやっとその内容が明らかにされると、レオナルドが絵画だけでなく、実にさまざまな分野においての大天才であったことがわかったのである。


日曜日はなぜ休みなのですか。

 一年というのは、地球が太陽の周りを公転するのにかかる時間で、一ヵ月は月の満ち欠け、一日は地球の自転周期である。それに対して、一週間という単位は自然現象と関係がなく、人が生活のためにつくった区切りである。
 一週間を七日としたのはキリスト教徒で西暦三二五年ニケヤ(小アジア北西部にあった都市)宗教会議によって正式に決定された。そして、その時に知られていた惑星が太陽・月(当時は太陽も月も惑星と考えられていた)・水星・金星・木星・土星・火星の七つであったため、月曜から土曜までの名がつけられた。
 一週七日制は、その後、イスラム教徒や他の教徒へも伝わり、やがて世界に広がった。 日曜日を休みとしたのはキリスト教である。「主の日である日曜が休みの日」という伝統は、キリスト教と共に一般化した。しかし、ユダヤ教においての安息日(休日)は土曜日であり、イスラム教では金曜日になる。そのため三教徒が共存するエルサレム(イスラエルの首都)では、それぞれが自分たちの休日をとり、都市全体では一週に三日の休日ができてしまうのである。
 日本にキリスト教が伝導されたのは一六世紀フランシスコ・ザビエルの渡来による。日曜日が休日というのもその時に伝えられた。しかし「一週間七日」という概念は、それ以前にシルクロード・唐を経て伝わっていた。平安時代に藤原道長が書いた「御 堂関白日記みどうかんぱくにっき」(日本最古の日記)には、日付のところに日曜、月曜、火曜 …としるされている。


飛行機のパイロットはどうやって、高度や速度を知るのですか。

 旅客機に乗ると、前方のスクリーンに高さ一万一〇〇〇│とか、速さ八九〇┅/hなどと表示される。離着陸やその前後には、空港の管制塔からの指示を受けるが、地球をまたぐようにして遠い国まで行く場合には、何か所かに無線中継基地があり、そこから送られてくる電波によって、高度も速度も自動的に記録され、パイロットにはもちろん、乗客にもよくわかるようになっているのである。無線基地の場所も、スクリーンの地図の中に記されている。 ここでいう高度とは海面の高さなので、空港に着陸してもゼロになるとはかぎらない。また、速度については、電波による往復の周波数のずれによって割り出すドップラー効果という方法が使われている。もちろん、地面や静止海面に対する速度である。 しかし、三〇〜四〇年前までは高度はアネロイド気圧計などというのものが使われていた。大気圧を測って高度を知るという方法であったが、気圧は気象によって変化するため、気象図を見ながら補正しなければならなかった。そして近代器具がなかった時代、第二次大戦までは、パイロットは速度と時間から、今海上のどのあたりを飛行中なのか判断していた。また、海上操行のときは海面を見て、波の高さと波頭にできる白い波の崩れの状態から、風力とその方向を割り出し、航路を修正したといわれている。


水を入れたコップを長い間置いておくと、コップの内側に泡がつくのはなぜですか。

 水の中には空気が入り込んでいる。見た目にはわからないが、水だけだと思っていても、実際には水道の管から出るときに混ざったり、そうではない静かな池の中にも空気が混ざっているのである。池の中にいる魚はこの水中の空気をえらで呼吸している。 たとえば池の鯉などが水面に顔をだしてしきりに口をパクパクさせていると、雨が降るという話があるが、これは低気圧になると、水面を押す空気の圧力が下がり、水中の空気が減ってしまうからである。 このように水の中には空気が含まれているのであるが、これがくっついて目に見えるほどの泡になるのが、コップの内側に見える泡である。この空気の固まりは、最初はコップのふちなどに付着し、それが発達していく。 水中の泡の場合とは逆になるが、上空の水蒸気もくっついて水滴になる。液体と気体のあいだには表面張力が働いている。この力のために、容器いっぱいに入れた水は、容器のふちから盛り上がり、あるいは木の葉の上などで丸い玉になったりする。表面張力はなるべく表面積を小さくしようとするように働く。そして、一個、二個、あるいは多数の水滴よりも、一個の大きな水滴になろうとする傾向があるのである。外側が水で、できた気体の玉が空気の場合でも、表面張力の役目は同じで、空気はまとまって、一つの泡になろうとする。ただし、周囲の液体からの力などでコップに付着して、ある大きさのままでいることが多いようである。


晴れと曇りの日の区別は何を根拠にしているのですか。

 晴れと曇りの日を区別するためには、気象学的にきちんとした決まりがあるのである。空が完全に見られる場所に立ち、視界のうち、雲の部分が〇〜二割ののときは快晴、三〜七割が晴れ、八割以上のときを曇りという。雲が六割〜七割あれば曇りではないかと思われるが、七割程度なら、いいかえれば青空が三割見えていれば実際には晴れていると感じられるのである。同じように雲ひとつないときだけが快晴というわけではない。二割程度の雲があっても非常によく晴れた日だと感じるものなのである。 なお天気に関する記号には、代表的なものとしては、快晴  、晴れ  、曇り  、雨  、雪  、雷  などがある。この記号の右下に小さく「ニ」をつければ「にわか」ということになり、「ツ」をつければ「強し」という意味になる。 雪の降る途中で水滴が固まりついて、固形状になったものがあるが、ふつう、これが直径五⦆以上になったものを「ひょう」と呼ぶ。ひょうは入道雲の中で小さい氷滴が長時間停滞するためにできることが多く、春や初夏に降ることもある。直径五〞ほどに達する場合もあり、農家の温室を壊したり、ときには人間や家畜をも傷つけたりすることがある。みぞれは雪が溶けかけて雨まじりの状態で降るもので、これは圧倒的に冬に多い。 気象図には各地に天気記号を書き、風向きの逆方向に棒を引き、それにつく矢の数で風速を表わす。


不快指数とは何を表わしているのですか。

 不快な日とは暑くて湿りけの多い日のことをいう。人によっては暑い日よりも寒い日のほうがいやだというケースがあるが、この場合はいくら寒くても不快指数が大きいとはいわない。 近ごろは朝のテレビなどで、各地の気温とともに湿度も紹介することが多い。湿度を決めるにはふつうの温度と露点温度を測り、それから計算式を導く。露点温度というのは、温度計の水銀だまり
(あるいは水銀にかわる溶液)をアルコールなどで包んで冷やし、その場合の温度を測るものである。そうして不快指数は、日本でのふつうの気候なら六〇〜九〇くらいのあいだになり、その値が大きいほど、人々は不快になるのである。大ざっぱにいって、七五以上になると「やや暑い」、八〇以上では「暑くて汗が出る」ようになり、八五以上になると「暑くてたまらない」ほどになる。 あるいは、個人差があるので、次のように定義することもある。七〇以上になると、一部の人が不快を感じ、七五以上では半数が不快を覚え、八〇でほぼ全員が不快に、八五以上では全員が苦痛を感じるようになる。 日本では、七月よりも八月のほうが過ごしにくいもので、東京以西では、かなりむし暑くて、やり切れない日が多く、同じ九州でも四方を山にかこまれている熊本よりも、海に面している長崎のほうが、いくらか過ごしやすいようである。 


モアイ像は何のためにつくられたのですか。

 南太平洋に浮かぶイースター島は、「世界のヘソ」といわれる絶海の孤島である。南米チリの海岸からは約三八〇〇┅、一番近い島でさえ約二〇〇〇┅もはなれている。面積は約一三〇┆、日本でいうと小豆島くらいの大きさである。 一七二二年の復活祭(イースター)の日に、オランダ人のロッゲフェーンによって発見されたため、イースター島と名付けられた。 発見されると同時に、この島は世界中の考古学者や人類学者の注目を集めた。それは不思議な巨石像が、島全体で一〇〇〇体以上も見つかったからであり、この巨石像がモアイである。 モアイは、人間の上半身をかたどった像で、独特の長い顔をしている。その高さは三〜二〇│、最大のものでは二七│もある。このモアイ像はこの島の住民によって、一一〇〇年〜一六八〇年のあいだ、約六〇〇年間つくり続けられたことがわかっている。しかし、一六八〇年に突然つくるのをやめてしまったのである。 発見された当時、この島の住民もこのモアイ像が何のためにつくられたのか知らなかった。また、一九世紀に多くの島民が奴隷としてつれ去され、残っている文字や伝説を知る人がいなくなってしまい、ますます謎は深まった。 イースター島は、ムー大陸の一部だとか、インカ帝国の流れをくむとか、宇宙人がつくったなど、この謎についての説はたくさんあるが、現在は、ポリネシア起源説というのが中心になっている。ポリネシアの島々が共通の文化を持っていたのではないかとい考えである。 


ニュートンはどのようにして万有引力の法則を考えたのですか。

 地球には、地球上の物体を引きつける力があるが、このような引力は、地球と地球上の物体の間だけでなく、宇宙をも含めたすべての物体が持っている。これを「万有引力」という。 この万有引力は、イギリスの物理学者・数学者であるアイザック・ニュートン(一六四二〜一七二七)が発見した。彼が二二才の時、通っていたケンブリッジ大学がペストのために休校になって、故郷のウルスソープ村に帰っていた頃のことである。 ある日ニュートンが家の庭で、月の運動について考えごとをしていると、目の前でリンゴの木からリンゴが一つ落ちた。ニュートンはそれを見て、「なぜ月は落ちないのか」と不思議に思った。そして、「今リンゴが落ちたのは、地球がリンゴを引っぱっているからではないだろうか。そして、その力は宇宙にまで届いていて、月をも引っぱっているから、月はどこかへ飛んで行かずに地球の周りを回っているのではないか。」と考えたのである。 そして、月や惑星の動きをもとに、引力のはたらき方の計算式をたて、「万有引力の法則」(万有引力の大きさは、引き合う二物体の質量の積に比例する)をうちたてた。 万有引力は離れていてもはたらく力である。月が地球の周りを回るのも、潮の満ち干きも、すべて地球と月の間に万有引力がはたらいているからである。 ニュートンは、万有引力の発見のほかにも、光の性質についても大きな発見をし、優れた性能を持つ反射望遠鏡を作ったことで有名である。 


オームはどのようにしてオームの法則を考えたのですか。

 ゲオルク・ジーモン・オーム(一七八七〜一八五四)は、ドイツの物理学者である。 ケルンのギムナジウムの教師をしていたオームは、学生用の実験器具を組み合わせて、電流の研究用に自分の実験装置を作り、実験を繰り返した。 一七九九年にイタリアのボルタ(一七四五〜一八二七)が電池を発明してから、一九世紀初めにはいろいろな電気学上の発見がなされたが、電池の強さにより結果がマチマチであったりして、統一的な法則には達していなかった。オームがはじめて、電流の法則の公式化に成功したのである。 オームは、電池や熱電対で生じる電気の強さ(起電力 …電圧のこと)を一定にして、導線の長さをいろいろ変え、流れる電流の大きさを測定した。そして、「電流の大きさは、電圧に比例し、抵抗に反比例する」という「オームの法則」を発表した。 この法則は、当時のドイツ学会ではなかなか認められなかったので、大学教授になるというオームの夢は、なかなかかなわなかった。しかしオームの研究は、フランスやイギリスで高い評価を受け、一八四一年にはロンドンの王立協会がイギリス学会最高の栄誉をオームに与えた。そこでやっと、ドイツ国内でもオームの法則が認められ、六二才の時にやっと彼は大学教授になれたのである。 オームの法則は、電気学上の最も基本的な概念を明確に関係づける重要な法則である。オームの名前は、電気抵抗の単位「オーム」に残っている。 


なぜ冷蔵庫やクーラーは冷えるのですか。

 冷蔵庫やクーラーは、現在では生活の必需品となっているが、どのようなしくみで冷えるのだろうか。 物質が、固体、液体、気体と形を変える時には必ず熱が移動する。夏に庭に水をまくと、まいた水が地面の熱で蒸発し、気体になる時に周りの熱を奪い涼しくなる。また、注射の前にするアルコール消毒が、スーッと腕に冷たく感じるのも、アルコールが蒸発する時に皮膚の熱を奪うからである。このように、液体から気体に変化する時の熱の移動を気化熱、気体から液体に変化する時の熱の移動を凝縮熱という。冷蔵庫やクーラーも、実はこの気化熱、凝縮熱の働きによって冷えるしくみになっている。 気体、液体の状態を繰り返し、気化熱、凝縮熱を運ぶ物質を冷媒といい、冷蔵庫やクーラーの冷媒はフレオン(フロン)という気体である。低温低圧のフレオンをコンプレッサー(圧縮器)で圧縮し、高温高圧なガスに変え、庫外のコンデンサー(放熱器)に押し出す。コンデンサーで放熱しながら高温高圧の液体に変化する。冷蔵庫は後ろ側で放熱し、クーラーは室外ファンによって熱を部屋の外へ吹き出すのである。 液化した冷媒はキャピラリチューブという装置で気化しやすいように減圧され、冷却器で気化される。この時、周囲から熱を奪い、冷蔵庫は庫内を冷やし、クーラーは室内ファンで冷気を送り込こんで部屋を冷やすのである。役目を終えた冷媒は、サクションパイプを通り、またコンプレッサーへ戻り、再び圧縮へと繰り返される。 


なぜ虹は円形になるのですか。

 虹は太陽光線が水滴に入るとき、波長(色)の違いで分かれ、水滴から出るときに再び分かれる。そして、私たちの目に到達するときには色ごとにわずかに別の角度(方向)からやってくるため、七色という表現が生まれたのである。 虹には水滴内で一回だけ光を反射させるふつうの虹と、二回反射させる副虹とがある。副虹のほうは色が薄いので、ふつうの虹にかぎっていうと、大切なのは入射した太陽光線に対して、反射光線の折れ曲がる角度が、紫色で四〇度三六分、赤で四二度一八分ときっちり決まっているということである。このように色によって反射する角度が違うため、虹は色づいて見えるのである。 それではなぜ虹が円形になるのだろうか。ものを見るためには、光が自分の目に飛び込んでこなければならない。そして、それを見る目の位置が大切になる。太陽光線は空からたくさんの光が平行にやってきて、空間のここかしこで四二度曲がるとほぼ反対向きに反射していく。この反射光を目に受ける立場で考えると、太陽光線を背にして、太陽と自分とを結んだ直線に対して四二度の方向の光だけが、太陽光として目に入る。中心点(太陽の逆方向の点)と四二度食い違う方向は、丸くなる。 上、左、右に同じ角度のものだけが、虹として目に入る。当然、下側にもあるのであるが、ふつうは地面や建物にかくれて見えない。仮に三階建ての屋上から、水道ホースで霧をつくれば、全円の虹が見れるかもしれない。要は、目に対して一定角度の方向というのは、結局、円になるのである。


ラジオでなぜ遠い国の放送を聞けるのですか。

 一九三六年(昭和十一年)ドイツのベルリンでオリンピックが開催され、日本の人々はその様子をラジオ放送で知ることができた。これは録音ではなく生放送であった。現在ならば静止人工衛星を使って、これを鏡としてラジオどころかテレビ画像できれいにものを伝えられる。しかし、昭和十一年という昔でもラジオではベルリン放送を聞くことができたのである。さらに昭和一七年〜一九年頃には、当時同盟国であったドイツから、やはりラジオの声がそのまま東京に入り、再び日本各地に送られた。 ドイツからの電波は、地球の周囲のある電離層での短波の反射を利用したものである。地球の上空十┅くらいまでは対流圏といい、天気に関係する空間である。ところがそのずっと上空一〇〇┅ほどの場所では空気がほとんどなく、太陽光線が強くあたり、わずかばかりの空気の分子中の電子をはがしてしまう。これをイオンといい、地球の周囲にはイオン層という、電気的に特殊な空間がある。九〇 ┅以下をD層、九〇〜一四〇┅をE層、一四〇〜四〇〇┅をF層といい、それぞれの構成物質は窒素イオンや酸素イオンなどさまざまである。この希薄なイオン物質が存在する層に波長の短い電波がやってくると、うまくはね返って再び地上にもどるのである。静止人工衛星の高さは四万┅あまりであるから、電離層はこれよりずっと低く、ヨーロッパからは数回屈折して日本に入ってくるのである。 なお電離層で反射するのは、波長が数十│以下の短波だけで、ふつうのラジオ波である中波(波長数百│)は使えない。 


なぜ地球やその他の星は丸いのですか。

 太陽の近くにある水星、火星、地球、金星や、それよりもずっと遠いオリオン座やカニ座、白鳥座など、天体にはたくさんの星がある。月も天体の一つであるが、ふつうは星の仲間には入れない。また、人工衛星も、広い意味では天を走る物体であるが、これも星とはいわない。星は肉眼で見るとキラキラきらめいて美しいものであるが、形はわかりにくい。望遠鏡を使ってみるとその形がわかり、星はたしかに丸いようである。 天体のできはじめは必ずしもはっきりせず、さまざまな説があるが、宇宙空間の中の塵が集まって、大きな物体に固まったと考える学者が多い。真空の中で小さな物質が、万有引力という互いに引きつけ合う力で固まりになるときは球形になるのが自然なようである。固まりにどんどん塵が付着していき、それに回転の力が加わって球形になり、どの星も例外なく丸くなるのである。 もしも三角や四角の星があったら、大変おかしなことになってしまう。たとえばサイコロ状の星であれば、海面のある部分で水面が垂直に曲がってしまうことになる。また砂漠状であれば、商隊のラクダの群は全部真下に落ちて、落ちた平面でまたもとのように行進を続ける、というようなとんでもないことになる。 このように考えても、星は球体であるはずで、しかもそれがいちばん自然なのである。


なぜ土星の輪は見えるのですか。

 数ある天体の中でも、ひと目でわかるののが土星である。あの特徴的な輪が帽子のつばのように広がる土星は、最も美しい星であるともいわれている。土星の輪は一六五五年オランダの物理学者ホイヘンスによって発見され、それ以来輪を持った惑星として、絵画や古地図などにも多く描かれている。 土星の輪は、宇宙船を飛ばすことによって、はっきりとしてきた。輪は土星の赤道面に一致しており、幅広く広がり、数〞程度の氷塊と小さな岩石の集まったものであることがわかった。その厚さは薄く、二〜三┅以下で、場所によっては一五〇│くらいのところもある。ただ氷も岩石片も太陽光線をよく反射するため、輪が見えるのである。しかし、もし輪の延長上に地球が存在するように、土星がかたむくと、輪そのものは見えなくなる。なぜなら、直径一二万┅の天体の帽子についている厚さ一五〇│のつばを横からながめても、見えるはずがないからである。 輪の色は半径によって多少違うため、外側からA環、B環、C環と名付けられている。最近の宇宙船パイオニア一一号、ボイジャー一一号の測定によって、C環の内側にD環、A環の外側にF、G、E環が発見され、最も大きなE円板は土星の半径の五倍にも達するということである。このような大きな輪は、そばに近づいて初めて明らかになった。 また、宇宙船から高精度の測定をすると、輪には溝状の何本かの暗線があることがわかった。なぜ土星にこのような輪があるのか、いつ頃できたのか、溝や色の変化があるのはどうしてかなどについてはまだ今後の研究が待たれるところである。


メンデルはどのようにして遺伝の法則を考えたのですか。

 「遺伝学の父」と呼ばれるグレゴール・ヨハン・メンデル(一八二二〜一八八四)は、当時のオーストリア(今のチェコスロバキア)の小さな村で生まれた。メンデルは成績は優秀だったが、豊かな家庭ではなかったため、高校を出ると修道院に入った。  メンデルは修道士になってからも植物学の勉強を続け、修道院の庭のかたすみで、エンドウを使った遺伝の実験を始めた。彼は、二種類のエンドウを別々に栽培し、何代にもわたって自家受粉させ、常に一定の形質をあらわす純系をつくり、それをもとにして、交雑実験をした。また、純系のエンドウのいろいろな形質の中から、種子の形・種皮の色・花の位置など、はっきりとした対立する七つの形質に着目し、その現れ方についてもくわしく研究した。その結果、赤紫の花が咲くエンドウと白い花が咲くエンドウをかけあわせると、次の世代では花はすべて赤紫になる。しかしその花どうしをかけあわせると、四つに一つの割合で白い花が咲くものが生まれることなどがわかった。 メンデルは、遺伝形質を伝達する単位として遺伝子を考え、遺伝子の伝わり方に一定の法則があることを発見した。これが「メンデルの法則」で、優性の法則・分離の法則・独立の法則の三つが有名である。メンデルの法則は、遺伝のしくみを考える基礎となる重要なものであるが、発表当時から死ぬまで、誰にも認められることはなかった。メンデルの死後、一九〇〇年になってようやく、ド・フリースら三人の学者が別々の研究で、メンデルが大発見していたことに気づいたのである。


アインシュタインはどのようにして相対性理論を考えたのですか。

 二〇世紀最大の物理学者と言われるアルベルト・アインシュタイン(一八七九〜一九五五)は、南ドイツのウルムにユダヤ人の長男として生まれた。スイス連邦工科大学を卒業後、スイスの特許局に勤務しながら物理学を研究し、光の性質などについて重要な論文を次々と発表した。 一九一四年にアインシュタインは、「相対性理論」を発表した。これは、「互いに等速度で運動している二つの物体の間では、自然の法則は全く同じに成り立っている」
「どのような運動をしている物体に対しても、光の速度は一定である」という原理(相対性原理)から、時間や空間は絶対的なものではないとしたのである。この相対性理論は、人々の常識をまったく打ち破る考え方で、発表された時には、完全に理解できるのは世界に数人しかいないと言われた。 相対性理論では、太陽のように質量の大きい天体の近くでは、重力のために空間が曲がっていて、そこを光も曲がって進むと考える。一九一九年には、このことが皆既日食の時に太陽の近くを進む星からの光を調べて確認され、これを機に相対性理論は脚光をあびるようになった。 また相対性理論では、時間や重さ・長さは変わると考える。たとえば、光に近いスピードで進むと、時間の進み方が遅くなる。一年ほどの宇宙旅行から帰ってくると、地球では何十年たっていたということも起きるというのである。光に近いスピードで進むと、止まっている人から見てものの質量が大きくなったり、進む方向に対して長さが短くなったように見えたりするという。相対性理論は実に不思議な世界であるが、宇宙のしくみを正しく説明する理論である。 


エジソンはなぜ発明王と言われるのですか。

 トーマス・アルバ・エジソン(一八四七〜一九三一)は、アメリカ合衆国オハイヨ州で生まれた。子どもの頃からいろいろなことに興味をもち、何でも知りたがる子であった。エジソンは、教会の中にある小さな小学校に入学したが、先生にも理解されず、結局三ヵ月しか通わなかった。その後は、もと小学校の教員であった母から勉強を習い、少年時代は新聞売りをしながら、実験や工作を続けた。 一六才の時に電信技師となってからも、エジソンは働きながら実験を続け、二一才の時、投票記録機を発明して初めて特許をとった。この投票記録機は採用されなかったが、独立して友人とともに自分の会社を作った時に、相場表示機を発明し、それが売れたお金をもとに道具や装置をそろえた工場をたてた。そして印刷電信機をはじめ、すばらしいものを発明していった。 エジソンは、一生の間に実に一三〇〇をこえる特許をとった。その中には、蓄音機・LPレコード・電球・映画・アルカリ電池・電気自動車・電気機関車など、非常に重要な発明品が数多くある。一八七七年に蓄音機を発明した時には、エジソンの研究所がメロンパークにあったことから、当時の人々は、彼を「メロンパークの魔術師」と呼んだ。 エジソンはこのように、あきらめずに、くり返しくり返し実験を重ねて、すばらしい発明品を残したので、発明王と呼ばれた。エジソンは発明について「、発明は一パーセントの思いつきと九九パーセントの努力である。」という言葉を残している。