闇呼ぶ声のするほうへ(長編小説)【第4章・私をその名で呼ばないで】
闇呼ぶ声のするほうへ
【第4章・私をその名で呼ばないで】
(19664字)
<1>闇の光と動く仮面、金色のヘビのこと
(7429字)
それは、ひどく面倒な依頼だった。
現場の学校は、春休み期間中。私たちが作業する間は校内を無人にしてほしい、と依頼主に頼んでいたにもかかわらず、校内から人がいなくなったのは結局、その日の夕方。作業は、すっかり日が落ちてからとなってしまった。
私、御崎真緒子と、安達玄しかいない、夜の学校。
でもそこに、静けさはなく。
人ではないモノに満ち満ちた、たいへんにぎやかな現場だった。
私と玄はその教室を出て廊下を数歩歩き、隣の教室の引き戸をガラガラと開けた。宙に浮く黒いヘビ、レイが、先に教室に入ったところで、私たちも、そうっと中をのぞく。そして、その教室の有様が目に入ってきたとたん、私の口から「ええ……」という、落胆の声が漏れた。
「さっきの倍、とか……玄、もういいんじゃないかな。レイに、いっぺんに吸い込んでもらっちゃおうか……」
「だめだよ。生徒さん、ここにいるかもしれないから。一緒に頑張ろう?」
玄は下げていたバッグから、滋養強壮ドリンクの小瓶を出し、栓を開ける。私はため息をついてその小瓶を受け取り、きゅっと飲み干した。
でも、目は離さない……教室にいる数多の、もやのような邪や死霊たちが、色を変え形状を変え蠢いている。絶対触りたくない、と思える粘液性のありそうな見た目のモノ。人の髪の毛によく似た形態で、ずるずると這うように移動するモノ。こんな暗がりでもそれらは、はっきりと視えてしまう。
奴らの動きから視線は外さず、でも目の焦点は合わせずに、警戒する。
奴らと、目を合わせてはならない。対峙するときの、基本中の基本。
「うう。しょうがないなあ……じゃあまた、分別から?」
「そうなるね」
玄は空き瓶を受け取ってバッグにしまった。バッグと反対側の肩にベルト紐で下げていた、大きめの懐中電灯をつかんで位置を調節し、整列している机と私の足元を照らす。「転ぶなよ」と玄が言い、それぞれで携帯していたハタキを構え、私と玄は、もやに向かって足を踏み出した。
手前に浮かんでいたもやは死霊の切れっ端と小さな邪で、レイに力を分けてもらった特製ハタキではたくと、苦しそうに逃げてゆく。
その逃げた先には、私たちが『闇の球』と呼ぶ、レイが出した漆黒の、真円の球体が待ち構えていて、それらをひゅん、と一瞬で吸い込む。玄の側にも、もうひとつ。怪異専用の、高性能な掃除機だ。
玄がはたいた灰色のもやの中に、あのポワポワ光るこだまがいた。
「どうしてここに……あ、これを守ってたのかな」
玄がこだまに話しかけ、見ると玄の手に小さなヤモリが一匹、乗っていた。が、次の瞬間、すっと消える。
「この学校の家守なのかな? まとめて吸い込んでしまわなくて、よかった」
「っ、わかってたよ、本当にそんなことするつもり、なかったし。でもさあ、もっと効率よくしたい。レイ、ほかになにか、方法はない?」
「そうだな。先に要救助者を発見出来れば、少しは楽になるんだけど」
すぐそばで宙に浮いていたレイの、黒くて透明なヘビの体が、キラリ、と光った。
(それなら、闇の光を当てるのだ)
そう言ってレイが、私たちの前に移動した。蠢くもやに向かって、レイが放射した光……黒い光、とでも表現すればいいのか、その名状しがたい不思議な光が、奴らをまんべんなく刺してゆく。
すべてを見通す闇の光、名付けて、ブラック・ライト? いや、なんか違うな……そんなどうでもいいことを考えていると、その闇の光の先に、それが見えた。一部しか確認できないけれど、おそらく生き霊。もやの質感、在り方が、どことなく異なる。
私はそこにハタキを突っ込んで、他のもやを散らした。それからもう一方の手を伸ばし、それを引っ張り出す。うしろで「わあっ」と声がして、見ると玄が、私のぶっ倒れた体を受け止め、しゃがんでいた。
「真緒っ、体から離れるなら、そう言ってからにしろよ!」
「ごめん、つい」
生き霊になった私は、生き霊の手でつかんだものを確かめた。……やっぱり、人の生き霊だ。その子の、霊体と体をつなぐ魂の紐がきちんと、切れずにそこにあることを確認し、そっと手を離す。生き霊はするすると飛んで、消え去った。
「元気な子でよかった。……うん、もうこの中には、つかまった生き霊はいない」
「なら、掃除するのは後回しにして、次の教室に行こう。……真緒、戻れる?」
私が体に戻ると、玄の心配そうな顔が、私をのぞきこんでいた。
「動ける? 少し頑張ってくれれば、おんぶする」
「う、ん……大丈夫、自分で歩ける」
私は玄につかまりしっかりと足を踏ん張って、玄と一緒に立ち上がった。こちらを襲ってきたもやを、闇の球がパクパクと吸い込んでいる様子を眺める。
「にしてもこれじゃ、真緒の体力が続かないだろ。その、闇の光を当てるのは、どう? 体力削られない?」
「たぶん……闇の球より、楽」
「じゃあ今夜は、要救助者の捜索に集中しよう」
結局そのあと、校内をすべて確認してまわり、さらに3人の生き霊を解放したところで作業を中断し、連絡のために理事長室へ移動した。
何人かの生徒が、原因不明の昏睡状態になってしまった、という案件。生徒たちの霊体は体にはなく、生き霊になったその魂の紐をたどるとみな、学校に行き着くことがわかり。でも校内で、その紐も姿も、邪やその他の大量の霊に取り込まれ、隠されてしまっていたのだ。
この学校の理事長に電話をし、状況の確認をお願いする。折り返しの電話で、把握していたすべての生徒の意識が戻ったことがわかり、私たちはひとまず安堵した。
「明日は、朝から立ち入り禁止にしていただけますか。ええ、まだ危険が……いえ、そちらのご事情もわかりますが、ここで手を抜くわけには……ああそう、あの仮面なんですが、まだ動くんですよ。こちらも中途半端にすると、持ち主の手に戻ろうとするかもしれま……え、していただけます? それではそういうことで。作業はまた、明日の朝から再開します」
理事長室で玄が、自宅にいる理事長との電話を切ったところで。その重厚でご立派なデスクに載せたままの、背筋がザワリとするグロテスクなデザインの仮面を眺めながら、私は言った。
「『まだ動くんですよ』、だって。嘘をさらりと挟んだね」
その仮面には様々な邪、死霊のカケラなんかがまとわりついていたが、それはすでにレイがきれいにし、さらに結界を施してあった。
「交渉術、なの。でも実際、嘘で済めばいいけど、これ……放っとくとまた、なにか取り込みそうじゃないか?」
(それは、否定しないのだ。ちゃんと供養してやったほうが、そいつもよく眠れるのだ)
「だよね……ああもうっ、面倒くさい! 元はといえば、理事長がこんなヘンなお土産なんか持ち込むから、学校が邪と死霊のたまり場になってしまったのに! 仮面なんてダメ中のダメに決まってる、マンガ読む人間なら常識だよ!」
「ふふっ。でもよくこんなの持って……飛行機にも乗って帰ってきたんだよね。ある意味、すごい人だな」
「学校にこんな、自分の悪趣味コレクションを保管してるとか、職場に、だよ? 厚顔無恥すぎる」
「それだけ強い、ってことじゃないか? 立場のある人だから、これだけのモノを持ち歩いたりコレクションしたり出来る精神力が要るんだよ、きっと」
打ち合わせで最初に会ったとき、私は理事長氏への生理的嫌悪感から、ひと言も口を聞けなかった。横で玄が平気そうに話すのを見て、あとで尋ねたら、『大丈夫、まだ教育者としての良心は、残ってる。そんなに悪い人じゃないよ』なんて答えが返ってきた。
「本当に強いのは、玄のほうだと思うけどな……」
「ん、真緒、なんて?」
「なんでもない。レイ、この部屋にも結界、貼っておいて。それで、今日はもう引き上げよう」
(わかったのだ)
さらに念のため扉にも、知らないでうっかり入室されないよう、レイに術をかけてもらい、私たちは学校をあとにした。
+++
『レイ……レイヴン、お願いだ。俺の視る力を、呼び起こしてくれ。そして、真緒。真緒はそれを、許してほしい』
玄がそう私に告げた日から、2年が過ぎていた。
あのとき。散々反対して、ケンカもして、それでも結局。
最終的にはすべてが、玄の思惑通りになった。
玄は、自分が大学を卒業する前から、私と同じ場所で働くことを考えていた。
『俺にも、真緒には遠く及ばないけれど、霊的なものを感じる力があるのだと知った。それならそれを役立てたいし、なにより、真緒をいちばん近くで……守りたい。とは言っても現状、俺は足手まといだろうし、俺になにが出来るのか正直わからない。だけど、それでも。俺は真緒の近くにいたいから』
『これからもずっと、真緒のそばにいたい。そのためにも、レイを知りたい。頼むから、それを受け入れてくれないか』
私はもう、それ以上抵抗できなかった。
レイに視る力を呼び起こされ、彼が初めてレイの姿を視、声を聞いた日。
『……やっと、真緒と同じものを視れた』
そう言って、本当にうれしそうに私を抱きしめる彼に、彼の背に回した腕に力を込めることで応えながら、私は。
この仄暗い喜びはなんだろう、と思った。
これでもう、彼は永遠にここにいてくれる。罪悪感……共犯者? 違う、悪いのは私だけ、ずるいのも私だけだ。こんな、誰からも愛される人をどうして……私が彼を、縛りつけていいわけがない。
だって彼には、私を選ばない、という道があるのに。
私とレイは、この世界では異質、非日常で。
この先、ずっとそれと関わって生きてゆく人生なんかじゃなくても、いいはずなのに。
……それから。
高緒叔母に彼を紹介して、彼は、私と真剣な交際をしていること、仕事でもパートナーになりたいことをはっきりと叔母に告げた。そして、それまで勤めていた会社を辞めて、叔母の会社、御崎コンサルティングに正式に入社し、私の同僚となった。
入社後、彼は海藤さんから、霊能力者のサポート業務を学ぶことになった。それは冷静に考えて、霊視能力しかない彼には、実際の業務を遂行することは出来なかったからだ。
高緒叔母が、私と玄に話してくれた。
『サポートは増やしたかったんだ、助かるよ。サポートのおかげで、私も他の霊能力者も、作業に集中できるようになったんだ。海藤たちがいなかった頃の私は、すべてひとりで抱えていたよ。そりゃあ家には、ほとんど帰れないさ』
私が叔母の仕事を手伝うようになってからは、海藤さんが、私の代わりに依頼者と打ち合わせをし、調整をしてくれていた。
あれを。叔母はすべて、ずっとひとりでこなしてきたのか。
私には、ちょっとどころではなく無理、絶対に出来ない、と思う。
『サポートが相手にするのは、物の怪よりも人間ですから。安達君は、そこのところが得意そうなので、なによりです』
と、海藤さんは穏やかに笑う。
『私に視る力はありませんが、どうにか高緒様のお役に立てていると思います。安達君ならもっと、真緒子さんの力になれるのではないでしょうか。ええ、焦らず、ゆっくりでいいんです。ひとつずつ、やってみましょう』
そうして。
しばらくは、私と海藤さんのチームに玄が加わる形で、三人で仕事をした。
そのうち、そこから海藤さんが抜け、私と玄だけで仕事を任されるようになり。
気がつけばふたりで、いくつもの依頼をこなしていた。
+++
その晩は近くのホテルに泊まって、次の日の朝。
私たちはまたあの学校に戻り、掃除を再開した。
まず、前日見つけたこだまやヤモリのように、巻き込まれてしまったモノや、ほかの生き霊がいないか、『闇の光』で確認。そのあと昨晩とは方法を変え、もやのすべてを『闇の球』で吸い込まず散らすだけにし、害のありそうな、面倒そうな邪や死霊、そのなれの果てだけを選んで、レイに消してもらう。それを教室ごとに行い、全校を巡った。
すべてを闇の球で吸い込まなかったのは、私の体力の問題もあったけれど、より自然な状態に戻せればいいのでは、というレイの提案からだ。
(完璧な場は、あり得ないのだ。戻れない邪だけ、消せばいいのだ)
つまり、雑魚は見逃す、ということ。
そしてこの世には、そういう小さな無秩序が適度にあることが、自然、なのだそうだ。
仕上げに、要所要所に清めの水や塩を撒き、レイの術をかけ、怪異のヘンな吹き溜まりが出来ないように調整する。清められた箇所を嫌って逃げ出すモノもいれば、そのまま漂っているモノ、なかには消えてしまうモノもいた。
そうして、私たちの校舎での作業は終了した。
あとは、時間をおいてまた様子を見に来るのと……あの仮面の、始末。
供養を兼ねたお焚き上げをしよう、ということになったが、「依頼主には供養、とだけ説明しようかな」と玄はしっかり意地悪なことを考えていた。あの仮面がまだこの世にあって、元の持ち主を探しに舞い戻る可能性がある、少しはそう思わせてもいいだろう。それくらい面倒な案件だったし、巻き込まれた生徒やその他諸々は、たまったもんじゃなかった。
因果関係が立証できない以上、昏睡状態になった責任を、あの理事長が負うことはないのだ。
燃やした灰には清めの水をかけ、レイに指示された場所に少しずつ撒いた。そうしてあの仮面はやっと、この世からいなくなることが出来た。
+++
私が大学を卒業してから、もう2年。
まだ大学に通っていた頃に生まれた従姉の娘ももう4歳、その年の誕生日が来れば、5歳。
時間、年月がその速度を上げはじめたのは、学校というものに通わなくなってから、ではないかと思う。まあその速度も、いまに比べたらまだまだ緩やかで……それはさておき。
私と同じ……祝福を受け、夢で名付けられた彼女の名は、華緒子、といった。
季節の折々に本家で顔を合わせる程度で、小さな彼女とはしゃべったことがない。私はどうやら、彼女の母である従姉に、避けられているようだった。
従姉は、彼女が私と会うことで、彼女の能力を発現させてしまうのを、恐れている。それに気がついたのは、従姉が高緒叔母にも、必要でない限り会わせていない、と知ったからだ。
実際、会う会わないでどれほどの影響があるのかは、わからない。
それよりも。従姉の夫は、どれくらい事情を理解しているのだろう。私の両親のようにならなければいいのだけれど、と思う。
「華緒子ちゃんのヘビ。あれは金色、だよね。俺にはよく視えなくて」
玄のアパートの部屋で、彼が言った。ちなみにここは、学生のときから住んでいたアパートとは別のアパートで、玄はうちの会社へ入社するタイミングで、御崎本家に近いこちらに引っ越している。
本家での堅苦しい挨拶の場から抜け出してきた私は玄を連れて、彼の部屋に避難していた。
玄はどうしてか、華緒子ちゃんに懐かれていた。海藤さんの手伝いで本家に出入りする彼に、空いた時間、遊んでもらったのがきっかけだったようで、彼女にとって玄は、退屈な本家で唯一遊んでくれるやさしいおじちゃん、になっていた。
大体玄は、海藤さんの息子さん、あのいつも無口で無表情な少年とも、普通に話をしている。私とは、ほとんどまともに話したことがないのに。
むう、と眉根を寄せていると、玄が顔をのぞきこんできた。
「真緒? どうした?」
ベッドを背もたれに、フローリングの床に洋風な座布団を敷いて並んで座っている私たちの前には、前のアパートから持ち込んだ、あの折り畳みの小さなテーブルがあった。テーブルにはインスタントコーヒーが入ったふたつのマグカップ。それからレイが、体の半分から上を起こした状態で、私たちを見ていた。
「なんでもない。そう、金色のヘビ様。あのヘビ様、気配をあんなに殺して……レイもそうだったの?」
(よく覚えていないのだ。自分に名がなかったときのことは、おぼろげなのだ)
「……私、17年もレイを待たせてしまったから、さ」
(自分に年月は、関係ないのだ)
私はレイの喉元を、グリグリと撫でた。そうやってわざと、許してもらったかのようなことばを言わせて、レイに甘えている……そして玄にも。
「華緒子ちゃんにも、悪いことしたかな。大好きなおじちゃんを、横取りしてしまって」
「秀悟に頼んできたから、大丈夫だよ」
「え」
秀悟、海藤さんの息子さんは小学校高学年、大きくなったとはいえ、あの子に幼い女の子の面倒が見れるものなのだろうか。玄が大丈夫って言うのなら大丈夫なのだろう、まあいいか。そこでそう済ませてしまうのが、私の冷たいところだ。
……私は。華緒子ちゃんに『罪悪感』を感じていて、それと同時に、そんな自分を許している。
華緒子ちゃんを、私の代わりに矢面に立たせてしまっている、ずっとそんな気持ちが抜けなくて、でもそれでいい、とも思っている。
本当に。自分本位の、冷たい人間だな……。
「それより。真緒、お見合い勧められてただろ」
「ん、ああ……まあ、いつものことだよ」
「断った?」
「っ、当然! なんでそんなこと訊くの?」
「なんでって、嫌だから。よいしょ、っと」
彼は体を起こし、折り畳みテーブルを少しだけ前にずらした。何事、と思っている間に彼が、自分の足の間に私を挟めるように移動して座り直し、私はうしろから抱え込まれる。
肩と首に、彼の顔と吐息の熱が急に感じられて、くすぐったい。私の頬をかすめた腕に、思わずしがみついた。
そういえば。出会った頃ずっと意識していた、彼のあの匂いが、だいぶ薄らいだように感じる。長い時間を共に過ごしているうちに、なじんでしまったのだろうか。
「信用、ないのかな。私、玄を不安にさせている?」
「信用は、してる。でも、そうだね。俺はまだ不安なのかも」
なんで、そんな。どうしたらいいわけ……?
ことばを失っていると彼の両手が、左右それぞれの私の手を取る。そして彼の声が耳元で、内緒話のように囁いた。
「独占欲が強くて、ごめん。真緒、俺と結婚して」
私はしばらく、ことばの意味が理解できなかった。
私の指をなぞる彼の手の動きを、私はぼう然と見つめる。そしてその先に、レイの黒いつぶらな目があってそれとぶつかり、レイが首をかしげた。
(真緒子の顔が、赤いのだ。熱が出たのか?)
<2>ブラックドレスとヘビ様の夢、オカアサンのこと
(6359字)
そうして。私と玄は、結婚することになった。
あのプロポーズが4月で、入籍したのがその二か月後の、6月。
結局、結婚も彼の思惑のひとつだった、ということで。
だけど私は。入籍するまでの二か月間、かなりの抵抗をしてみせた。
「私なんかでいいの、って真緒は何度も訊くけれど。俺はもうずっと前から、どうやってここまで漕ぎ着けようか、考えてたからね。もう戻れないけどいいの、とか……言ってる意味がわからない」
なかなかうんと言わない私に対する玄の口調は、非難するようなものではなく、どこまでもやさしくて、少し楽しそうだった。
私が単に、確信の持てることばが欲しくて、玄に甘えているだけ。玄はきっと、それをわかっていたのだろう。
「俺としては、レイに視る力を呼び起こしてもらった時点で、結婚したような気になってたから。レイも、そうだろう?」
(玄は、それよりもっと前から真緒子の番いなのだ。自分が目をつむらなかった接吻から、)
「っ、レイ、それ以上言わなくていいからっ」
「……そうか、レイはもうそこから、俺のこと、認めてくれてたんだな」
(真緒子が、玄を選んだのだ)
「だよな。なのになんで、結婚に尻込みするんだろうな?」
「ちょっとそこ、ふたりで結託するの、やめて」
「真緒は、結婚が嫌なの? 全然うれしくない?」
「そんなことない、でも、いろいろと、」
「よかった、ちょっとはうれしい? それなら……」
そこからはもう、彼のペースだった。私が不安に思っていることをひとつひとつ取り上げ、それらをどうするか、彼は具体的に説明し説得し……いままで彼に勝てたことのない私に、これ以上なにが出来るというのか?
たった二か月間で。
彼は、高緒叔母や海藤さんへの報告、自分の家族への紹介(ここで生まれて初めて飛行機に乗せられた)、指輪の購入、婚姻届の準備、各方面へ知らせるハガキの発注まで済ませた。
そして「俺が婿入りしたほうが、波風立たなそうだから」というだけの理由で、玄は御崎姓を名乗ることに決め、安達玄から御崎玄に改名後の諸手続きの準備すら、終えてしまった。
「式を挙げなくていいなら、あとはもうスピードだけだから」
私が言った「式なんか挙げたくない、あんな親戚たちに披露してなにが楽しいの」が、『挙げなくていい』という解釈に変わっている……。
玄に渡された、私の名前だけが未記入の婚姻届を、前に。
いたたまれなくなった私は、佐倉に電話をかけた。
+++
佐倉は大学を卒業して、そのままその土地の会社に就職した。
前のアパートからは引っ越して電話番号も取得、なのに私たちは、そう頻繁には連絡を取っていなかった。
社会人になって、佐倉がますます忙しくなったのも、ある。私の仕事も、時間が不規則で、都合が合いにくかったのも……あるのだけれど。
社会人になってから、佐倉からの手紙に写真が挟まれてくるようになった。
はじめのころは使い捨てカメラ、途中から割と本格的なカメラを購入しての撮影になり、その写真技術の上達っぷりは、そちらに詳しくない私でもわかるくらいだった。
佐倉の目を通して見る、世界。
それを私に教えてくれるのが、うれしかった。
なのに私は、ほとんど返事を出していなかったし、電話もかけなかった。
……玄との時間ばかりを、大事にして。
『はい、佐倉です』
佐倉の声に、私は妙な安心感を覚えた。
「もしもし、御崎です」
『御崎? どうしたの?』
「いま、大丈夫?」
『いいよ。なにかあったの?』
普段は忘れていて、こんなときばかり頼るずるい私、佐倉はそれに対して文句を言わなかった。まるで高校時代、ふたりで図書室にいたときのように、話を聞いてくれる。
『まずは、おめでとう』
話を聞き終えた佐倉が、言った。
『お幸せに。それと、新婚旅行は? それだけ、話が出てこなかった』
「っ、私が言ったのは、」
『不安だ、って? みんなから愛される安達先輩と結婚するのが、御崎でいいかどうか? よく言うよ。彼をほかの誰かに渡す気なんか、これっぽっちもないくせに』
私は黙り、佐倉はしばらく私の返事を待ち、そしていつもより低い声で、こう言い放った。
『御崎は、さあ。ほかの誰でもない、安達先輩に恨まれたくないんだよね』
……そのことばは。私の胸を的確に刺し、ひどく痛んだ。
受話器を持った手から力が抜けそうになり、もう片方の手でそれを支える。
そう、だ。
私は……いつか彼が、私を選んだことを後悔するのではないかと、恐れている。
私も、母のようになってしまうのではないか、と。
ふたりで過ごしていても。
いつも心のどこかで、思っていた。
佐倉が『返事がないのは図星、ってことか』と言い、そのまま続けた。
『求婚してきた相手にそんなこと考えるなんて、ひねくれ過ぎじゃないの? 彼が御崎を恨むわけ、ないのに。でも私がそう言っても、彼が言ったとしても、御崎はきっと、納得しないんだよね? もう……それなら、さあ。もし彼が御崎を恨むような事態になったら、レイの力で、どうにかしてもらおうよ』
途中から、佐倉の口調が変わっていた。
『なんか、出来そうじゃない? その恨みをなかったことにしてもらう、とか……発想が雑だけど、そこは流してもらって。まあ、だから心配しないで、立派な悪役になりなさい。安達玄よ、お前はもう私から逃れることの出来ない、憐れな子羊だ、ってさ』
「悪役……憐れな子羊?」
『そう。安達先輩が愛されキャラなら、御崎の役どころはもう決まってる。よし、式のドレスもブラックで、って、式は挙げないのか』
「ブラックな、ドレス……っ、ふっ」
脳裏に、黒いドレスを着て、レイを腕に纏う自分の姿が浮かんで、思わず口元が緩んでしまう。
そうか。私の役どころは、消去法で決まっていた。
なら、恨まれてもいい、というか、恨まれる役どころでないといけない?
無茶苦茶な、理屈。でも。
彼に後悔させない、という自信はまったくない。
だけど開き直ることなら、出来そうな気がする。
私を恨みたかったら、恨めばいい。
もしそうなったら、レイにその恨みを消してもらう……ことは、しないけれど。
玄に恨まれてもいいのだ。
だって私は、悪役なのだから。
……それで、いいのか。
『ああ、それなら、ドレス着た写真だけ撮りなよ。レンタルしてさ。新郎は正義の真っ白タキシード、新婦は悪のブラックドレス、その手首には黒いヘビ。新婦のメイク、きつめにしとこうか?』
「レイが一緒に写らないと意味ない、っていうか、私だけ、勢いよく滑ってる感じになるんじゃない?」
『ぶっ、そっか、そうなるかも』
そういえば。玄との写真を、私はほとんど持っていない。ただ、佐倉との話が頭のどこかに残っていて、入籍した日は使い捨てカメラを買って、写真を撮った。
現像した写真には、やっぱりレイは写っていなかったし、しまったことに彼らにお願いするのを忘れていて……レイと同じで、写らないだろうと思っていたのが、とんでもない仕上がりになってしまって。それでも私はそれを焼き増しして、佐倉に送り付けた。
『これが話していた、こだま? これ、巷でオーブと呼ばれてる、怪奇現象の一種だよね。オーブの数が尋常じゃない、立派な心霊写真をありがとう。まあ、悪い霊が写ってなくてよかったけど、今度は新郎の顔がよく見える写真を送ってください。』
佐倉は、そんな返事を書いて寄こした。
+++
そして私は、あの夢を見たのだった。
とてつもなくきれいな場所に、私はひとり、立っていた。清らかな光に満ち、その光のただ中にいるのに、眩しくない。あたりを見ると、色とりどりの花が咲いていて……でも、それは。
『でも花かと思ったそれは、神様の御遣いの、たくさんの蛇だったのよ』
いつか、母が話してくれた、夢。
ここは、あの夢の話の場所、そのものだ。
『たくさんの蛇、なんて、普通は怖いと思うでしょう? でも怖くないの、とにかくすごくきれいで、美しくて……』
ヘビ様が、たくさん……何十、何百といるように、見える。この場所で咲く無数の色、その透明で光を帯びた体が、現れたり消えたりしている。よく見ると黒いヘビ様もいて……でもあれは、レイではない、と思う。
ここは、誰かの記憶が集められた場所……理由もなく、そんな考えが浮かぶ。
どうして私は、こんなところに呼ばれてしまったのだろう。
『……ぼうっと眺めていたら、ことばが聞こえてきたの』
ぼうっと、ヘビ様たちを、眺めていた。
そして……音のない声が、頭の中に直に触れるかのように、響いた。
(胎に宿る、汝の子。この我が末を、………、と呼ぶ。従者と祝福を授かるその先の、そのすべてを我は許そう)
私はその声を、知っていた。
あの、蛇神に身を捧げた巫女の声。
『不思議なんだけど、マオコ、という名前がどういう字なのか、すっと頭に入ってきたのよ』
私の頭の中にも、その名前と文字は、すっと入ってきた。
だけど、その名前、それは……。
目が覚めた私は、真っ先にレイを呼んだ。
「レイ……私、どうしよう」
手に乗ったレイが、首をかしげて私を見つめる。
「おなかの中にいる子は、女の子で……じゃなくて、ええっと、どうすればいい?」
(ただ、知らせたかっただけなのだ)
レイはいつものぶっきらぼうな調子で、そう答えた。
(そのときが来たら、産めばいいのだ)
「まあ、そうなんだけど、それしかないんだけど!」
結婚してすぐの夏を越え、秋も本番を迎えていた、新月の夜。
今月に入って過ごしやすい気候になったのと同時に、つわりが徐々に治まり。私にも、少し先のことを考える余裕が出はじめた頃のことだった。
夏の盛りに妊娠が発覚した私は、はじめのうち玄に、半分程は正当な八つ当たりをし、文句を言い。それでもうれしそうにしている玄を見て、私は本当にとんでもないことをしてしまった、と、ある意味我に返った。
あの安達先輩を、私がこんな、見方によっては病んでるとも言えるキャラにしてしまった……いや、独占欲が強くて溺愛が過ぎるだけ、それに私が知らなかっただけで、元々こういう人だったのだと思いたい。私のせいじゃない、たぶん。
それでも、うれしそうな玄を見ていたら、まあいいか、という気になってきて。いろいろ不安はあるけれど、ゆっくり考えればいいよね、と諦念交じりに思った矢先、つわりに襲われ……。
それがやっと、落ち着いたところだったのだ。
そうだ、名前。名前を考えなくてはいけない。まだまだ時間はあるし、レイのときに露呈したネーミングセンスのなさを、返上してみせよう……そう、思っていたのに。
「でも、それも……まあ、いいか」
本家の自分の部屋の、畳の寝室で。
私はそうつぶやくしか、なかった。
とりあえずこの子が、無事に生まれることがわかった。ということは、私もそれまでは死なないだろう、たぶん。私は出産というものが、少し怖かった。そこで命を落とす可能性だって、なくはない。
玄のことを考えると、私はそう簡単には死ねない。
なのに、私がいなくなれば玄を解放できるのに、とも思う。
「ネガティブ思考なのは、キミがいるせいなんですかね?」
おなかをさすりながら冗談交じりに言うと、レイがそのさすっている手に体を乗せてきた。そして私のおなかを、じいっ、と見つめる。
「レイ、なにか視えるの?」
(人の子が、ここにいるのだ)
「うん、そうだね」
(人の子に呼ばれて、同胞が来るのだ)
「……じゃあ、レイも。私が呼んだから、ここに来たってこと?」
レイは私を見上げた。
レイの、透明で純粋な黒い目。これは、鏡に映った私の黒目。鏡の向こうにいる、もうひとり。でも、その穢れのない純粋な黒を、私が持つことはない……そんな錯覚を、私はたまに、レイに見ている。
もう、7年。ずいぶんと長い時を、私はレイと共に過ごしてきた。
(真緒子が自分を呼び、自分も真緒子を呼んだのだ)
「そう、なんだ……」
レイは……選んだのが私で、よかった?
そんなの、愚問でしかない。私はそれを、どこか体の奥の方に押し込み、違うことを言った。
「さて、何色のヘビ様が来るのかね。レイには、この子のヘビ様の色、わかるの?」
(まだよくはわからないのだ)
でも、あの名前……まさか、ね。
いま考えても、しょうがない。
布団に体をそっと横たえ、もう一度布団をかぶり。
とにかく眠ろう、と思った。
寝室の、見慣れた天井の木目を、ぼんやりと眺める。
レイが枕元で、くるりととぐろを巻いている気配がする。
結婚した私たちは新居を構えることをせず、玄のアパートで暮らしはじめた。が、妊娠がわかってからは、アパートと本家を行ったり来たりの生活になっていた。
それというのも、私に家事能力がまったくなかったせいで、玄が仕事でいない日は、私は必然的に本家に泊まることになる。
玄は私がつわりで休んでいる間、会社に所属する他の霊能力者のサポートをしたり、依頼先の下調べに出掛けたりしていた。体調の落ち着いてきた私も、そろそろ仕事に復帰したいところなのだが、玄がまだ許してくれない。
出張に出掛けた玄が帰ってくるのは、2、3日あとのこと。
玄が帰ってきたら、話さなくては。
高緒叔母に話すのは、そのあとでもいいだろう。
……ふと、母のことを思い出す。
お母さんは……お母さんも。
おなかの中の私と一緒に、こんな気持ちを抱えていたのだろうか、と。
+++
帰宅予定日を、過ぎても。
玄は、出張から帰って来なかった。
玄は運転していた車で、事故を起こした。
彼はある場所で、車のハンドル操作を誤ってなにかに乗り上げて横転、そしてそのまま車体が隧道の入り口の壁に衝突。同乗者はなく、他の車や人を巻き込んだりすることもなかった、と聞かされた。
搬送先の病院に行っても、私は玄に会えなかった。
まだ、生きてはいる。でも、予断を許さない状況だ、とかで。
そんな、玄のほうがいなくなってしまう結末、なんて。
私は想像もしていなかった……。
……嘘、だ。
私は、私が彼の人生を狂わせてしまうかもしれないと、知っていた。
あのとき。
レイが彼の視る力を呼び起こすのを、許さなければ。
同じ職場で働くのに、反対していれば。
結婚で、彼をつなぎとめたりしなければ。
彼が私を選ぶのを、私が喜んだりなんかしなければ。
どうして。どうして、私は。
『順調ですね。オカアサンは、もう少し太っても大丈夫ですよ』
『しっかりしてください。あなたはオカアサンなんですから』
『いまは玄のことは忘れて、この子のオカアサンになることだけ、考えてなさい』
……オカアサン。
それは、私の名前ではない。
私のことを。
そんな名前で、呼ばないで。
オカアサン、なんかじゃない。
そんな名で、私を縛りつけないで。
玄が呼んで、私をここに、つないでいたのに。
ほかの誰でもない、玄、あなたが。
私の名を呼ばない、そんな日が、来るというのなら。
そんな現実は、私には耐えられない。
……もし、私がオカアサンというものじゃ、なかったなら。
そう、この子さえ、いなければ。
どうなったとしても、私も玄の行くところへ一緒に行けるのに。
そこへ、一緒にいくのに……。
どれくらいの時間が経っていたのか、その頃の私には、よくわかっていなかった。
ただ毎日誰かに問い、でも、彼はまだ意識不明のままだと聞かされた。
玄の近くにいたかったけれど、叔母も海藤さんも、玄のご両親も、それを許してはくれなかった。
私は御崎の本家で、誰かに指示された通りのことをするだけ、たまに正気に返ると、大体は寝室の布団で横になっていた。
<3>写真立てと常套手段、愛人のこと
(5876字)
「御崎。久しぶり」
知っている声がして。見るとそこに、佐倉がいた。
「レイが、私を呼びに来たよ。御崎はそれ、知らなかったの?」
知らない。そういえばレイと、ずっと話をしていない。
「最初はポルターガイストか、って、ちょっとビビったんだからね。でも、写真立てばっかり落ちるから、わかった。ほらこれ、卒業式に海藤さんに撮ってもらって、レイが写ってない、ってがっかりしたヤツ。それで……電話したけど、御崎は電話口まで来てくれないし、こっちから乗り込んじゃったよ」
差し出された写真立ての写真には、高校の制服を着た佐倉と私が、学校の門の前で並んでピースをしていた。電話があったかどうか、私にその記憶はなかった。
「……昔から、きれいだったけど。人妻になって、ますますきれいになっちゃったね、御崎」
佐倉はそう言って、布団から起き上がってぼうっとする私を、正面から抱いた。佐倉の香りが、鼻に流れ込んでくる。
「ねえ。髪、洗わせてよ。御崎の髪、触りたい」
佐倉に手を引かれ風呂場へ行き、体を流したり湯船に浸かったり、椅子に座らされて頭を洗われたりした。その間佐倉が、「なにこれ、旅館のお風呂?」「おお、妊婦のヌード、美しい。ところで胸、やっぱり大きくなったよね?」「ほかにかゆいところは、ございませんか~?」などと言っているのを、私は黙ったまま、どこか遠くで聞いていた。
脱衣所の椅子に座らされて、ドライヤーを当てられ、「そういえば髪型あんまり変わってない、髪伸ばそうとか思わなかったの?」と訊かれ、私はそれにも返事が出来なかった。
「靴下、よし。湯冷めしないでよね。じゃあ、図書室に行こう」
ふたたび手を引かれ、図書室のソファに座らされた。エアコンのスイッチを入れ、棚からひざ掛けを持ち出しながら、佐倉が言った。
「久しぶりだなあ。御崎はなに読む? って、甘やかしすぎか。妊婦だって、自分で取れるよね」
そして背を向け、棚を物色し始めた佐倉を見て……私の中に、このまま抱えていたくない感情が渦巻き、喉元までせり上がるのを感じる。そしてそれを、吐き出した。
「……っ、出来ない。私の、せいなのに」
私の声に気付いた佐倉が、ソファに戻って来て、私の隣に腰を下ろした。
「マンガなんか、読めるわけない」
「布団で寝てるのと変わんないでしょ。むしろ胎教にいいんじゃ、」
「佐倉も、妊婦扱いするんだ」
「妊婦を妊婦扱いしないで、どうする」
「私は玄のところに、近くにいたいのに。みんながそれを、許してくれない。私が妊婦で、オカアサンだから、って」
「そりゃそうでしょ、いま近くにいたところで、なにが出来るわけでもないし。どこで心配しようと祈ろうと、同じことだよ。なら、マンガ読んで待ってるほうが、建設的でしょ」
冷たいなにかを、体に当てられたような感覚が、した。
「玄が……っ、死んじゃうかも、しれないのに。そんなの、」
「うん、まだわからないんだってね。でもいまは、生きてる」
佐倉はどうしてか、あの写真立てを持ってきていた。それをローテーブルに立てて置き、「レイ、レイヴン様、ここにいらっしゃいますか?」とわざとらしい言い方で、レイを呼んだ。ぱたり、と写真立てが倒れ、その横に、艶やかな黒い体のヘビがいて、佐倉を見、それから私を見つめた。
「やった、レイとの会話に成功した、やっぱりあれは、レイの仕業だったんだよね?」
(自分がやったのだ。佐倉玲花を呼んだのだ)
レイの声を、久しぶりに聞いた気がする。
「あのさ、もしも、だけど。玄先輩なら、御崎のところに化けて出ると思うんだよね」
「っ、なっ……」
「不謹慎でごめんだけど、御崎がそんな抜け殻みたいになって自分を責めるのは違う、って言いたいのもあるし。この事態がすべて御崎のせいで、彼が御崎を恨むっていうんなら、死霊になって出てくるはず。でも、いないよね、そんな死霊」
「やめて、佐倉」
「でさ。なら、生き霊は? 彼の生き霊は、いまどこにいるの? 生き霊になって、御崎に会いに来たり、してないの?」
「……生き、霊?」
私は、レイの顔を見た。
(玄はここには、いないのだ)
「それはだって、そんなの……生き霊になんか、なっていなければ、」
(体にも、いなかったのだ)
その、レイのことばを聞いた瞬間。
私は初めてレイに対して……憎悪を、抱いた。
知らず、全身が震え出すのを感じる。
「なんで……? そんなこと、いまごろ……でもレイなら、玄がどこにいるのか、わかるよね?」
(魂の緒が、淡く細いのだ。緒の行く先を理に隠されて、たどれないのだ)
「そん、な……」
それは、玄の魂の紐がもう、切れる寸前だということ。
そんな事態になっていたことを、レイは私に黙っていた。
……違う、私が取り乱して正気じゃなくなって、レイに訊けなかったから。
それもわかっていて、でも私は感情を抑えられない。
「どうして、もっと早く教えてくれたら!」
(真緒子なら、玄を呼ぶことが出来るのだ)
レイが、いつもの冷静な口調で、言った。
私はイラついた声で、訊き返す。
「……呼ぶ? 玄を?」
(だが、ひどく消耗するのだ。真緒子ひとりでは、無理だと思ったのだ)
「そんなのいい。……早く教えて。玄を探しに行くから」
「御崎、待って。なにか方法がわかったの? レイ、レイはたぶん、それを止めたんだね?」
佐倉がローテーブルに立て直した写真立てが、ぱたり、と倒れた。
「教えてよ! レイのばか、私の気持ち、知ってるくせに! でもたぶんわかった、幽体離脱して呼べば、玄を見つけられるよね? なんで気がつかなかったんだろう、じゃあ行ってくるから、」
「御崎、待ちなって」
そのまま、生き霊の体になってしまおうとした。が、レイが私の顔の前にポンッと瞬間移動してきて額をペシリ、とはたき、そうしたら私は、体から抜け出せなくなった。
「レイっ! 元に戻して! そんな術、ひどいよ!」
レイは黙ったまま、私を見つめている。
佐倉には両腕を強くつかまれ、私はせめて、それを振りほどこうと、もがく。
しばらく佐倉に抵抗して、「離して、お願い」と何度も言い、そのうち意図しない涙が溢れ出し、視界が霞み……私は次第に声を荒げ、ついには「離してよ!」と、佐倉に向かって叫んでいた。
「止めないで! っ、手遅れになってるかも、っ、そんなのやだ、離して、離して、離してっ!」
「御崎っ!」
腕が自由になった、次の瞬間。
私は口を、塞がれていた。
佐倉の両手が私の頬に当てられ、顔を固定されて。
彼女の唇が、私の唇に触れる。
一瞬にして泣き叫ぶのをやめた私から、ほんの少し顔を離した佐倉は、私の目を見、低い声で言った。
「御崎。落ち着け、冷静になれって」
佐倉が、手で私の頬の涙を撫でる。
「いますぐ、じゃなくて。ちゃんとレイに説明してもらって、準備してからでもいいんじゃない? そうしたらレイだって、止めたりしないでしょ。ね、そうだよね?」
佐倉がまた、写真立てを立てた。レイがそれを、口でつつくようにして倒した。
+++
私はそれまで、あまり食べていなかったらしい。少し自分を取り戻した私は、食堂で佐倉と食事をし、佐倉は泊まっていくことになって、寝室に二組の布団が並べられた。
「おなか、苦しくない?」
「うん、まあなんとか」
佐倉は私の、私は佐倉のほうに体を倒し、横向きに寝ている。枕元に置かれたスタンドライトの笠越しに明かりが広がってはいたが、佐倉の顔はよく見えなかった。
「レイは、いる?」
「いるよ。ここ、私の枕のすぐ脇で……まっすぐに体を伸ばして、頭だけ布団から出してる」
「添い寝、ヘビの? まさか、仰向けにはなってないよね?」
「そう、だね。うつ伏せ、かな?」
レイの頭をそっと撫でながら、私はレイに尋ねた。
「レイ。レイの話もちゃんと聞くし、ちゃんと食べて体力も戻すから……だから明日には、玄を探しに行ってもいい?」
(自分は、真緒子の望みを叶えるのだ。だが、真緒子の精力が足りなかったら、止めるのだ)
「うん、わかった。そのとき私の精力が足りていればОK、ってことだね。……佐倉は、いつまでここにいられるの?」
「忌引きと有給使いまくってきたから、結構ゆっくり出来るよ。なんなら、質の悪い風邪引いてもいいだろうし」
「あー、悪いんだ?」
「御崎ほど悪ではないはずだけど?」
「ふふっ」
笑うのも……泣くのも、久しぶりだった。でもそれが出来るようになったおかげで、胸も痛む。
玄のこと、レイのこと、そして……佐倉のことも。
「……キスされるとは、思わなかった」
迷って、でも口にしてみたら、佐倉は意外と軽いノリで返してきた。
「泣き叫ぶ女子を黙らせる、最良の常套手段でしょ。マンガで学んできたじゃないですか」
手が、伸びてきて。
私の手を探し当て、指をからめて握る。
私はそれが嫌ではなく、でも玄の手と比べていることに気付く。
骨ばっている玄の手とは違う……私の手より長くて、女性らしいきれいな手。
「ねえ御崎。私を御崎の愛人にしてよ」
佐倉が、楽しそうに言った。
「へっ、愛人?」
「でも、ふたりの幸せを、壊す気はないからさ。むしろこう……愛人の存在で、玄先輩の気を引く、みたいな」
私がことばを失っていると、そのまま佐倉が続けた。
「……私、さあ。とにかく御崎のそばにいたい、って思ってしまったんだよね。それが、いまの私の気持ち。どんな形でもいいから、そう、悪い女と言われようとなんだろうと、とにかくそばにいて、御崎の側に立つ。たとえそれで、世間からうしろ指を指されても……」
佐倉の口調は、後半から芝居がかった、クサい言い方になった。
「あの……佐倉?」
「夫とは別に愛人がいるなんて、御崎は本当に悪い女だね! ほらほら、玄先輩? 早く生き返らないと、愛人の私が御崎をおいしくいただくけど、いいの? そこで見てるかもしれないし、もう一度キスしてみようか?」
「まっ、ちょっ……」
身を起こす佐倉に、やばい私、抗えなさそう……と思っていると、佐倉は私の額に軽いキスをし、それから手を離して布団に戻った。仰向けになり、手を組んで頭の下にやり、「そうだ、もうひとつ、お願い」と、私のほうを見ないまま言った。
「レイに、私の視る力を呼び起こしてもらう件、だけど。私は、視る力を持たないことに決めたよ」
それを聞いたレイがピクリ、と反応し、布団からするりと抜け、身を起こして佐倉を見つめた。
「御崎のそばにいるために、私は、視る力を持たない。たぶんそのほうが私の場合、御崎の力になれるはず。でも、レイの姿はもう一度見てみたい、だからさ。……いつか、私が死ぬとき。死ぬ間際に、レイの姿を視えるようにしてよ」
佐倉がこちらに顔を向けるけれど、明るさが足りず、やっぱり表情は見えない。
ねえ、佐倉。
それだと、死ぬまで私のそばにいる……そう言っているように、聞こえてしまうよ。
私は、ひどい女だから。
ひどくてずるくて、さみしがりやだから、たぶん佐倉につけ込んで、甘えてしまう。
それが愛でも友情でも、なんだとしても。
「……いいよ。でも佐倉は。愛人でも、親友でもなく、それ以上の……佐倉、だよ」
私が手を伸ばすと、佐倉も手を伸ばし、握ってくれた。
「私にとって佐倉は、」
(佐倉玲花は、真緒子の番いなのだ)
いいところでレイに口を挟まれ、私は口を開けたまま、固まった。
「御崎?」
「……レイ、が。佐倉は私の番いなんだ、って。でも、玄のことも番いだってレイ、言ってたよね?」
(言ったのだ)
「言ったのだ、だって。……番いって、そういうのもアリなの?」
「どうだろ……でも、私も御崎の番いなのか。うん、なんかいいね。レイ、ありがとう。レイに認められたんなら、本望だわ」
後にソウルメイト、なんてことばを知って、レイが言いたかったのはそういうことなんじゃないか、そんなことも考えた。
でも、ことばなんて、肩書きなんて、どうでもいい。
私にとって佐倉は、佐倉でしか、ないのだ。
+++
「思ったんだけど。私が無茶をしても、おなかにこの子がいる限りは大丈夫なんじゃないか、って」
玄を探しに出発する前、私は佐倉に言った。
結局、最初にあの夢の話を聞かせたのは、佐倉になってしまった。
「この子は絶対に無事に生まれてくる。それまでは、私もたぶん死なない。まあ、意識不明のまま、帝王切開ってこともあるかもしれないけど……そんな運命を控えてる人間にあんな夢、見せないと思うんだよね。でも、現実主義な神様と巫女様なら、あり得るのか……?」
「御崎それ、どっち。楽観、悲観……いや、ここは楽観一本で行く場面じゃないの?」
「そうだよね。うん、じゃあそれで。この子が私の、最強のお守りだから。私は、大丈夫」
佐倉と私は、お互いを軽く抱きしめ合った。回された佐倉の手が、私の髪をやさしく撫でる。
私が布団にゆっくり身を横たえると、今度はその手で、私の手を強く握った。
「私は、出来る限りこうしていればいいんだよね。長引きそうだったら、トイレくらいは、行ってもいい?」
(佐倉玲花、守り袋はまだ持っているか?)
レイのことばを伝えると、佐倉は「もちろん」と言って、服のポケットからすぐ出してみせた。
「準備いいね」
「当たり前でしょ」
レイはそのお守りを口で何回かつついた。そのあと寝室の四隅に視線を送り一瞬姿を消し、すると四方から、パキンパキン、という音が聞こえてくる。それから佐倉の顔の前にポンッ、と移動してきたレイは、佐倉の額を尾でペシリ、とはたいた。続けて、私の額をペシリ、とはたく。
(守り袋の守護を強化して、この家に結界を敷いたのだ。それと、真緒子と佐倉玲花の結びつきを深くした。家の中なら、多少離れることがあっても、問題ないのだ)
レイがやったことと言ったことを聞いた佐倉は「よし、トイレはОKね。安心した」と言った。
「なにかアクシデントがあって、意識不明の妊婦と、その手を握って失禁して、泣きながらうずくまっている女子がいたら、いたたまれないだろうから」
「ふふっ、もう……トイレ、もう一回行っておく?」
「大丈夫、御崎は?」
「さっきちゃんと行ったし、仮に粗相したとしても、妊婦だから、でなんとかなりそうな気がする」
「もう……なんだってこんな話に」
「佐倉のせいじゃん」
締まりのない会話を終え、佐倉に「いってきます」と告げて。
私は目を閉じて体から抜け、玄を探す『闇渡り』への旅路についた。
【第4章・私をその名で呼ばないで】・了
【第5章・闇呼ぶ声のするほうへ】へつづく
【2023.06.21.】up.
【2023.06.24.】加筆修正
【2023.07.06.】加筆修正
++闇呼ぶ声のするほうへ・各話リンク++
【プロローグ・祝福と名付け、そして母のこと】
【第1章・私は黒いヘビの名を呼ぶ】
【第2章・貴方が私の名を呼んだ日】
【第3章・その目が私を呼んでいる】
【第4章・私をその名で呼ばないで】
【第5章・闇呼ぶ声のするほうへ】/【エピローグ・そして私は彼女の名を呼ぶ】
ご来店ありがとうございます! それに何より、 最後までお読みいただき、ありがとうございます! アナタという読み手がいるから、 ワタシは生きて書けるのです。 ありがとう、アリガトウ、ありがとう! ー➖ ー➖ ー➖ ー➖ ー➖ ー➖ ー➖ ー